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迷子の仔犬の育て方
プロローグ
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しとしとと、絹糸のような雨が降っている。
黒色のスーツの内側にも、徐々に冷たい水が染み込み始めていた。手のひらの中に握り締めた漆黒のネクタイも、ぐっしょりと濡れそぼっている。
彼の周りには常に誰かがいたが、自分の視界に入るなと重々言い含めてある今は、気配すら感じられない。恐らく、この公園の木々の間にでも潜んでいるのだろう。
たった独り、彼はその細い肩に圧し掛かる重圧を受け止める。
身に余るその荷物を、放り出せるものならそうしてしまいたい。
――だが、それが不可能なことだというのは解りきっていた。彼の他に、代わりなどいないのだから。
初秋の夕暮れ時は、濡れた身体から次第に体温を奪っていく。
不意に。
顔に感じていた雫が途切れた。
目を上げると、セーラー服が視界に入る。更に上へ進むと、傘を差しかけて心配そうに見下ろす少女の目と出合った。
「大丈夫?」
年の頃は十二、三歳ほどか。
制服だから、中学生には違いないのだろう。
落ち着いた声音だが、容姿は幼い。黒目がちで大きな目はやや目尻が下がり気味で、鼻も唇も小作りだ。背丈は、多く見積もって、彼より手のひら一枚分高い程度だろう。
「大丈夫?」
少女が、もう一度訊いてくる。そうしながら、鞄の中をかき回して、そこから真っ白なタオルを取り出した。
「これ、今日使ってないから……」
タオルを渡されるのかと思ったら、彼女が差し出したのは傘の方だった。ほとんど反射のように彼がそれを受け取ると、タオルを広げて頭に被せてくる。
「もうすぐ暗くなるよ? お家に帰らなくていいの?」
まるで、幼稚園児にでも言っているような口調だった。
彼に対してそんな言い方をする者はいないから、何だか奇妙にすら感じられる。
タオル越しに感じる手は、大きくはなかった。多分、彼と大差ない。
その手が動くたび、ふわりと何か甘い香りが鼻先をくすぐった。
「びっしょりだねぇ。風邪ひかないといいんだけど。上の弟はすっごい元気で、サッカーやっててね、よく練習中に雨に降られたりするんだけど、どんなに濡れて帰ってきても、全然平気なの」
柔らかな声と髪を拭く絶妙な力加減が心地良く、彼の肩からは自然と力が抜けていく。
「君は四年生ぐらい? うちの弟も同じくらいだよ。わたしだったら、弟が暗くなっても帰ってこなかったら、心配になるけどな」
――だから、帰ったら?
暗にそう言いたいのだろう。
彼はタオルの陰でふっと笑みを漏らした。
全く知らない者にとっては、自分はただの子どもだ。
何となく、そのことが嬉しい。
「……厄介な役割を押し付けられたので、何だか逃げ出したくなっていたんです」
無性に彼女に話を聞いて欲しくなって、でも、全てを話すには全然時間が足りなくて、彼は曖昧な表現を口にする。本当は、そんな簡単なものではなかったけれど。
「厄介な役割? 学級委員でも押し付けられたの?」
学級委員――あまりにも可愛らしい「役割」に、彼は苦笑する。
彼ぐらいの年齢で「役割」と言えば、きっとその程度なのだろう。
だが、彼は学校というものに通わされたことはなく、まともに会話を交わせる年頃になってからは、通常の勉学はおろか、経済学や帝王学などを叩き込まれていた。
「まあ、似たようなものです。僕には荷が重くて」
「大丈夫だよ。だって、みんなから推薦されたんでしょ?」
――推薦……僕は『選ばれた』のだろうか。ただ、そう決まっているからではないのか?
答えられずに押し黙っている彼に、少女は首を傾げた。彼は自嘲気味に答える。
「他に、適当な者がいないから……」
「じゃあ、やっぱり君しかいないってことじゃない。大丈夫。できるよ」
タオルの上から、頭をポンポンと叩かれる。
――安易なことを、と思ったが、何故か不快ではなかった。
自分でも嫌というほど解っている――他にあの強大な権力を受け取るものがいないことは。
ただ、励ましでも重圧でもなく、自分を信頼して背中を押してくれる言葉が、欲しかっただけなのだ。
何も知らない赤の他人で、見当違いで、軽い言葉であったけれど。
それでも、それに救われた。
「ありがとう」
そこにどれほどの想いが込められていたか、少女は知らない。
彼女はニッコリ笑うと、身を引いた。その笑顔が、彼の心の奥にずしりと沈みこむ。
「じゃあね。早く帰るんだよ?」
タオルも傘も彼に渡したまま、少女は彼が止める間も与えず走り出す。
一瞬の出会い。
それは、少年の中の何かを変えた。
目には見えない、何かを。
彼は瞼を閉じ、少女の姿をそこに焼き付ける。
「そう、僕はやらなければならない。僕が為すべきことを」
自分自身に向けてそう告げて、再び目を開く。
弱冠十歳にして数万の社員を抱える大企業の総帥が誕生したのは、この時だった。
黒色のスーツの内側にも、徐々に冷たい水が染み込み始めていた。手のひらの中に握り締めた漆黒のネクタイも、ぐっしょりと濡れそぼっている。
彼の周りには常に誰かがいたが、自分の視界に入るなと重々言い含めてある今は、気配すら感じられない。恐らく、この公園の木々の間にでも潜んでいるのだろう。
たった独り、彼はその細い肩に圧し掛かる重圧を受け止める。
身に余るその荷物を、放り出せるものならそうしてしまいたい。
――だが、それが不可能なことだというのは解りきっていた。彼の他に、代わりなどいないのだから。
初秋の夕暮れ時は、濡れた身体から次第に体温を奪っていく。
不意に。
顔に感じていた雫が途切れた。
目を上げると、セーラー服が視界に入る。更に上へ進むと、傘を差しかけて心配そうに見下ろす少女の目と出合った。
「大丈夫?」
年の頃は十二、三歳ほどか。
制服だから、中学生には違いないのだろう。
落ち着いた声音だが、容姿は幼い。黒目がちで大きな目はやや目尻が下がり気味で、鼻も唇も小作りだ。背丈は、多く見積もって、彼より手のひら一枚分高い程度だろう。
「大丈夫?」
少女が、もう一度訊いてくる。そうしながら、鞄の中をかき回して、そこから真っ白なタオルを取り出した。
「これ、今日使ってないから……」
タオルを渡されるのかと思ったら、彼女が差し出したのは傘の方だった。ほとんど反射のように彼がそれを受け取ると、タオルを広げて頭に被せてくる。
「もうすぐ暗くなるよ? お家に帰らなくていいの?」
まるで、幼稚園児にでも言っているような口調だった。
彼に対してそんな言い方をする者はいないから、何だか奇妙にすら感じられる。
タオル越しに感じる手は、大きくはなかった。多分、彼と大差ない。
その手が動くたび、ふわりと何か甘い香りが鼻先をくすぐった。
「びっしょりだねぇ。風邪ひかないといいんだけど。上の弟はすっごい元気で、サッカーやっててね、よく練習中に雨に降られたりするんだけど、どんなに濡れて帰ってきても、全然平気なの」
柔らかな声と髪を拭く絶妙な力加減が心地良く、彼の肩からは自然と力が抜けていく。
「君は四年生ぐらい? うちの弟も同じくらいだよ。わたしだったら、弟が暗くなっても帰ってこなかったら、心配になるけどな」
――だから、帰ったら?
暗にそう言いたいのだろう。
彼はタオルの陰でふっと笑みを漏らした。
全く知らない者にとっては、自分はただの子どもだ。
何となく、そのことが嬉しい。
「……厄介な役割を押し付けられたので、何だか逃げ出したくなっていたんです」
無性に彼女に話を聞いて欲しくなって、でも、全てを話すには全然時間が足りなくて、彼は曖昧な表現を口にする。本当は、そんな簡単なものではなかったけれど。
「厄介な役割? 学級委員でも押し付けられたの?」
学級委員――あまりにも可愛らしい「役割」に、彼は苦笑する。
彼ぐらいの年齢で「役割」と言えば、きっとその程度なのだろう。
だが、彼は学校というものに通わされたことはなく、まともに会話を交わせる年頃になってからは、通常の勉学はおろか、経済学や帝王学などを叩き込まれていた。
「まあ、似たようなものです。僕には荷が重くて」
「大丈夫だよ。だって、みんなから推薦されたんでしょ?」
――推薦……僕は『選ばれた』のだろうか。ただ、そう決まっているからではないのか?
答えられずに押し黙っている彼に、少女は首を傾げた。彼は自嘲気味に答える。
「他に、適当な者がいないから……」
「じゃあ、やっぱり君しかいないってことじゃない。大丈夫。できるよ」
タオルの上から、頭をポンポンと叩かれる。
――安易なことを、と思ったが、何故か不快ではなかった。
自分でも嫌というほど解っている――他にあの強大な権力を受け取るものがいないことは。
ただ、励ましでも重圧でもなく、自分を信頼して背中を押してくれる言葉が、欲しかっただけなのだ。
何も知らない赤の他人で、見当違いで、軽い言葉であったけれど。
それでも、それに救われた。
「ありがとう」
そこにどれほどの想いが込められていたか、少女は知らない。
彼女はニッコリ笑うと、身を引いた。その笑顔が、彼の心の奥にずしりと沈みこむ。
「じゃあね。早く帰るんだよ?」
タオルも傘も彼に渡したまま、少女は彼が止める間も与えず走り出す。
一瞬の出会い。
それは、少年の中の何かを変えた。
目には見えない、何かを。
彼は瞼を閉じ、少女の姿をそこに焼き付ける。
「そう、僕はやらなければならない。僕が為すべきことを」
自分自身に向けてそう告げて、再び目を開く。
弱冠十歳にして数万の社員を抱える大企業の総帥が誕生したのは、この時だった。
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