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第1話
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柳夜一郎。それが彼のフルネームである。
苗字は柳で名前が夜一郎である。「やいちろう」と言う名前は語感があまり良くなく、彼自身もさほど気に入ってはいない。だからと言って改名したいとまでも思っていない。
たいていの人は彼の事を苗字で呼ぶので不満もない。そもそも、彼を名前で呼ぶほど親しくなった人間もいなかった。
彼を名前で呼んでくれた人間で、彼の記憶に残っている人物なんて1人しかいなかった。
柳は自室の姿見の前でネクタイを締めている。落ち着いた少し暗めの赤いネクタイをぎこちない動きで締める。
「ん…」
前の部分が明らかに短くなってしまった。ジャケットを着てしまえばわからないが、暑い季節には着たくない。第一、黒井にちゃんとしているのかチェックされたら間違いなくやり直させられる。
小さくため息を吐くと柳はネクタイを外して、再度締めなおす。
襟周りが窮屈で仕方ないのだが、依頼人と会う時はきちんとすると言う事でスーツの着用を押し付けられている。
スーツは黒井が経費で与えてくれたものの、柳自身は性に合わないのでやりたくないのだが、やらなければ自分の目的に近づけないという事で妥協をしている。
そう本人は思っていた。
なんとか及第点と思われるネクタイが出来上がったので、柳は気だるそうに棚の上のヘアワックスを手に取る。
鬱陶しい前髪をまとめるためだ。
オールバックにしてしまうのが一番楽ではあるのだが、柳自身がその髪型を嫌っている。第一、そうしたら黒井と同じ髪型になる。それはなんとなく嫌だった。
しかし、凝ったことをするのも手間で嫌だから真ん中わけで長い部分は耳にかけ、届かないものは落ちてこないように固める。固定力の強いワックスは手に残るベタつきが強いので、正直これも柳にとっては面倒くさくて不快だった。
ウェットテッシュで手を拭いてようやく準備が整う。
軽いスニーカーから重い革靴に履き替え、ジャケットと鞄を左手で無造作に掴むと柳は自室を出た流れでまっすぐ事務所へ入り込む。
時間は夕暮れ時。
初夏の空はまだ明るいが、採光が北側のこの部屋ではさほど恩恵を感じられない。
「また、大分ゆっくり準備したな」
やってきた柳を見て黒井が言う。
柳自身は自分が苦痛を感じないペースで準備を行っているのだが、それが黒井にとってはかなり遅いらしい。
「間に合えば良いんだろ?」
今日の依頼人との待ち合わせ場所は依頼人の自宅だ。
待ち合わせが外やどこかの店が指定されている時は予定時間より15分ほど早く到着するように動くが、自宅の場合は時間ちょうどから3分後までの間に到着するようにしている。
店なら依頼者より遅れるのが失礼にあたり、自宅の場合は早く行って依頼者の予定を狂わせてはいけないという、礼儀だと言う事だ。
「見えるところではちゃんとしてくれればな」
苦笑しつつ黒井は言う。そして、柳の支度を頭の上から足の先まで視線を動かして確認する。
「問題ないな。とりあえず、気を付けて行ってこい」
「はいよ」
合格が出たので、柳はそのまま事務所を後にする。
冷房の影響で冷たくなったドアノブは柳の体温より低く、彼の手に涼を押し付けてくる。
繁華街のメイン通りから外れた雑居ビルの築年数は古い。事務所から一歩出れば初夏の暑さが空間に満ちている。共有部分に冷暖房の設備は無かった。
このビルは柳より年上だ。一基だけ小さいながらもエレベーターがあるのはありがたいが、古臭さは否めない。動きもゆっくりだし、どこかかび臭くて普通の人間は眉をひそめてしまっても仕方ない。
だが、柳はそれが逆に心地よかった。
清潔で明るく開放的なおしゃれなビルのエレベーターより、狭く古臭くじめっとしたこの空間の方が好きだった。
やたらと重い音を立てて、のろのろと開いた扉から出ると一気に外の喧騒が耳に流れ込んでくる。昼間は眠っていた繁華街が目覚めているのだ。
左を向けばメイン通りの様子がうかがえる。まだ客足は少なく感じるが、日が沈めば倍以上の人間があの道を通るのだろう。
柳は気だるそうに細く長いため息をこぼした後、右を向いて最寄り駅へと向かうのだった。
黒井が所長を勤める探偵事務者に新規の依頼が来たと言う事で、雇われ住み込み調査員の柳は依頼者に会うのである。
柳が選んだのは行方不明者の捜索。
それは警察の仕事だろうと言われてしまったらそうなのだが、意外と警察は動かない。いや、行方不明者の数が多くて明らかに事件性がある案件にしか警察は人員を割かないのだ。まぁ、それも仕方ない。警察だってやらなきゃならないことは沢山あるんだから。
「・・・・・」
今回の行方不明者は大学生。学生だが21歳と成人している。自分の貯金や多少の着替えを持ち出し、スマホは置いていっている。そして、なにより置手紙があり「そのうち戻る」と記載があるのだ。
計画的に自分の意志で出て行って、そして、戻る意思もある成人の捜索に警察は全力を尽くさない。捜索届は受領されたようなので、たまたま職務質問や不審者の通報で駆け付けた時にその人間が届を出されていたのなら何か手は打つだろう。が、警察自身が率先して動くことは無い。
だが、依頼者は気が気でないからこそ探偵事務所に連絡をしてきたのだ。
季節は初夏。
そして、対象者は大学生。
正直なところ柳は夏休みが終わる頃には帰ってきそうだと思っていた。スマホを置いていったら暇つぶしがきつそうではあるが、このご時世ならなんとか出来なくはない。
もしかしたら、2台持ちの可能性もあるし…。
依頼人と合流するまでに色々と思考を巡らす柳だが、なにか策があるわけではなく、彼も暇なのだ。
普段なら彼も暇に任せてスマホをもてあそぶのだが、帰宅ラッシュの乗車率が著しく高い電車内ではそれすらできなかった。
「・・・・・」
最初はホームの人の数に帰りたくなった。しかし、そうもいかないので今後の展開を受け入れることにしたのだが。
最近はこの時間に電車を利用していなかったので、うっかり帰宅ラッシュと言うものの存在を柳は忘れていた。柳ならため息の1つでもつきそうな状況だが、今の柳にはそれすらだるかった。
こんな状況でも幸いなのは、柳の身長が180センチを超えており、周囲より文字通り頭一つ抜けている事だった。ごった返すこの車内でも息苦しさからは多少なりとも逃れられるので、若干マシな環境ではある。
2人挟んだ隣にはパッと見、空間が空いているように見えるが実際は背が低めの少女がいるのだ。制服のようなので高校生だろうか。スーツ姿のサラリーマンに囲まれて相当窮屈で息苦しいだろうと、どこか哀れに思いつつ横目で見ていた柳だったが、なにか違和感を覚えた。
少女は首をすくめているので表情は見えない。こんな状況だから、不快な感情があるのは当然だが怯えの感情も見て取れた。
「…面倒な…」
柳は喉の奥で呟いた。
それから1分程度で電車は次の駅のホームに停車した。停車時間も短く、急いで下車をしようと人の波が起こる。
その流れを生かして柳は移動し、両手で1人ずつその腕を掴んだ。
1人は下車の流れに乗っていて、もう1人はそのまま乗車している予定だったのだろう。少女は驚いた顔で柳を見た。そして、その目は涙を零さんばかりに潤んでいた。
柳の右手に思わず力が入る。腕を掴まれていた男が短い悲鳴を上げた。
3人で下車をして柳は少女を掴む手は離したが、男を掴んだ手は離さない。
「なんだ君は」
男が言った言葉は当然の言葉だろう。
スーツ姿の中肉中背の眼鏡の典型的などこにでもいそうなサラリーマンだった。やや気が弱そうな印象はあるが、今は柳に対して明らかな怒りを向けている。
ホームにいる周囲の人間はトラブルの予感に視線を向けるが、向けるだけだった。
「わかってんだろ?」
柳が言葉少なに言うと、男は息を飲んだ。
釣り目で三白眼の柳が睨んだ時の迫力は、たいていの人間を黙らせる。
少女が言葉なくおろおろしだしたので、柳は彼女に肩越しに振り返ると問いかけた。
「なぁ、君が望めばこいつを警察にも引き渡せるけどどうする?俺はそれをおすすめするけど」
突然の選択肢に彼女は驚いて目を開くが、数秒考えた後に首を縦に振る。
「…お願いします。警察に…」
「なら、まず駅員を呼んできてくれないか。俺も君の後を付いていくから」
彼女はもう一度うなずくと踵を返して改札の方向へ向かう。
駅員室の場所が判らなければ、改札を目指すのが駅員を見つける方法としては間違いないだろう。
「ま、まて。俺がなにをしたっていうんだ」
男が柳の腕を振り払おうと必死になっているが、その程度の力では柳の握力を振り払うことはできない。
そして、柳はさらに右手の握力を強くした。
「ぎゃっ」
握りつぶされたと錯覚した男が悲鳴らしい悲鳴を上げた。その声に通り過ぎた人が振り返ったが、すぐに前を向きなおしていた。
「痴漢しておいて逃げられると思うなよ」
吐き捨てるように言った柳の言葉に男が顔をこわばらせる。
「…な、なんの証拠があって…。それに、痴漢は現行犯じゃないと逮捕はできないんだぞ」
前半は動揺が見えていたが、後半になって何か気づいたのか急に語気が強くになる男を柳は冷ややかな目で見ていた。
「証拠はあるんだよ」
左手で愛用のスマホを取り出した。
1枚の画像が表示されている。
誰かの手が誰かの腰回りを撫でている様子だ。たまたま手が当たったというものではなく、どう見ても意識して撫でているのがわかる。
「他にもスカートをまくり上げているのもあるぞ」
言って柳が画面をスライドさせて別の画像を表示させる。そして、そこには事前予告通りの画像が表れる。ピントもあっていて、ライトも使っているのでこれ以上ない鮮明な写真だ。
「あんたの手、だよな」
柳が男の腕を引き寄せその手を見せる。
写真に写った手とその手には特徴的なほくろが同じ位置にある。
言い逃れできない状況に、男は愕然と膝をついて崩れ落ちた。それでも柳は男の腕を放さなかった。
「バカがっ」
柳は吐き捨てると男を無理やり立たせ、引きずるようにホームを後にしたのだった。
蒸し暑くなりつつある季節に大きな不快感を感じていた柳だったが、さらに不快感が上がるトラブルに舌打ちをせずにはいられなかったのだ。
苗字は柳で名前が夜一郎である。「やいちろう」と言う名前は語感があまり良くなく、彼自身もさほど気に入ってはいない。だからと言って改名したいとまでも思っていない。
たいていの人は彼の事を苗字で呼ぶので不満もない。そもそも、彼を名前で呼ぶほど親しくなった人間もいなかった。
彼を名前で呼んでくれた人間で、彼の記憶に残っている人物なんて1人しかいなかった。
柳は自室の姿見の前でネクタイを締めている。落ち着いた少し暗めの赤いネクタイをぎこちない動きで締める。
「ん…」
前の部分が明らかに短くなってしまった。ジャケットを着てしまえばわからないが、暑い季節には着たくない。第一、黒井にちゃんとしているのかチェックされたら間違いなくやり直させられる。
小さくため息を吐くと柳はネクタイを外して、再度締めなおす。
襟周りが窮屈で仕方ないのだが、依頼人と会う時はきちんとすると言う事でスーツの着用を押し付けられている。
スーツは黒井が経費で与えてくれたものの、柳自身は性に合わないのでやりたくないのだが、やらなければ自分の目的に近づけないという事で妥協をしている。
そう本人は思っていた。
なんとか及第点と思われるネクタイが出来上がったので、柳は気だるそうに棚の上のヘアワックスを手に取る。
鬱陶しい前髪をまとめるためだ。
オールバックにしてしまうのが一番楽ではあるのだが、柳自身がその髪型を嫌っている。第一、そうしたら黒井と同じ髪型になる。それはなんとなく嫌だった。
しかし、凝ったことをするのも手間で嫌だから真ん中わけで長い部分は耳にかけ、届かないものは落ちてこないように固める。固定力の強いワックスは手に残るベタつきが強いので、正直これも柳にとっては面倒くさくて不快だった。
ウェットテッシュで手を拭いてようやく準備が整う。
軽いスニーカーから重い革靴に履き替え、ジャケットと鞄を左手で無造作に掴むと柳は自室を出た流れでまっすぐ事務所へ入り込む。
時間は夕暮れ時。
初夏の空はまだ明るいが、採光が北側のこの部屋ではさほど恩恵を感じられない。
「また、大分ゆっくり準備したな」
やってきた柳を見て黒井が言う。
柳自身は自分が苦痛を感じないペースで準備を行っているのだが、それが黒井にとってはかなり遅いらしい。
「間に合えば良いんだろ?」
今日の依頼人との待ち合わせ場所は依頼人の自宅だ。
待ち合わせが外やどこかの店が指定されている時は予定時間より15分ほど早く到着するように動くが、自宅の場合は時間ちょうどから3分後までの間に到着するようにしている。
店なら依頼者より遅れるのが失礼にあたり、自宅の場合は早く行って依頼者の予定を狂わせてはいけないという、礼儀だと言う事だ。
「見えるところではちゃんとしてくれればな」
苦笑しつつ黒井は言う。そして、柳の支度を頭の上から足の先まで視線を動かして確認する。
「問題ないな。とりあえず、気を付けて行ってこい」
「はいよ」
合格が出たので、柳はそのまま事務所を後にする。
冷房の影響で冷たくなったドアノブは柳の体温より低く、彼の手に涼を押し付けてくる。
繁華街のメイン通りから外れた雑居ビルの築年数は古い。事務所から一歩出れば初夏の暑さが空間に満ちている。共有部分に冷暖房の設備は無かった。
このビルは柳より年上だ。一基だけ小さいながらもエレベーターがあるのはありがたいが、古臭さは否めない。動きもゆっくりだし、どこかかび臭くて普通の人間は眉をひそめてしまっても仕方ない。
だが、柳はそれが逆に心地よかった。
清潔で明るく開放的なおしゃれなビルのエレベーターより、狭く古臭くじめっとしたこの空間の方が好きだった。
やたらと重い音を立てて、のろのろと開いた扉から出ると一気に外の喧騒が耳に流れ込んでくる。昼間は眠っていた繁華街が目覚めているのだ。
左を向けばメイン通りの様子がうかがえる。まだ客足は少なく感じるが、日が沈めば倍以上の人間があの道を通るのだろう。
柳は気だるそうに細く長いため息をこぼした後、右を向いて最寄り駅へと向かうのだった。
黒井が所長を勤める探偵事務者に新規の依頼が来たと言う事で、雇われ住み込み調査員の柳は依頼者に会うのである。
柳が選んだのは行方不明者の捜索。
それは警察の仕事だろうと言われてしまったらそうなのだが、意外と警察は動かない。いや、行方不明者の数が多くて明らかに事件性がある案件にしか警察は人員を割かないのだ。まぁ、それも仕方ない。警察だってやらなきゃならないことは沢山あるんだから。
「・・・・・」
今回の行方不明者は大学生。学生だが21歳と成人している。自分の貯金や多少の着替えを持ち出し、スマホは置いていっている。そして、なにより置手紙があり「そのうち戻る」と記載があるのだ。
計画的に自分の意志で出て行って、そして、戻る意思もある成人の捜索に警察は全力を尽くさない。捜索届は受領されたようなので、たまたま職務質問や不審者の通報で駆け付けた時にその人間が届を出されていたのなら何か手は打つだろう。が、警察自身が率先して動くことは無い。
だが、依頼者は気が気でないからこそ探偵事務所に連絡をしてきたのだ。
季節は初夏。
そして、対象者は大学生。
正直なところ柳は夏休みが終わる頃には帰ってきそうだと思っていた。スマホを置いていったら暇つぶしがきつそうではあるが、このご時世ならなんとか出来なくはない。
もしかしたら、2台持ちの可能性もあるし…。
依頼人と合流するまでに色々と思考を巡らす柳だが、なにか策があるわけではなく、彼も暇なのだ。
普段なら彼も暇に任せてスマホをもてあそぶのだが、帰宅ラッシュの乗車率が著しく高い電車内ではそれすらできなかった。
「・・・・・」
最初はホームの人の数に帰りたくなった。しかし、そうもいかないので今後の展開を受け入れることにしたのだが。
最近はこの時間に電車を利用していなかったので、うっかり帰宅ラッシュと言うものの存在を柳は忘れていた。柳ならため息の1つでもつきそうな状況だが、今の柳にはそれすらだるかった。
こんな状況でも幸いなのは、柳の身長が180センチを超えており、周囲より文字通り頭一つ抜けている事だった。ごった返すこの車内でも息苦しさからは多少なりとも逃れられるので、若干マシな環境ではある。
2人挟んだ隣にはパッと見、空間が空いているように見えるが実際は背が低めの少女がいるのだ。制服のようなので高校生だろうか。スーツ姿のサラリーマンに囲まれて相当窮屈で息苦しいだろうと、どこか哀れに思いつつ横目で見ていた柳だったが、なにか違和感を覚えた。
少女は首をすくめているので表情は見えない。こんな状況だから、不快な感情があるのは当然だが怯えの感情も見て取れた。
「…面倒な…」
柳は喉の奥で呟いた。
それから1分程度で電車は次の駅のホームに停車した。停車時間も短く、急いで下車をしようと人の波が起こる。
その流れを生かして柳は移動し、両手で1人ずつその腕を掴んだ。
1人は下車の流れに乗っていて、もう1人はそのまま乗車している予定だったのだろう。少女は驚いた顔で柳を見た。そして、その目は涙を零さんばかりに潤んでいた。
柳の右手に思わず力が入る。腕を掴まれていた男が短い悲鳴を上げた。
3人で下車をして柳は少女を掴む手は離したが、男を掴んだ手は離さない。
「なんだ君は」
男が言った言葉は当然の言葉だろう。
スーツ姿の中肉中背の眼鏡の典型的などこにでもいそうなサラリーマンだった。やや気が弱そうな印象はあるが、今は柳に対して明らかな怒りを向けている。
ホームにいる周囲の人間はトラブルの予感に視線を向けるが、向けるだけだった。
「わかってんだろ?」
柳が言葉少なに言うと、男は息を飲んだ。
釣り目で三白眼の柳が睨んだ時の迫力は、たいていの人間を黙らせる。
少女が言葉なくおろおろしだしたので、柳は彼女に肩越しに振り返ると問いかけた。
「なぁ、君が望めばこいつを警察にも引き渡せるけどどうする?俺はそれをおすすめするけど」
突然の選択肢に彼女は驚いて目を開くが、数秒考えた後に首を縦に振る。
「…お願いします。警察に…」
「なら、まず駅員を呼んできてくれないか。俺も君の後を付いていくから」
彼女はもう一度うなずくと踵を返して改札の方向へ向かう。
駅員室の場所が判らなければ、改札を目指すのが駅員を見つける方法としては間違いないだろう。
「ま、まて。俺がなにをしたっていうんだ」
男が柳の腕を振り払おうと必死になっているが、その程度の力では柳の握力を振り払うことはできない。
そして、柳はさらに右手の握力を強くした。
「ぎゃっ」
握りつぶされたと錯覚した男が悲鳴らしい悲鳴を上げた。その声に通り過ぎた人が振り返ったが、すぐに前を向きなおしていた。
「痴漢しておいて逃げられると思うなよ」
吐き捨てるように言った柳の言葉に男が顔をこわばらせる。
「…な、なんの証拠があって…。それに、痴漢は現行犯じゃないと逮捕はできないんだぞ」
前半は動揺が見えていたが、後半になって何か気づいたのか急に語気が強くになる男を柳は冷ややかな目で見ていた。
「証拠はあるんだよ」
左手で愛用のスマホを取り出した。
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誰かの手が誰かの腰回りを撫でている様子だ。たまたま手が当たったというものではなく、どう見ても意識して撫でているのがわかる。
「他にもスカートをまくり上げているのもあるぞ」
言って柳が画面をスライドさせて別の画像を表示させる。そして、そこには事前予告通りの画像が表れる。ピントもあっていて、ライトも使っているのでこれ以上ない鮮明な写真だ。
「あんたの手、だよな」
柳が男の腕を引き寄せその手を見せる。
写真に写った手とその手には特徴的なほくろが同じ位置にある。
言い逃れできない状況に、男は愕然と膝をついて崩れ落ちた。それでも柳は男の腕を放さなかった。
「バカがっ」
柳は吐き捨てると男を無理やり立たせ、引きずるようにホームを後にしたのだった。
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