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俺と彼女と彼女の事情
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しおりを挟む「忘れ物はないか?」
「うん」
「まさかとは思うが、課題のやり残しなんてないよな?」
「ないない」
「明後日から休み明けテストがあるんだろ? 明日は家に寄らずにまっすぐ帰るんだぞ」
「んもう!! 分かってるよ! ほんっとうに湊人は口うるさいんだから!!」
「ごく一般的な心配をしただけだから口うるさいなんて言われたくない」
「むぅ」
「じゃあ出発するぞ」
「むううぅ」
車に乗り込んですぐに夏実とそんな会話を交わした後で、俺はエンジンをかけて車を動かす。
今日で高校の夏休みが終わったから、薗田家との約束通りに夏実を和明さん晴美さんの元へお返しするだけなのだが、俺も夏実も明るい口調で「明日から学校頑張れよ!」「うん!分かった♪」を言い合う事は出来そうにない。
(だってそうだろう? 2週間もお試し同棲したんだぞ?
遠出したとか、2人きりで夏らしいイベントに参加したとかそういう事をしなくたって、色んな意味で「仲良く」過ごしたんだ。本心を言うなら帰したくないに決まってるじゃないか)
まして今日は特に熱く抱き合ったのだ。
今回ばかりは脳も身体も熱が引いておらず、賢者的な冷静思考にも陥らなかった俺はとにかく口だけをペラペラと動かしてこの熱さをどうにかしてやるしかなかった。
(夏実は甘い余韻に浸りたいんだろうな……本当にごめん)
夏実と違って俺は大人なのだから醜くて下らない本心で夏実の残り少ない高校生活を台無しにする訳にはいかない。
それでつい先程まであのような会話になってしまい、今に至る。
「……どうでもいい話なんだけどさ、明日から俺一本早い電車に乗る事にしたから」
「ええ~??!」
マンションの駐車場を出てすぐ、夏実にそう伝えたらすぐに文句が飛んだ。
「一本早いのって、引っ越す前と出勤時間が変わらなくなるじゃん! 『今まで10分以上遅い時間に家を出て到着時刻が変わらない! 神!!』って毎朝2人で言い合ったじゃあん」
駅近物件に引っ越したおかげで今まで10分時間の余裕が出来た事には喜びあったのは確かだが、「神」は夏実しか言ってない。
「8月から通勤する路線が変わったから総務に路線と通勤費の変更を申請してたんだけど、いちゃもんが入ったんだ。別路線で何回か乗り換えしてったら通勤費抑えられるって」
「えー?! 経費削減ってやつ?」
「経費削減が理由なら社員1人2人の通勤費を抑えるよりもっと絞れるところがあるからそうじゃないんだ。『高い通勤費を会社から貰っといて実際は安い乗り方で通勤するんだろう』って、変な文句付けてきた社員が居たらしい」
「それって本社の人?」
「誰が文句付けてきたかは内緒って事だけど、多分別の地域の営業所からだな」
「何それ何それ!! キモいんだけど! なんで別の地域の人からそんな文句出ちゃうの? まさか社員の住所がダダ漏れになってるとか?!」
「プライバシーの漏洩だとか、うちの会社もそこまでアホじゃないよ。鉄道に詳しい人とか居るだろ?
俺の引っ越しネタが社内に回り回ってなんとなく最寄駅が特定されたらしい」
「余計にキモいよその人!! めちゃくちゃ怖い!!」
夏実がギャーギャー騒ぐのも無理はない。側から聞いたら誰もがそう思うだろう。
だがそうやって俺の通勤という細かい点に文句を言ってきた奴がいる事は確かで、しかもそれを総務部長にではなく営業本部長の耳に入れた人間がいるというタチの悪さだ。
「あれ? でも、同じ路線を稟さんも使ってなかった? 滉くんのお姉さん!!
って言う事は稟さんも文句言われたの?」
「いや、指摘されたのは俺だけ」
「湊人だけ!? 稟さんはお咎め無し!?」
「文句があったのが俺っていうだけで、野崎さんも道連れ。だから野崎さんも憤慨してるよ……っていうか、この件俺の部も総務部も憤慨してる」
「稟さんも湊人も通勤費誤魔化しの不正してるんじゃないかって疑ってるって意味だもんね! そりゃあみんな怒るよ!」
「そうだな。 」
「2人共真面目なの、私知ってるだけにムカつく!」
「……そうだな」
夏実だけではなく、有り難い事に本社の人間全員が「広瀬と野崎がわざわざそんな事をする筈がない」と言ってくれている。
確かに乗り換えを2回ほどしたら通勤費を抑えられるのは事実だ。けれどもその方法を取ると電車内の拘束時間が20分以上長くなり、身体に負担がかかる。その身体っていうのはマスク着用必須な俺だけでなく、女性の野崎さんにも同様に言える事だ。
それで、「一本早い電車に乗れば総務部長の到着時刻とほぼ合致するから、その便に毎朝乗って総務部長に確認してもらえれば不正してる事にならないだろう」という話で落ち着いた。
営業本部長も俺や野崎さんを本気で疑っているようではないにしても「プライバシーだから誰から文句出たかは言えないが、10分少々早い電車に乗るだけだから」と言われた……まぁ、俺もこの会社に入って8年目の人間なので誰から文句が出たかの検討がつく。まして、総務部長ではなく営業本部長にわざわざ言ってきたという辺り俺の頭に思い浮かべる人物で間違いないのだろう。
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