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2章 猫の休暇
6 苦肉の策
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◆◆◆◆◆
ヴィートは苛立っていた。
自分の留守の間に、妹のミルシェが掏った財布を男が家まで取り返しに来たのだ。
所々穴の開いた箇所を板で修繕した壁、粗末な家具があるだけのぼろい部屋だが、中は綺麗に掃除が行き届いていて、清潔に保たれている。
兄妹が去年やっと借りることのできた部屋だ。どんなにぼろくても、身寄りのない二人にとってはここがすべてだった。
船乗りだった父親が遭難事故で無くなって、女手一つで子供たちを育てていた母も病気で亡くなった。
そんな両親に代わり、ヴィートは十四の頃から妹を守ってきた。
生きていくためには金が必要だ。
金を得るために、ヴィートとミルシェは後ろ暗いことに手を染めている。
本当は真っ当な職に就きたかったが、子供二人ではどうしようもなかった。
今まで手を差し伸べてくれる大人も、知恵を貸してくれる大人もいなかった。
「なにがあったんだ?」
その時の悔しさを思い出すのか、ミルシェの青灰の瞳から涙が零れ落ちる。
「掏った財布を返せって言ってきて……怖くて……そのまま返しちゃった」
「どんな奴だ」
「背が高くて、ハシバミ色の目をした男の人。でも掏ったのは灰色の髪をした女の人の財布なの。きっとその時も一緒にいたから……恋人かなんかだと思う……」
「泣くなっ……オレがなんとかしてくるから心配しなくていい」
まだ小さな妹を抱き寄せて頭を撫でてやりながらも、頭の中で悪態をつく。
(クソっ、その男に住処がバレちまった……)
財布を返したので、役人に突き出されることはなかったが、居場所を知られるのはまずい。
次になにかヘマをした時に、足がつくかもしれない。
せっかく苦労して手に入れたこの部屋をむざむざと出ていくのか、それとも居場所を知った男を消すのか。
選択は簡単なように思えた。
間違いなく金に目のくらんだ奴が、この居場所を漏らした。まずはそいつを探し出して落とし前を付けさせないといけない。
「オレは出かけてくるが、お前は今夜エマの所に泊めてもらえ」
妹が一人でいる間にまた誰か来たら危険だ。
歓楽街から少し離れた場所にその店はあった。
煙草の煙と安っぽい香水の匂いが、薄暗い店の中に充満している。
「おいアンタ、今日はえらい羽振りがいいじゃねーか?」
女連れで飲んでいる、カマキリに似た男へヴィートは声をかける。
まだ少年っぽさを残しているが、凶暴な目は見るものを冷えあがらせるような凄みを帯びていた。
「お、おう……お前か」
男は動揺を隠せない目で、ヴィートを見上げる。
「いつもしけた酒飲んでるのに、今日はどうしたんだ? どっかで金でも入ったのか?」
「っ……」
男の口がヒクリと引きつった。
(やっぱり、こいつが喋りやがった)
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。付き合ってもらえるか?」
ヴィートは店の外へと男を連れ出す。
「——はした金欲しさに人を売りやがって、クソがっ!」
ズタボロに殴った男を、通りの奥のごみ溜めに蹴りやると、ヴィートは目的の人物がいそうな、高台の宿屋が集まる一角に向けて歩き出す。
裏切り者を痛めつけるのなんて苦にもならなかった。
まだ十七歳だったがヴィートは自分の腕に自信があった。この界隈では喧嘩で負けたことはない。
酔っ払い相手に喧嘩を吹っかけて財布を奪うのが、ヴィートの主な収入源だった。ここを縄張りにするには、歓楽街をまとめる元締めにショバ代を払わないといけないので、いつも手元にはわずかな金しか残らない。
妹の掏ってくる金と合わせて、今はなんとか二人で生活しているが、早くこんな不安定な暮らしから抜け出したいと思っていた。
それなのに、今の生活さえも、足元から崩れていくかもしれない……。
妹はまだ九つだが、『ウチで働かないか?』と娼館の主から声がかかっている。
字も書けない孤児の女が、生きていくためには、自分の身を売るしかないのだ。
今はまだ子供だから見逃してもらえるが、十五歳を過ぎて盗みで捕まったら、利き手の手首から先を切断される。
貧民街の路上には、手首から先を失った物乞いたちが、行き場を失い死体となって転がっているのを嫌になるほど見てきた。
自分だけ危険な目に遭うならまだしも、今回のようなこともあるので、妹は娼館で働いた方が安全なのかもしれない。
妹だけでもこんな危険な仕事から足を洗わせて、安定した生活を送らせたかった。
突きつけられた現実に、ヴィートは頭を痛め、苛立ちをつのらせた。
ヴィートは苛立っていた。
自分の留守の間に、妹のミルシェが掏った財布を男が家まで取り返しに来たのだ。
所々穴の開いた箇所を板で修繕した壁、粗末な家具があるだけのぼろい部屋だが、中は綺麗に掃除が行き届いていて、清潔に保たれている。
兄妹が去年やっと借りることのできた部屋だ。どんなにぼろくても、身寄りのない二人にとってはここがすべてだった。
船乗りだった父親が遭難事故で無くなって、女手一つで子供たちを育てていた母も病気で亡くなった。
そんな両親に代わり、ヴィートは十四の頃から妹を守ってきた。
生きていくためには金が必要だ。
金を得るために、ヴィートとミルシェは後ろ暗いことに手を染めている。
本当は真っ当な職に就きたかったが、子供二人ではどうしようもなかった。
今まで手を差し伸べてくれる大人も、知恵を貸してくれる大人もいなかった。
「なにがあったんだ?」
その時の悔しさを思い出すのか、ミルシェの青灰の瞳から涙が零れ落ちる。
「掏った財布を返せって言ってきて……怖くて……そのまま返しちゃった」
「どんな奴だ」
「背が高くて、ハシバミ色の目をした男の人。でも掏ったのは灰色の髪をした女の人の財布なの。きっとその時も一緒にいたから……恋人かなんかだと思う……」
「泣くなっ……オレがなんとかしてくるから心配しなくていい」
まだ小さな妹を抱き寄せて頭を撫でてやりながらも、頭の中で悪態をつく。
(クソっ、その男に住処がバレちまった……)
財布を返したので、役人に突き出されることはなかったが、居場所を知られるのはまずい。
次になにかヘマをした時に、足がつくかもしれない。
せっかく苦労して手に入れたこの部屋をむざむざと出ていくのか、それとも居場所を知った男を消すのか。
選択は簡単なように思えた。
間違いなく金に目のくらんだ奴が、この居場所を漏らした。まずはそいつを探し出して落とし前を付けさせないといけない。
「オレは出かけてくるが、お前は今夜エマの所に泊めてもらえ」
妹が一人でいる間にまた誰か来たら危険だ。
歓楽街から少し離れた場所にその店はあった。
煙草の煙と安っぽい香水の匂いが、薄暗い店の中に充満している。
「おいアンタ、今日はえらい羽振りがいいじゃねーか?」
女連れで飲んでいる、カマキリに似た男へヴィートは声をかける。
まだ少年っぽさを残しているが、凶暴な目は見るものを冷えあがらせるような凄みを帯びていた。
「お、おう……お前か」
男は動揺を隠せない目で、ヴィートを見上げる。
「いつもしけた酒飲んでるのに、今日はどうしたんだ? どっかで金でも入ったのか?」
「っ……」
男の口がヒクリと引きつった。
(やっぱり、こいつが喋りやがった)
「ちょっと聞きたいことがあるんだ。付き合ってもらえるか?」
ヴィートは店の外へと男を連れ出す。
「——はした金欲しさに人を売りやがって、クソがっ!」
ズタボロに殴った男を、通りの奥のごみ溜めに蹴りやると、ヴィートは目的の人物がいそうな、高台の宿屋が集まる一角に向けて歩き出す。
裏切り者を痛めつけるのなんて苦にもならなかった。
まだ十七歳だったがヴィートは自分の腕に自信があった。この界隈では喧嘩で負けたことはない。
酔っ払い相手に喧嘩を吹っかけて財布を奪うのが、ヴィートの主な収入源だった。ここを縄張りにするには、歓楽街をまとめる元締めにショバ代を払わないといけないので、いつも手元にはわずかな金しか残らない。
妹の掏ってくる金と合わせて、今はなんとか二人で生活しているが、早くこんな不安定な暮らしから抜け出したいと思っていた。
それなのに、今の生活さえも、足元から崩れていくかもしれない……。
妹はまだ九つだが、『ウチで働かないか?』と娼館の主から声がかかっている。
字も書けない孤児の女が、生きていくためには、自分の身を売るしかないのだ。
今はまだ子供だから見逃してもらえるが、十五歳を過ぎて盗みで捕まったら、利き手の手首から先を切断される。
貧民街の路上には、手首から先を失った物乞いたちが、行き場を失い死体となって転がっているのを嫌になるほど見てきた。
自分だけ危険な目に遭うならまだしも、今回のようなこともあるので、妹は娼館で働いた方が安全なのかもしれない。
妹だけでもこんな危険な仕事から足を洗わせて、安定した生活を送らせたかった。
突きつけられた現実に、ヴィートは頭を痛め、苛立ちをつのらせた。
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