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既に日はとっぷり暮れていた。彩華と上原さんは無言で帰途に着き、私と千賀さんは揃ってリビングへと戻った。千賀さんと二人で過ごす筈だったイブは、散々なものとなってしまったけれど、雨降って地固まると言えなくもない。
「大丈夫?」
心配そうに私の顔を覗き込む千賀さん。ケーキは諦めて急ぎ焼いたチキンと、彼が買ってきてくれたワインで乾杯する。といっても床に座り込んだままだけれど。
「かなり無理したんじゃないか?」
「何がですか?」
「さっきの、上原達に……」
もちろん決して楽しい気持ちで言ったわけではない。誰かと縁を切ろうとしたのも、それを真正面から告げたのも初めてだ。当然声も手足も震えていた。自分の口から飛び出す言葉に、同じように傷つきもした。
「でもこれでよかったんだと思っています」
たぶん彼らに事実を突きつけられるのは、甘えて全てを委ねようとした私だけ。私がここで悪しき流れを断たなければ、必ずいつかどこかで繰り返される。人間は弱い生き物だ。それが駄目なことだと頭では分かっていても、楽になれる方を選んでしまう。
「繋がりを持っていれば、彩華が困っているときに、うっかり手を貸してしまうこともあったかもしれません。今度は情に絆されて、ということも起こらないでしょう」
例え上原さんの告白が事実で、あの後に彩華の本音が続くのだとしても。
「そう、だよな。俺も正直、上原とはどうしたものかまだ決めかねているし」
「千賀さんは上原劇場のシナリオ、どこまで知っていたんですか?」
お酒があまり強くない私でも飲める、甘めのワインを一口含んでから訊ねる。まるでドラマだねと千賀さんは苦笑した。
「悪いけど、ほぼ初耳。まだ狐につままれた気分だ」
昼間の話では、上原さんと彩華の間に恋愛感情はないということだった。後の上原さんの懺悔めいた告白は、どの程度真実なのか定かでないが、二人がお互いに抱いていたのは、せいぜい友情止まりだったように感じる。
「本来上原は白黒はっきりした性格で、今回のように暗躍するタイプじゃないんだ」
同期入社で自然に親しくなった二人だが、性格的な位置付けは彩華と私に近いものがあったらしい。行動的で誰が相手でも動じることなく自分の意思を貫く上原さんと、言葉は少ないが落ち着いて物事に取り組む千賀さん。明と暗、動と静の正反対のコンビは、正しく私達に当てはまっていた。
「俺が彩華とつきあい始めた頃には、彼女は社内でも人気者になっていたから、上原も普通に挨拶や日常的な会話は交わしていた。もちろん別れた後も」
別れた直後は不安定な部分が見え隠れした彩華も、千賀さんがその後恋人を一人も作らなかったことで、設楽さんに絡むことなく穏やかな日々を過ごしていた。他の社員とのやり取りも以前と変わらず、周りを明るくするように楽し気なもので、暗い影に取り込まれていたとは到底信じられない程だった。
けれどたくさんのアプローチを受けながら、彩華は頑なまでに誰ともつきあおうとはしなかった。それが自分への好意によるものか、執着なのか、他に理由があるのか、千賀さんには正直判別がつかなかった。だから何年も「友達」という穏便な関係のまま慎重に様子を窺っていた。
「俺達、つきあうことにしたから」
上原さんと彩華からいきなりそんな報告をされたのは、二年前のことだった。寝耳に水の話に千賀さんは驚いた。普段の二人からは甘い雰囲気など少しも感じなかったからだ。
「どういうつもりだ?」
彩華への恋心は既に消えており、嫉妬などするべくもないが、彼女との経緯を知る友達からの報告に、千賀さんは動揺を隠せなかった。
「一緒にいるうちに情が湧いた。千賀と設楽さんが絡まない限り、彩華はこれまで通りの明るい女の子だ」
「本当に……いいのか?」
「二言はなし」
何度も念を押す千賀さんに、上原さんも己を曲げなかった。
「分かった」
複雑ながらも千賀さんは二人を尊重した。社内には自分と彩華の過去を知る者もいる。その上でつきあうことを決めたのなら、おそらく二人とも本気であろうと踏んだからだ。
「良かった。肩の力が抜けたわ」
彩華と接触しないよう注意していても、女性にしか入れない場所もある。常に緊張状態だった設楽さんも、二人がつきあうことになって安堵しているようだった。
これからは上原さんが彩華を支えてくれる。千賀さんがようやく解放感に浸っていた矢先、彩華の友達として偶然私を紹介された。
「灯里ちゃんとの結婚を決めたとき、設楽さんの一件も含めて彩華との過去を打ち明けようと思った。灯里ちゃんの態度から、もしかしたら既に聞き及んでいる可能性も感じたが、彩華の口から変なふうに伝わるより、自分で正直に告げて嫌われようと……。でもそれを強硬に反対したのが上原だった」
ーーいくら彩華が俺と結婚しても、設楽さんのときのようなことが起こらないとも限らない。灯里ちゃんの身の安全を図りたいなら、念の為しばらく伏せておいた方がいい。ほとぼりが冷めた頃にちゃんと話してやったらどうだ?
照れ隠しと彩華の目を逸らす為に、ちょうど千賀さんは私に素っ気なく振る舞っていた。ならばそれを続けるのが一番なのではないかと、彼は上原さんの提案に乗ることにした。実際はその上原さんの嘘の数々で、事態は混乱を極めることになるのだが、当時はそれが私を守る手立てだと信じた。
「二人から真相を聞いたときは、怒りがどうにも収まらなくて、灯里ちゃんじゃないけどその場でぶっ飛ばそうかと思った」
今度は私が視線を泳がせる。さすがに今となっては恥ずかしいというか面目ないというか。男女三名を叩きまくってしまいましたからね、私。
「でも冷静になっていざ蓋を開けてみると、上原が何をしたかったのかさっぱり分からない」
本気で首を傾げる千賀さん。やがて慌てたように補足する。
「上原を庇う気はないから、灯里ちゃんは我慢しないでくれよ? 灯里ちゃんだけは怒っていいんだから」
そうして私は殺風景な室内を見回した。この部屋は千賀さんが一人で契約したものだが、実は私はとても気に入っていた。だから彩華と千賀さんが二人の空間を作り上げたとき、耐え難い程の辛さを味わった。
「千賀さんはどうしてこの部屋を借りたんですか?」
唐突な質問に彼はワイングラスを置いた。
「あ、灯里ちゃんが、喜ぶんじゃないかと思って」
しどろもどろ気味に洩らす。結婚が決まって新居を探していた頃、たまたま小耳に挟んだのだそうだ。
「この部屋いいなあ」
彩華と一緒に賃貸情報誌を眺めていた私の一言。
「速攻で電話して契約した」
相談もしなくてごめんと、千賀さんは懲りずに謝る。この人は本当に言葉が足りない。私のことばかり考えているのに、これではどうでもよさそうな扱いに見えても仕方がない。
「分かり難いです。いくら彩華の手前、親しくなるのを避けていたとはいえ、そのくらいは話してくれても」
「いや、無理だ。灯里ちゃんが傍にいるだけで舞い上がって、普通になんかしていられなかった」
視線を逸らしてぼそぼそ呟く千賀さんは、異様な程耳が赤い。たぶんワインのせいだけではないだろう。
「初日の夜に寝室に来てくれなくて、それから毎日へこんでた」
せめて一緒に眠りたくて迎えに行ったけれど、彩華との過去を隠している後ろめたさもあり、どう声をかければいいのか分からずにいるうちに、私はリビングを住処に定めてしまった。
「まさか水を飲みに来ていたのは……」
「お迎え、のつもりです」
「あなたは中学生ですか」
「無茶言うなよ。俺にとって灯里ちゃんは特別だったんだぞ」
ふて腐れたように零してから、はっとして私に視線を戻した千賀さんは、顔も首も果ては指の先までワイン色に染まっていた。
「大丈夫?」
心配そうに私の顔を覗き込む千賀さん。ケーキは諦めて急ぎ焼いたチキンと、彼が買ってきてくれたワインで乾杯する。といっても床に座り込んだままだけれど。
「かなり無理したんじゃないか?」
「何がですか?」
「さっきの、上原達に……」
もちろん決して楽しい気持ちで言ったわけではない。誰かと縁を切ろうとしたのも、それを真正面から告げたのも初めてだ。当然声も手足も震えていた。自分の口から飛び出す言葉に、同じように傷つきもした。
「でもこれでよかったんだと思っています」
たぶん彼らに事実を突きつけられるのは、甘えて全てを委ねようとした私だけ。私がここで悪しき流れを断たなければ、必ずいつかどこかで繰り返される。人間は弱い生き物だ。それが駄目なことだと頭では分かっていても、楽になれる方を選んでしまう。
「繋がりを持っていれば、彩華が困っているときに、うっかり手を貸してしまうこともあったかもしれません。今度は情に絆されて、ということも起こらないでしょう」
例え上原さんの告白が事実で、あの後に彩華の本音が続くのだとしても。
「そう、だよな。俺も正直、上原とはどうしたものかまだ決めかねているし」
「千賀さんは上原劇場のシナリオ、どこまで知っていたんですか?」
お酒があまり強くない私でも飲める、甘めのワインを一口含んでから訊ねる。まるでドラマだねと千賀さんは苦笑した。
「悪いけど、ほぼ初耳。まだ狐につままれた気分だ」
昼間の話では、上原さんと彩華の間に恋愛感情はないということだった。後の上原さんの懺悔めいた告白は、どの程度真実なのか定かでないが、二人がお互いに抱いていたのは、せいぜい友情止まりだったように感じる。
「本来上原は白黒はっきりした性格で、今回のように暗躍するタイプじゃないんだ」
同期入社で自然に親しくなった二人だが、性格的な位置付けは彩華と私に近いものがあったらしい。行動的で誰が相手でも動じることなく自分の意思を貫く上原さんと、言葉は少ないが落ち着いて物事に取り組む千賀さん。明と暗、動と静の正反対のコンビは、正しく私達に当てはまっていた。
「俺が彩華とつきあい始めた頃には、彼女は社内でも人気者になっていたから、上原も普通に挨拶や日常的な会話は交わしていた。もちろん別れた後も」
別れた直後は不安定な部分が見え隠れした彩華も、千賀さんがその後恋人を一人も作らなかったことで、設楽さんに絡むことなく穏やかな日々を過ごしていた。他の社員とのやり取りも以前と変わらず、周りを明るくするように楽し気なもので、暗い影に取り込まれていたとは到底信じられない程だった。
けれどたくさんのアプローチを受けながら、彩華は頑なまでに誰ともつきあおうとはしなかった。それが自分への好意によるものか、執着なのか、他に理由があるのか、千賀さんには正直判別がつかなかった。だから何年も「友達」という穏便な関係のまま慎重に様子を窺っていた。
「俺達、つきあうことにしたから」
上原さんと彩華からいきなりそんな報告をされたのは、二年前のことだった。寝耳に水の話に千賀さんは驚いた。普段の二人からは甘い雰囲気など少しも感じなかったからだ。
「どういうつもりだ?」
彩華への恋心は既に消えており、嫉妬などするべくもないが、彼女との経緯を知る友達からの報告に、千賀さんは動揺を隠せなかった。
「一緒にいるうちに情が湧いた。千賀と設楽さんが絡まない限り、彩華はこれまで通りの明るい女の子だ」
「本当に……いいのか?」
「二言はなし」
何度も念を押す千賀さんに、上原さんも己を曲げなかった。
「分かった」
複雑ながらも千賀さんは二人を尊重した。社内には自分と彩華の過去を知る者もいる。その上でつきあうことを決めたのなら、おそらく二人とも本気であろうと踏んだからだ。
「良かった。肩の力が抜けたわ」
彩華と接触しないよう注意していても、女性にしか入れない場所もある。常に緊張状態だった設楽さんも、二人がつきあうことになって安堵しているようだった。
これからは上原さんが彩華を支えてくれる。千賀さんがようやく解放感に浸っていた矢先、彩華の友達として偶然私を紹介された。
「灯里ちゃんとの結婚を決めたとき、設楽さんの一件も含めて彩華との過去を打ち明けようと思った。灯里ちゃんの態度から、もしかしたら既に聞き及んでいる可能性も感じたが、彩華の口から変なふうに伝わるより、自分で正直に告げて嫌われようと……。でもそれを強硬に反対したのが上原だった」
ーーいくら彩華が俺と結婚しても、設楽さんのときのようなことが起こらないとも限らない。灯里ちゃんの身の安全を図りたいなら、念の為しばらく伏せておいた方がいい。ほとぼりが冷めた頃にちゃんと話してやったらどうだ?
照れ隠しと彩華の目を逸らす為に、ちょうど千賀さんは私に素っ気なく振る舞っていた。ならばそれを続けるのが一番なのではないかと、彼は上原さんの提案に乗ることにした。実際はその上原さんの嘘の数々で、事態は混乱を極めることになるのだが、当時はそれが私を守る手立てだと信じた。
「二人から真相を聞いたときは、怒りがどうにも収まらなくて、灯里ちゃんじゃないけどその場でぶっ飛ばそうかと思った」
今度は私が視線を泳がせる。さすがに今となっては恥ずかしいというか面目ないというか。男女三名を叩きまくってしまいましたからね、私。
「でも冷静になっていざ蓋を開けてみると、上原が何をしたかったのかさっぱり分からない」
本気で首を傾げる千賀さん。やがて慌てたように補足する。
「上原を庇う気はないから、灯里ちゃんは我慢しないでくれよ? 灯里ちゃんだけは怒っていいんだから」
そうして私は殺風景な室内を見回した。この部屋は千賀さんが一人で契約したものだが、実は私はとても気に入っていた。だから彩華と千賀さんが二人の空間を作り上げたとき、耐え難い程の辛さを味わった。
「千賀さんはどうしてこの部屋を借りたんですか?」
唐突な質問に彼はワイングラスを置いた。
「あ、灯里ちゃんが、喜ぶんじゃないかと思って」
しどろもどろ気味に洩らす。結婚が決まって新居を探していた頃、たまたま小耳に挟んだのだそうだ。
「この部屋いいなあ」
彩華と一緒に賃貸情報誌を眺めていた私の一言。
「速攻で電話して契約した」
相談もしなくてごめんと、千賀さんは懲りずに謝る。この人は本当に言葉が足りない。私のことばかり考えているのに、これではどうでもよさそうな扱いに見えても仕方がない。
「分かり難いです。いくら彩華の手前、親しくなるのを避けていたとはいえ、そのくらいは話してくれても」
「いや、無理だ。灯里ちゃんが傍にいるだけで舞い上がって、普通になんかしていられなかった」
視線を逸らしてぼそぼそ呟く千賀さんは、異様な程耳が赤い。たぶんワインのせいだけではないだろう。
「初日の夜に寝室に来てくれなくて、それから毎日へこんでた」
せめて一緒に眠りたくて迎えに行ったけれど、彩華との過去を隠している後ろめたさもあり、どう声をかければいいのか分からずにいるうちに、私はリビングを住処に定めてしまった。
「まさか水を飲みに来ていたのは……」
「お迎え、のつもりです」
「あなたは中学生ですか」
「無茶言うなよ。俺にとって灯里ちゃんは特別だったんだぞ」
ふて腐れたように零してから、はっとして私に視線を戻した千賀さんは、顔も首も果ては指の先までワイン色に染まっていた。
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