鎌倉もののふがたり

尾方佐羽

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序 章 とりかへばや 六代御前

田越川のほとりで

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 それから15年の月日が流れる。

 正治元年(1199)1月13日、征夷大将軍源頼朝がこの世を去った。享年53歳のまだ早い、突然の死だった。(※1)
 鎌倉の大倉府は上に下に大騒ぎとなっている。すでに将軍の役目については頼朝の長子、頼家が継ぐということで御家人衆、政務所にも朝廷にも承認を取っている。したがって、急なことではあっても頼朝の葬儀、頼家の将軍宣下の儀式を執り行う次第は決まったことである。

 しかし、頼朝の岳父である北条時政の心の内には大きな不安が渦巻いていた。それは頼朝が意識不明の状態で床に付いた頃から現れて、政子(頼朝の妻、時政の娘)を驚かせた。彼は娘には憚ることなくそれを口にしたのだ。
「この機に乗じて、朝廷は何事かを画策しているのではないか。誰か他の者を将軍に立てろと言い出すのではないか」
「父上、何を申されますか? そのような噂はどこからも出ておりませぬ」
 政子は夫を亡くした悲しみと、子どもを将軍にする準備で大わらわになっている。その上に、実父の不安まで聞かなければならなくなった。
「父上、もう三幡(さんまん)の入内(にゅうだい)の話も進んでおります。滅多なことをおっしゃられませぬよう」
 三幡とは頼朝と政子の二女で通称を乙姫という。先頃、後鳥羽上皇の后になる話がまとまり、女御(にょうご、朝廷に仕える身分の高い女性)の称号も得ていた。
 しかし、それぐらいで時政は納得しなかった。朝廷が鎌倉の府を見限るか、内紛を起こさせて新たな勢力を担ぎ出すつもりかもしれないと何度も何度も飽かず政子に告げに来る。

 彼の疑心暗鬼はとどまるところを知らなかったのだ。
 それは彼が京都守護を任ぜられて朝廷との交渉を任されていたにも関わらず、平家嫡流の子を助命せざるをえなかったことから始まっていた。しかも、それは時政の頭越しに決定された。それを15年前からずっと心に溜めていたのだ。

 その心が一人の人間の運命を変える。

 正治元年の2月に起こったひとつの事件がその引き金になった。
 文覚上人(もんがくしょうにん)が陰謀事件に連座したとして、捕縛されるのである。権大納言・土御門通親の襲撃を企てたとされる「三左衛門事件」である。この頃京都では後鳥羽上皇が威勢を誇っていたが、朝廷内部での権力争いに加えて源頼朝の死去で動揺していたことも理由としてあったと考えられる。
 文覚上人に引き取られて出家していた六代はこの頃「妙覚」として京都に在していた。まだ26歳の若者である。彼はひたすら目立たないよう控えめに暮らし、修行に努める日々を送っていた。

 2月のある日、鎌倉の大倉府側にある北条時政の屋敷に娘の政子が息せききって駆け込んできた。

「父上、六代御前が京の猪熊にて捕縛されたよし、さきほど聞き申した。今ごろになっていったい、いかがされるおつもりか」
 政子は大江広元からその話を耳にして、慌ててやって来たのだ。六代御前については、夫の頼朝が15年前に赦免していることを政子も当然知っていた。それに、捕縛の命令を時政が出したこともまったく聞かされていなかった。

 政子は、夫がなぜ六代御前を助命したのかよく知っている。夫頼朝も死しか考えられないような状況で、池禅尼(いけのぜんに)の一言に命を救われたのである。

「血を絶やすことは決してなさるまじ。因果の報いを受けますぞ」

 夫はそのように助けてもらったが、その後平家を滅ぼすことになった。それは事実だ。またその繰り返しになることを父時政は恐れているのだろうか。そうでなければこれだけ時間が経った後で、出家もしている者を捕縛などできるはずがない。
「六代御前をいかがされるおつもりかとお尋ねいたしました。まさか……」
 時政は何も言わない。
 推して量れといわんばかりである。その顔は薄ら笑いを浮かべているようにも見えるが、石のように無表情だった。
 政子は父の表情を見て背筋が寒くなるのを覚えた。

 六代御前は3月になって、鎌倉まで引き連れられ幽閉されることになった。
 政子は引き連れられた六代に対面して、六代のもの静かな佇まいに感嘆した。

 この御曹司にいったい何の反意ありや。

 政子は六代の幽閉については仕方ないとしたものの、殺すことはしないよう父時政に必死に訴えた。しかし、さらに悪いことが重なる。頼朝と政子の娘の三幡が急に高熱を出して倒れたのだ。医師の治療も、薬師の投薬も、数々の祈祷も何一つ効かなかった。政子は頼朝のときと同様に寝ずに看病していた。そして、その床に時政がつかつかとやってくる。
「もし三幡姫に万が一のことあらば、六代御前は死罪じゃ」
 政子は怪訝な目で時政を見る。孫娘の一大事だというのに、いったい何を……。
 そんな政子を見て、時政が言い放った。
「六代はさる人の子なり、さる人の弟子なり、頭をば剃ったりとも、心をばよもそらじ」
(六代は平の子であり、謀反の疑いをかけられた文覚の弟子だ。頭を剃ったからといって心まで剃りおとすことはできぬ)

 三幡姫は看病の甲斐なく6月30日にこの世を去った。そしてその2日後、時政の命で鎌倉にほど近い田越川(たごえがわ)のほとりで、六代御前は斬首されたのである。
 木々が鬱蒼と生い茂る山を背後に、田越川の流れを前にして座した六代御前は、ひとことだけ呟いた。

「今生の命、ほかととりかへばや」



◼️

 さて、九州・肥後の五箇荘(現在は五家荘)と呼ばれる山奥に隠れ住んでいた益信、正勝、政直、高矩、親英、清貞の6人はどうしていただろうか。
 彼らは相談した上で春先に肥後を出た。あばら家はそのまま放置したままである。家捜しされても困るようなことは何もない。そして、山深く隠れるのに好都合な日向(宮崎)や薩摩(鹿児島)の方には向かわずに、北を目指した。
 二位尼(にいのあま、平清盛の妻)が檀ノ浦で別れ際に遺した、「鎮西(ちんぜい、現在の博多)に逃げなされ」という言葉が6人の脳裏から消えなかったのである。とはいえ、鎮西にそのまま入ることは、彼らにとってたいへん難しいことだった。15年以上の長きにわたり山奥に陰棲していたので、平家追討の勢いがどれほど収まっているかさっぱり分からなかったのだ。鎮西に入った途端に捕縛され、斬首されるのではこれまでの苦労も水の泡だ。
 彼らは恐る恐る、慎重に歩を進めていった。
 とある晩、小高い山の木陰に格好のねぐらを見つけて、6人は休むことにした。
「今はどの辺りだろうか?」
「ああ、東にずっと見えていた山々が遠くなっている。筑後に入ったのではないか」
「ここからは、開けた土地だ。一層用心しないといかんな」
 6人は鎮西からあまり離れていない、それでいて目立たずに定住できる地を求めていた。彼らも歳を取った。平氏の再興に向けて力を蓄えておきたい。あまり自然が厳しい場所では身体もきつい。そして、さらに切実な問題があることに6人は気づいた。
 自分の血を代々継いでいかなければならないということである。人里から遠く離れた山奥で男が6人いるだけでは子どもはできない。
 しかし、それらの条件を満たす土地があるとも思えない。6人は半ば諦めつつも旅を続けて、筑後川に行き当たった。
「何と大きな川だろうか」
「河口に進めばきっと泥地、沼地で人家も少ないのではないか。入道さま(清盛)の命で福原(神戸)の津を築いたときもそうだった」
「そうだな。われら、魚を捕るのは上手になったからのう」
 そのような話をしながら、筑後川に沿って河口の方に歩き始めた。河口まで来ると、そこは有明海である。6人の見立て通りそこは見事に泥地であった。6人がどこか住めるところがあるだろうかと辺りを見ていると、人家が少ないのに筑後川の支流の川端に人が集まっている。少し臆していたが、6人の長である平益信が思いきって話しかけた。
「わしらは旅の者だが、この有明海の景色がことのほか素晴らしいので、少し逗留させてもらえればと思うておる。どこか程よい場所はないだろうか」
 人々は見慣れない男6人を見て一瞬身構えた。6人はぼろきれのような服を着て、髪もひげもぼうぼうの汚いなりだったからである。しかし、彼らは刀を携えている。それを見つけた一人がぱっと目を見開いて言う。
「もしや、もののふのお方。願ってもないことばい」
 話を聞くと、この沼地の辺りでは有明海で漁業をして暮らす者が大半だという。ただ、時折有明海の向こう側で漁業をしている者たちと漁をする範囲のことでいさかいが起こる。対岸には腕に覚えのある大男が何人もいて、いつもこちら側の分が悪くなってしまう。これからその対岸の者たちがやってくるのだが、そこに同席してもらえないだろうかーーということだった。
「たやすい御用、こんなに汚ない者でお役に立てるとは幸甚」

 さっそく6人は漁業者どうしの話し合いに出ることになった。敵も腕に覚えのある男が数人やってきて、顔を合わせた途端に睨みを効かせていた。しかし6人の凄みとはまったく比べ物にならなかった。何しろ、15年も人里離れて生きるか死ぬかの危険、恐怖にさらされてきた男たちである。決して表には出せないが、平氏の公逹だという矜持(きょうじ)もある。
 交渉は平氏方が加勢した側が有利な、というよりも公平な結果を得ることができた。その里の長は飛び上がって喜び、まだ汚いままの益信の手を握りしめた。
「こげん早か決着したんは初めてですたい。ありがたかこつ、ありがたかこつ。もしよろしければ、ぜひここに留まられ、ずっとわしらの警固役ばしてくださいませ」

 そして彼らは筑後梁川(現在の柳川市)に安住の地を得ることができたのである。彼らは新たな地に定住するにあたって、名前をそれぞれ付けることにした。それぞれ難波善長(益信)、加藤藤内(正勝)、浦川天ヶ左衛門(高矩)、鳴神藤助(親英)、是永多七(政直)、若宮兵七(清貞)という名である。じきに彼らは漁民の娘をそれぞれに娶り、子をなすこともできた。
 幸いなことに漁民逹はたいそう口が固かった。彼らが平氏の公逹であることは秘密とし、この地のもともとの住人であるとした。


 彼らのよすがなる平氏嫡流、六代御前が鎌倉のほど近くで亡くなったことは、だいぶ経ってこの地の代官から知ることになった。彼らはその晩ばかりは皆で集まり、南無阿弥陀仏を繰り返し唱えて涙に暮れた。彼らの脇には二位尼から預かった袋がある。

「六代さま、何と憐れなこと、何と憐れな……」
「わしらがきちんと血を継いで、生を全うすることが六代さまのせめてもの供養となればよいのだが」
「それしか今のわしらにできることはない」

 そして6人は静かに瞑目するのだった。




(『とりかへばや 六代御前』了)

※1 頼朝の死の詳細については第一章(稲毛重成)の冒頭で扱います。そちらもどうぞご覧ください。
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