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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ
危惧するレッジーナ 1526年 フェラーラ
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〈イザベッラ・デステ、アルフォンソ・デステ、エルコレ・デステ、ミケランジェロ・ブォナローティ、ニコラス・コレーリャ、ジョルジョ・ヴァザーリ〉
イタリア半島・マントヴァ侯爵領を摂政として治めているイザベッラ・デステは、フェラーラ公国のアルフォンソ・デステのもとを訪ねることにした。
イザベッラはアルフォンソの実姉である。
「この辺りは変わらず落ち着いていていい景色だこと」と移動中のイザベッラはポー川の流れに沿って進みながら思う。
ここはイザベッラの生まれ育った土地で、フェラーラのエステンセ城は実家なのだ。とはいえ、彼女がフェラーラに赴くことはほとんどなかった。弟アルフォンソの妻をあまり好まなかったのが理由のひとつだ。その妻とは、今は亡きルクレツィア・ボルジアである。
これを嫁と小姑の問題に帰するのは単純過ぎるかもしれない。イザベッラの夫、フランチェスコ・ゴンザーガとルクレツィアはとても親しく付き合っていた。もちろん、それが二人の女性の間に大きな亀裂を生んだことは間違いない。ただ、二人の女性が正反対の資質を持っていたことが浮気の原因になったことも、推し量ることができる。
イザベッラはひとことで言えば、有能な政治家である。大国の干渉や侵攻を防ぐために取れる限りの手段を尽くす。カンブレー同盟戦争でマントヴァに火の粉がかからなかったのは、ひとえに彼女の働きである。その交渉能力の手腕は見事なものだった。同時にマントヴァに芸術家を多く招き、文化の中心地を作ろうとした。15世紀と16世紀の境目の頃には、レオナルド・ダ・ヴィンチがしばらく逗留していた。イザベッラは彼に肖像画を描いてほしいと何度も依頼して、デッサンを受けとることができた。このデッサンは今も残っている。
ここに彼女の二律背反がみられる。
イザベッラは賢く、誇り高い人だった。その才覚は男性的な政治の世界で十分に発揮されたが、彼女はミューズのような存在として後世に名を残すことを強く望んでいた。
最高の女性として認められたかったのだ。
ルクレツィア・ボルジアに政治的才覚はなかった。彼女は常に、影響力の大きい父や兄、夫に従う立場にあった。そして彼らをはじめとして、彼女は多くの男性に愛された。画家や詩人は彼女を理想的な女性として進んで表現した。その容姿、可憐な立ち居振舞い、無邪気な言動と従順。男に、「守りたい」と思わせる要素を備えていたからである。
夫がいなくても国を切り盛りできるイザベッラとは対極の存在である。
夫の浮気がなくても、イザベッラはルクレツィアと仲良くはなれなかっただろう。ルクレツィアが持っているものを、イザベッラは手に入れられなかったからである。
そしてルクレツィアはまだ若くして逝き、イザベッラは生きている。
ロンバルディア平野に豊かな実りをもたらすポー川は、ここに至り水路としてフェラーラの街へ導かれている。
その水路はエステンセ城の堀まで注ぎ込む。彼女は4つの塔に囲まれて建つエステンセ城を眺める。城門につながる跳ね橋は降りていて、イザベッラ一行を今か今かと待つ衛兵が見やっている姿が目に入る。
「これが私に与えられた役割なのでしょう。だとすれば、それを全うしなければね」
イザベッラはポツリとつぶやいて城門をくぐる。
エステンセ城ではアルフォンソと息子のエルコレがイザベッラを出迎える。長男のエルコレは18歳になる。父親アルフォンソより線の細い印象だが、黒髪にとび色の瞳の美青年だ。そこにははっきりとルクレツィアの面影が見てとれた。
イザベッラは微笑む。
これも女ができる偉大な仕事に違いない。彼女も7人子を産んだので、そこに異論はない。
「ずいぶん立派になったわ、うっとりするぐらい美男子ね」
「おばさまも、お元気そうで何よりです」とエルコレが近寄って頬を寄せる。イザベッラは堂々として応じる。
「そろそろ、結婚の話も出ているんじゃないの? 私は16で結婚しましたけど、行き遅れと言われたものですからね」とイザベッラがアルフォンソを見て微笑する。
「それは先代が姉上を大事にして離さなかったからですよ。姉上はデステ家のレッジーナ(女王)でした」とアルフォンソが懐かしそうに言う。
「まぁ、持ち上げて! でも50を過ぎてしまえばレッジーナだろうが何だろうが、おばさんに過ぎませんよ」とイザベッラは笑う。彼女は51歳になった。アルフォンソはいたずらっぽく目をきょろりとさせて言う。
「エルコレにはいくつか縁談も来ていますが、まだ決めていません」
「ああ、それは分かるわ。悩ましいところね」とイザベッラも同意する。
エルコレはすぐに座を外すが、去り際に一言告げる。
「おばさま、礼拝堂の装飾が見事ですよ。後でご案内します」
エルコレの後姿を見ながら、「イッポーリトが大司教になったから、生家としては大変ね」とイザベッラは言う。エルコレより一歳下の弟、イッポーリトはこの7年前、10歳のときにミラノの大司教になっている。
アルフォンソがうなずく。
イザベッラがフェラーラにやってきたのは物見遊山のためではない。マントヴァとフェラーラがこれからどのような選択をするべきか、アルフォンソと話をするためにやって来たのだ。
イザベッラはマキアヴェッリと手紙のやりとりをしているが、それは彼が卓越した見識を持っていると認めているからであった。彼の著した『君主論』を読んで自身の治世に生かそうとしたのはその一例だろう。その彼が懸念している問題について、彼女も同様に感じていた。
これまでになかった形の脅威。
ローマもどこと組むべきか決めかねているように思える。イザベッラは、マキアヴェッリの見方には賛成だったが為政者として他国の宗教問題は枠の外である。その結果、やはり、フランスと神聖ローマ帝国のどちらに付くべきかという二者択一になるのだった。
さて、昨年のパヴィアの戦い(ミラノを巡っての)で大敗を喫し、捕囚の憂き目にあったフランス国王フランソワ1世である。彼はようやく、囚われていたスペインから解放された。そしてまた捲土重来(けんどちょうらい)を期している。
アルフォンソ・デステはもうフランスと同盟を組む気がかけらもなかった。パヴィアの戦いでの惨敗は言うに及ばず、その前のカンブレー同盟戦争での体たらくを見ていたからである。戦争は命がけの仕事である。信用できない相手とは組むことができない。
アルフォンソの考えは明快である。
ただし、物事は明快なだけでは進まない。
姉のイザベッラはそれをよく知っている。
ここはイタリア半島だ。教皇庁、すなわちローマが中心なのだ。少なくとも教皇はそう考えている。ローマがどこと組むのか、それは優先して考慮しなければいけない。それでなければ、瞬く間に「破門」という罰を与えられ敵とみなされる。もし、フランスと組むのであればマントヴァやフェラーラも追随するのが順当な方法なのだ。
実際、この頃にはフランスと教皇の間で交渉が進められ、新たな同盟が築かれようとしている。
イザベッラは弟のアルフォンソにそのことはたびたび説明している。しかし、アルフォンソははっきりした理屈が立たないなら、フランスに付くべきではないと反駁(はんばく)する。彼女もアルフォンソの心情は十分理解している。ただ、ここは肉親として話す場ではない。小国といえ、その長同士の折衝なのだ。
「そう、場合によってはまた違う道を取らなければいけないわね」とイザベッラは少し疲れたようにつぶやく。
「姉上は珍しく弱気ですね」とアルフォンソが意外そうな顔をして言う。
「少し、マキアヴェッリからの手紙を読んで思うところがあったわ。時計は確かに進んでいる。私たちはもう、若くはない」
「60でもまだまだ壮健なコンドッティアーレ(傭兵隊長)はいますけどね」とアルフォンソが言う。
「ああ、フランスに行ってしまったアンドレア・ドーリアは私より結構年長だったわ。でもそれは稀有(けう)な例よ。
コンドッティアーレと傭兵、とても分かりやすい軍隊の形ね」
姉の話の方向が変わったので、アルフォンソがその顔をじっと見る。姉は続ける。
「オスマン・トルコが圧倒的な力を持っているのは、スルタンの直属軍があるからよ。そして征服した土地の租税を免除する代わりに直属軍に従う軍隊へ人を出させる。そして、傭兵ではない兵を増やしている。あなたなら、それは分かるでしょう」
「ええ」とアルフォンソが応じる。
「それは、今までにはなかった軍隊の形だわ。そこまで完成された形ではないけれど、神聖ローマ帝国先代の皇帝は直属の傭兵軍を作った」
「ランツクネヒトですね」とアルフォンソが言う。イザベッラはうなずく。
「ランツクネヒトは傭兵といっても、スイスのそれのように、お金さえ払えば誰にでも付くこれまでの傭兵とは違う。従う旗はひとつ。これはもう、今までの傭兵とは似て非なるものでしょう。それがどう動くのかと考えると、空恐ろしさを感じる」
アルフォンソは姉の考えが軍事力の分析にまで及んでいることに驚く。
「姉上、確かにその通りです。直属の強固な軍隊、連合、それがないことがイタリア半島のアキレス腱だと私もずっと考えていました」
「ええ、チェーザレ・ボルジアもそれは分かっていた。前の世紀からね」とイザベッラがつぶやく。
アルフォンソと姉が話しているところに再びエルコレがやって来る。
「おばさま、そろそろ礼拝堂のほうに行きませんか」
イザベッラは笑って立ち上がり、エルコレと一緒に部屋を出ていった。アルフォンソは去っていく二人の背中を見て、しばらく思案している。そして、
「どこに付くか、選択の余地はないようだ」とつぶやいた。
エステンセ城の礼拝堂には美しい天井画が描かれている。イザベッラがいた頃にはなかったものである。八角形を中心にして4つの円が広がり、そこに柔らかく明るい色彩の宗教画が描かれている。四隅には白い鳩が配置されている。ミケランジェロよりラファエロ寄りの柔らかく女性的な絵である。
アルフォンソの武骨さとは対照的だ、とイザベッラは微笑む。これはルクレツィアを偲ぶために描かせたのだ。絵の中にはルクレツィアを思わせる人物もいる。
愛されるというのは、このようなことなのだろう。
イザベッラはしばらく感慨に浸っていたが、ふと思い出してエルコレに聞く。
「ミケランジェロのところに、ドン・ミケロットの子がいるのでしょう?」
「はい、たまに手紙が来ます」とエルコレが言う。
「そうねえ、その子に肖像画を描いてもらえたらと思うのよ。でもフィレンツェのマキアヴェッリがね、きっとミケランジェロも付いて来るっていうの。ミケランジェロはね、どう考えても私に手加減をしてくれないと思うわ」
エルコレは苦笑するしかない。
「でも、アルフォンソならまあまあの題材になると思うけれど。来てもらったらいいじゃない」とイザベッラも苦笑して補足する。
「そうですね、僕もニコラスにはとても会いたいので、父と相談してみます」
そのようにフェラーラで噂をされているとは夢にも思っていないミケランジェロ・ブォナローティとニコラス・コレーリャである。
この頃、フィレンツェのミケランジェロのアトリエは工房になっている。ニコラスは古株になったものの、相変わらず物静かで後から入ってきた弟子に先輩風を吹かすこともなかった。
ニコラスより3つ年下、15歳のジョルジョ・ヴァザーリが弟子として入ってきている。のちにミケランジェロの弟子のうち、もっとも成功することになる。
21世紀の現在もフィレンツェに残る『ヴァザーリの回廊』や『ウフィッツィ美術館(建物)』にその名を残す。
そして、1526年のこのとき、工房はサン・ロレンツォ聖堂の内部設計、装飾の仕事でたいへん忙しくなっている。デザインはおおむね固まっており、材料の調達や模型作りで時が過ぎていく。その合間に短期間でできる仕事も請け負っている。行程のいくつかを弟子が担い、完成させるのだ。
「こんなに忙しいと思いませんでしたよ。絵を描いてる暇もありませんね」と入門して間もないジョルジョはニコラスにこぼす。
「そうだね。絵の仕事は当分来ないよ。僕は合間を見て、こっそりデッサンしたりテンペラで描いたりしているんだ」とニコラスが穏やかな調子で言う。
ニコラスの周りはだいぶ賑やかになってきた。彼は青春を謳歌する世代になっていた。
イタリア半島・マントヴァ侯爵領を摂政として治めているイザベッラ・デステは、フェラーラ公国のアルフォンソ・デステのもとを訪ねることにした。
イザベッラはアルフォンソの実姉である。
「この辺りは変わらず落ち着いていていい景色だこと」と移動中のイザベッラはポー川の流れに沿って進みながら思う。
ここはイザベッラの生まれ育った土地で、フェラーラのエステンセ城は実家なのだ。とはいえ、彼女がフェラーラに赴くことはほとんどなかった。弟アルフォンソの妻をあまり好まなかったのが理由のひとつだ。その妻とは、今は亡きルクレツィア・ボルジアである。
これを嫁と小姑の問題に帰するのは単純過ぎるかもしれない。イザベッラの夫、フランチェスコ・ゴンザーガとルクレツィアはとても親しく付き合っていた。もちろん、それが二人の女性の間に大きな亀裂を生んだことは間違いない。ただ、二人の女性が正反対の資質を持っていたことが浮気の原因になったことも、推し量ることができる。
イザベッラはひとことで言えば、有能な政治家である。大国の干渉や侵攻を防ぐために取れる限りの手段を尽くす。カンブレー同盟戦争でマントヴァに火の粉がかからなかったのは、ひとえに彼女の働きである。その交渉能力の手腕は見事なものだった。同時にマントヴァに芸術家を多く招き、文化の中心地を作ろうとした。15世紀と16世紀の境目の頃には、レオナルド・ダ・ヴィンチがしばらく逗留していた。イザベッラは彼に肖像画を描いてほしいと何度も依頼して、デッサンを受けとることができた。このデッサンは今も残っている。
ここに彼女の二律背反がみられる。
イザベッラは賢く、誇り高い人だった。その才覚は男性的な政治の世界で十分に発揮されたが、彼女はミューズのような存在として後世に名を残すことを強く望んでいた。
最高の女性として認められたかったのだ。
ルクレツィア・ボルジアに政治的才覚はなかった。彼女は常に、影響力の大きい父や兄、夫に従う立場にあった。そして彼らをはじめとして、彼女は多くの男性に愛された。画家や詩人は彼女を理想的な女性として進んで表現した。その容姿、可憐な立ち居振舞い、無邪気な言動と従順。男に、「守りたい」と思わせる要素を備えていたからである。
夫がいなくても国を切り盛りできるイザベッラとは対極の存在である。
夫の浮気がなくても、イザベッラはルクレツィアと仲良くはなれなかっただろう。ルクレツィアが持っているものを、イザベッラは手に入れられなかったからである。
そしてルクレツィアはまだ若くして逝き、イザベッラは生きている。
ロンバルディア平野に豊かな実りをもたらすポー川は、ここに至り水路としてフェラーラの街へ導かれている。
その水路はエステンセ城の堀まで注ぎ込む。彼女は4つの塔に囲まれて建つエステンセ城を眺める。城門につながる跳ね橋は降りていて、イザベッラ一行を今か今かと待つ衛兵が見やっている姿が目に入る。
「これが私に与えられた役割なのでしょう。だとすれば、それを全うしなければね」
イザベッラはポツリとつぶやいて城門をくぐる。
エステンセ城ではアルフォンソと息子のエルコレがイザベッラを出迎える。長男のエルコレは18歳になる。父親アルフォンソより線の細い印象だが、黒髪にとび色の瞳の美青年だ。そこにははっきりとルクレツィアの面影が見てとれた。
イザベッラは微笑む。
これも女ができる偉大な仕事に違いない。彼女も7人子を産んだので、そこに異論はない。
「ずいぶん立派になったわ、うっとりするぐらい美男子ね」
「おばさまも、お元気そうで何よりです」とエルコレが近寄って頬を寄せる。イザベッラは堂々として応じる。
「そろそろ、結婚の話も出ているんじゃないの? 私は16で結婚しましたけど、行き遅れと言われたものですからね」とイザベッラがアルフォンソを見て微笑する。
「それは先代が姉上を大事にして離さなかったからですよ。姉上はデステ家のレッジーナ(女王)でした」とアルフォンソが懐かしそうに言う。
「まぁ、持ち上げて! でも50を過ぎてしまえばレッジーナだろうが何だろうが、おばさんに過ぎませんよ」とイザベッラは笑う。彼女は51歳になった。アルフォンソはいたずらっぽく目をきょろりとさせて言う。
「エルコレにはいくつか縁談も来ていますが、まだ決めていません」
「ああ、それは分かるわ。悩ましいところね」とイザベッラも同意する。
エルコレはすぐに座を外すが、去り際に一言告げる。
「おばさま、礼拝堂の装飾が見事ですよ。後でご案内します」
エルコレの後姿を見ながら、「イッポーリトが大司教になったから、生家としては大変ね」とイザベッラは言う。エルコレより一歳下の弟、イッポーリトはこの7年前、10歳のときにミラノの大司教になっている。
アルフォンソがうなずく。
イザベッラがフェラーラにやってきたのは物見遊山のためではない。マントヴァとフェラーラがこれからどのような選択をするべきか、アルフォンソと話をするためにやって来たのだ。
イザベッラはマキアヴェッリと手紙のやりとりをしているが、それは彼が卓越した見識を持っていると認めているからであった。彼の著した『君主論』を読んで自身の治世に生かそうとしたのはその一例だろう。その彼が懸念している問題について、彼女も同様に感じていた。
これまでになかった形の脅威。
ローマもどこと組むべきか決めかねているように思える。イザベッラは、マキアヴェッリの見方には賛成だったが為政者として他国の宗教問題は枠の外である。その結果、やはり、フランスと神聖ローマ帝国のどちらに付くべきかという二者択一になるのだった。
さて、昨年のパヴィアの戦い(ミラノを巡っての)で大敗を喫し、捕囚の憂き目にあったフランス国王フランソワ1世である。彼はようやく、囚われていたスペインから解放された。そしてまた捲土重来(けんどちょうらい)を期している。
アルフォンソ・デステはもうフランスと同盟を組む気がかけらもなかった。パヴィアの戦いでの惨敗は言うに及ばず、その前のカンブレー同盟戦争での体たらくを見ていたからである。戦争は命がけの仕事である。信用できない相手とは組むことができない。
アルフォンソの考えは明快である。
ただし、物事は明快なだけでは進まない。
姉のイザベッラはそれをよく知っている。
ここはイタリア半島だ。教皇庁、すなわちローマが中心なのだ。少なくとも教皇はそう考えている。ローマがどこと組むのか、それは優先して考慮しなければいけない。それでなければ、瞬く間に「破門」という罰を与えられ敵とみなされる。もし、フランスと組むのであればマントヴァやフェラーラも追随するのが順当な方法なのだ。
実際、この頃にはフランスと教皇の間で交渉が進められ、新たな同盟が築かれようとしている。
イザベッラは弟のアルフォンソにそのことはたびたび説明している。しかし、アルフォンソははっきりした理屈が立たないなら、フランスに付くべきではないと反駁(はんばく)する。彼女もアルフォンソの心情は十分理解している。ただ、ここは肉親として話す場ではない。小国といえ、その長同士の折衝なのだ。
「そう、場合によってはまた違う道を取らなければいけないわね」とイザベッラは少し疲れたようにつぶやく。
「姉上は珍しく弱気ですね」とアルフォンソが意外そうな顔をして言う。
「少し、マキアヴェッリからの手紙を読んで思うところがあったわ。時計は確かに進んでいる。私たちはもう、若くはない」
「60でもまだまだ壮健なコンドッティアーレ(傭兵隊長)はいますけどね」とアルフォンソが言う。
「ああ、フランスに行ってしまったアンドレア・ドーリアは私より結構年長だったわ。でもそれは稀有(けう)な例よ。
コンドッティアーレと傭兵、とても分かりやすい軍隊の形ね」
姉の話の方向が変わったので、アルフォンソがその顔をじっと見る。姉は続ける。
「オスマン・トルコが圧倒的な力を持っているのは、スルタンの直属軍があるからよ。そして征服した土地の租税を免除する代わりに直属軍に従う軍隊へ人を出させる。そして、傭兵ではない兵を増やしている。あなたなら、それは分かるでしょう」
「ええ」とアルフォンソが応じる。
「それは、今までにはなかった軍隊の形だわ。そこまで完成された形ではないけれど、神聖ローマ帝国先代の皇帝は直属の傭兵軍を作った」
「ランツクネヒトですね」とアルフォンソが言う。イザベッラはうなずく。
「ランツクネヒトは傭兵といっても、スイスのそれのように、お金さえ払えば誰にでも付くこれまでの傭兵とは違う。従う旗はひとつ。これはもう、今までの傭兵とは似て非なるものでしょう。それがどう動くのかと考えると、空恐ろしさを感じる」
アルフォンソは姉の考えが軍事力の分析にまで及んでいることに驚く。
「姉上、確かにその通りです。直属の強固な軍隊、連合、それがないことがイタリア半島のアキレス腱だと私もずっと考えていました」
「ええ、チェーザレ・ボルジアもそれは分かっていた。前の世紀からね」とイザベッラがつぶやく。
アルフォンソと姉が話しているところに再びエルコレがやって来る。
「おばさま、そろそろ礼拝堂のほうに行きませんか」
イザベッラは笑って立ち上がり、エルコレと一緒に部屋を出ていった。アルフォンソは去っていく二人の背中を見て、しばらく思案している。そして、
「どこに付くか、選択の余地はないようだ」とつぶやいた。
エステンセ城の礼拝堂には美しい天井画が描かれている。イザベッラがいた頃にはなかったものである。八角形を中心にして4つの円が広がり、そこに柔らかく明るい色彩の宗教画が描かれている。四隅には白い鳩が配置されている。ミケランジェロよりラファエロ寄りの柔らかく女性的な絵である。
アルフォンソの武骨さとは対照的だ、とイザベッラは微笑む。これはルクレツィアを偲ぶために描かせたのだ。絵の中にはルクレツィアを思わせる人物もいる。
愛されるというのは、このようなことなのだろう。
イザベッラはしばらく感慨に浸っていたが、ふと思い出してエルコレに聞く。
「ミケランジェロのところに、ドン・ミケロットの子がいるのでしょう?」
「はい、たまに手紙が来ます」とエルコレが言う。
「そうねえ、その子に肖像画を描いてもらえたらと思うのよ。でもフィレンツェのマキアヴェッリがね、きっとミケランジェロも付いて来るっていうの。ミケランジェロはね、どう考えても私に手加減をしてくれないと思うわ」
エルコレは苦笑するしかない。
「でも、アルフォンソならまあまあの題材になると思うけれど。来てもらったらいいじゃない」とイザベッラも苦笑して補足する。
「そうですね、僕もニコラスにはとても会いたいので、父と相談してみます」
そのようにフェラーラで噂をされているとは夢にも思っていないミケランジェロ・ブォナローティとニコラス・コレーリャである。
この頃、フィレンツェのミケランジェロのアトリエは工房になっている。ニコラスは古株になったものの、相変わらず物静かで後から入ってきた弟子に先輩風を吹かすこともなかった。
ニコラスより3つ年下、15歳のジョルジョ・ヴァザーリが弟子として入ってきている。のちにミケランジェロの弟子のうち、もっとも成功することになる。
21世紀の現在もフィレンツェに残る『ヴァザーリの回廊』や『ウフィッツィ美術館(建物)』にその名を残す。
そして、1526年のこのとき、工房はサン・ロレンツォ聖堂の内部設計、装飾の仕事でたいへん忙しくなっている。デザインはおおむね固まっており、材料の調達や模型作りで時が過ぎていく。その合間に短期間でできる仕事も請け負っている。行程のいくつかを弟子が担い、完成させるのだ。
「こんなに忙しいと思いませんでしたよ。絵を描いてる暇もありませんね」と入門して間もないジョルジョはニコラスにこぼす。
「そうだね。絵の仕事は当分来ないよ。僕は合間を見て、こっそりデッサンしたりテンペラで描いたりしているんだ」とニコラスが穏やかな調子で言う。
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(2022.04.04)
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