16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ

あなたのモデルになる 1530年 ヴェネツィア

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〈ラウラ・ピアッジョ、ニコラス・コレーリャ、ティッツィアーノ・ヴェチェッリオ、ジョルジョ・ヴァザーリ、ミケランジェロ・ブォナローティ〉

 ラウラ・ピアッジョは仕事帰りにリアルト橋にいたる運河沿いを歩いていた。いつもゆっくりと歩いているのだが、この日ばかりは早足で歩く。

 ヴェネツィアの中心地は狭い範囲に集中している。サン・マルコ聖堂やデュカーレ宮殿は海辺にあるが、グランド・カナルからもさほど離れていないので、歩いてもそれほど時間がかからない。それでも、ラウラは急がずにはいられなかった。彼の気が急に変わって、立ち去ってしまうのではないかと不安だったのである。

 彼、とはニコラス・コレーリャである。

 ラウラはほどなく、自分を待つ背の高い男の姿を見つける。画帳は手にしているけれど、運河ではなく道行く人を見ている。
 ラウラは何となくほっとした。

 あの人も私と同じなんだ。
 少し緊張して、とてもわくわくして。

「ニコラス、こんばんは」と声を上げて、ラウラは彼に駆け寄っていった。

 彼女の家までのほんの少しの時間、ふたりは話しながら歩いた。ふたりとも絵に興味があったので、絵の話が中心だった。ニコラスが幼い頃大砲のスケッチを熱心にしていた話をすると、ラウラは笑いだした。
「私が大砲の柄を刺繍の図案にしたら、親方に大目玉よ! でも、粋な貴婦人なら面白がってくれるかもしれないわ」
 ニコラスは彼女が心の底から楽しそうに笑うのを聞いて、楽しい気分になる。

 ずっと昔、ミケランジェロに出会うなり笑われたときもそうだった。
 もともと、ニコラスはおしゃべりではないので、自分と一緒にいる人はさぞかし退屈なのだろうと思っていた。しかし、ミケランジェロはニコラスの一言に大笑いして、工房に誘った。
 心から笑ってくれるのは、最初から心を開いてくれていることなのだと、あの時に分かった気がする。

 この人もそうみたいだ、とニコラスはラウラを見ながら思う。

「でもラウラ、イルカの紋様をさっき見せてもらったけど、本当にあんな怖くて滑稽(こっけい)な生き物なの? 海にいたら見られるのかな」とニコラスも聞いてみる。

 ニコラスの言う通り、当時のイルカの紋様は現代の我々が見ているような姿で描かれていない。少々グロテスクでユーモラスである。当時のイルカがそのような姿だったわけではない。聖なる海獣として神秘性を加え、紋様として収まるように描かれたのである。
 イルカをまともにスケッチするだけの目を持つ人が少なかったのかはわからない。少なくとも、馬の脚の運動のように精巧に描かれはしなかっただろう。かつて、ラファエロ・サンティがキージ邸に描いた『ガラテアの勝利』。それに描かれていたのも古代ローマ以来伝統となっている、少々グロテスクでユーモラスな紋様のイルカである。

「そうね、私もまともに見たことはないわ。海でずっと息ができれば、じっくり観察できるのにね。だって貝殻はとても正確に描いているでしょう。イルカも陸に上げてぽんと手に載せて見ることができれば、言うことはないわね」

 残念なことにグランド・カナルにイルカは入ってこなかったので、その真の姿を確かめることはできなかった。しかし彼らにはいくらでも話したいことがあり、それが尽きることはなかったので、イルカは大きな問題にはならなかった。

 ふたりはそうして、帰り道の運河で毎日会って時間を重ねていった。


 そんな1530年の秋のこと、ニコラスは任された小さな聖母子像が完成したので、師匠のティッツィアーノのところに持っていった。仕上がりを見てもらうためである。師匠が作品を見ている間、ニコラスはアトリエの絵を何気なく眺めていた。そして、師匠に尋ねるというほどもなく、つぶやいた。

「裸婦像も描かれるんですね」
 その声を耳にしたティッツィアーノが顔を上げる。
「ああ、依頼があれば何でも。モデルはたいてい依頼主が連れてくる。(ミケランジェロ・)ブォナローティ氏の工房ではそんなことがなかっただろう」
 師匠の言葉にニコラスはうなずく。
「そうだな……あの人が目指しているのは、力強く雄々しい理想の肉体を形にすることだ。女性を描いても筋骨隆々だろう」
「そうですね。あの方にとっては、それがテーマなんです」とニコラスが言う。
「そう。彼は理想の身体を、特に男性を造りたいのだろうね。それなのに、最近はいろいろことで悩まされているから災難だ。彼のパトロンは、ローマにメディチ家だからね。とにかく、今は彼が無事であることを祈るしかないな」とティッツィアーノは同情して言う。

 ティッツィアーノの工房では、聖堂用の大きな祭壇画も請け負うし、神話がテーマの絵も描く。小振りの聖母子像や肖像画、裸婦像も守備範囲である。それはヴェネツィアという商都で活動することも大きかった。商人は宗教画より、現世利益をひいきする。肖像画や女性の裸体は現世利益の最たるものだろう。

 逆にモデルが特定できる裸婦像など、ローマでは依頼されようもなかった。

「ニコラスは人体について、特に男性のほうはよく学んできたと思うが、女性の身体もたいへん美しい。男女は一対のものだからね。ここではそれも学んでほしい」とティッツィアーノは微笑んだ。
 そこには悲しみの色が見えた。つい先頃、ティッツィアーノの妻セシリアは子を産んだあとの肥立ちが悪く、この世を去ったのである。ニコラスは無言でうなずき、そして考えていた。

 愛し愛され、別れることはとても辛いものなのだろう。僕もマルガリータさんのことでひどく衝撃を受けたけれど、師匠の悲しみはもっともっと深いのかもしれない。


 その日の夕方、ニコラスはリアルト橋の見える運河沿いで落ち合ったラウラに話をしてみた。
 これまで男女を問わず人間の生身の裸身をモデルにしたことがなく、彫刻のスケッチが主だったことである。

 そう話しながら、ニコラスはかつてラファエロが描いたマルガリータの絵のことを思い出していた。今思えば裸体そのものより、少し恥じらったようなポーズや表情に強いエロティシズムを感じたのかもしれない。
 娼婦ではない。自分にだけ肌をさらす、自分だけの女性だと主張しているように見えるのはそのせいだろう。
 ラファエロさんらしい描きかただ、とニコラスは改めて感心していた。
 あの絵は今、どこにあるのだろう。

 ニコラスの心の傷はふさがりつつあるようだ。

 一方、ラウラは黙り込んでいた。何か考え事をしているようだ。そして、ニコラスにそっと尋ねる。
「ニコラスも、じきに女性のモデルを描くの?」
 ニコラスはうーん、と考える。
「そうだね。工房に依頼があれば。たいていは貴族の依頼で娼婦の女性を描いたりすることが多いようだよ。でもみんな、師匠に描いてほしいはずだから、僕には当分来ないだろうね」

 ラウラはまた黙り込んだ。
 ニコラスは、ラウラが黙り込む理由がよく分からなかったが、今日は気分が乗らないのだろうと考えて無言のまま家まで送っていった。



 ローマにいるジョルジョ・ヴァザーリから手紙が来たのは、クリスマスの頃だった。ヴァザーリはミケランジェロの工房でニコラスの後輩にあたる青年だ。
 ニコラスは手紙の封をもどかしい手つきで開く。よい知らせかそうでないかが分からないので、気が急くのである。

〈親愛なるニコラスへ

 きみに真っ先に知らせなければいけないと思って、慌ててペンと紙を手に取った。だからどうか、汚い走り書きになることを許してほしい。
 師匠は無事だよ!
 あの悲惨なフィレンツェ包囲戦のあと、しばらく身を隠していたけど、ローマに現れたんだ。教皇クレメンス7世に呼び出されたようだ。すでに先日、クレメンス7世との面会は終わって、正式に赦免の言葉を受けたようだ。

 久しぶりに師匠に会えた!
 きみは悔しがるかな……僕だけ師匠に会えるなんてさ。でも、師匠はきみのことをとても心配していたよ。いきなりヴェネツィアに行かせてしまったからってさ。
 それは書いておかないと公平じゃないね。

 師匠はクレメンス7世からもまた依頼を受けたようだし、すべて元通りだ。システィーナ礼拝堂の祭壇画の依頼があったこと、覚えているかい。けれど、師匠は他にもたくさん中途の仕事を抱えているだろう。それがどうなるのかは、師匠にも分からないみたいだ。いっそヴェネツィアに逃げたいとこぼしていたよ。

 元通りなのだけれど、やっぱり師匠は少しやつれてしまったように見える。ローマに留まって仕事をするのか、フィレンツェに戻るかもまだ決めかねているようだ。
 フィレンツェ包囲戦だって、師匠の心に深い傷を刻んだのだと思うよ。僕だって、あのありさまをフィレンツェの外から見てたいへんなショックを受けたのだからね。

 いずれにしても、師匠は無事だということをまず君に知らせるよ。何か師匠に言伝てがあったら、僕か、あるいはきみの知っているローマの枢機卿(すうきけい、すうききょう)に手紙を書くといいよ。じきに師匠の工房もフィレンツェで再開すると思う。そのときはまた知らせるから、それまでヴェネツィアで腕を磨いておいてくれ。

  親愛をこめて ジョルジョ〉

 手紙を握りしめて、ニコラスは窓辺に立っていた。そこにヴェネツィアの師匠、ティッツィアーノがやってくる。ローマからの手紙がどのような内容か、もう分かっている様子だ。
「ブォナローティ氏は無事だったのだね」
 ティッツィアーノの声にニコラスは振り返り微笑む。
「ええ、今はローマにいて、また仕事を再開できるようです」
「それは何よりだ。あれほどの芸術家が戦乱などで潰されるはずはないと信じていたよ」とティッツィアーノも微笑む。
「ありがとうございます」
 ティッツィアーノはうなずきながらニコラスに聞く。
「フィレンツェに戻りたいか」
 突然の質問にニコラスは驚く。ティッツィアーノは言葉を続ける。
「君は誰よりも早く、誰よりも上手に絵を仕上げる。私より早いこともあるぐらいだ。デステ公は、物心つく前から君が絵を描いていたとおっしゃっていたが、現実に君の腕を見て大いにうなずいたよ。ただ、君はいつも、翼をもがれた天使のようにうちひしがれている。少なくとも私にはそう見える。もし、フィレンツェに戻りたいのなら、デステ公にもそのように話をしてみるが」

 ニコラスは言葉を失う。自分の憂鬱を、この師匠はフィレンツェへの郷愁だと考えているのだ。
 正確に言うならばそれは違う。
 フィレンツェにせよフェラーラにせよ、自分の在るべき場所が見つからない。そして、亡きマルガリータへの想いがそうさせていたのだ。

 そう、そうさせていたのだ。
 しかし、今は少し変わったことにニコラスは気づいている。ジョルジョからの便りで少し感傷的にはなっているが、それはフィレンツェに戻りたいという気持ちからではない。今はヴェネツィアにいたいと思うようになっている。

「師匠、前の仲間からの手紙を見て感傷的になったことは本当です。でも、僕はフィレンツェに戻りたいとは思っていません」

 ニコラスの話にティッツィアーノは耳を傾ける。師匠からすると、少し意外な言葉だったからだ。
「ヴェネツィアはいたるところに水が流れていて、大海も目の前にあります。そして、水に浮かぶように作られた街はとても美しい。僕は空き時間に広場や聖堂だけでなく、そこを歩く人々、もちろん運河や海、造船所も眺めていましたが、この街には他にはない美しさがあります。それに、師匠がありとあらゆる種類の絵を手掛けていらっしゃることにも感嘆しました。これほど多くの種類の絵画を学べる場所はないと思います。それに……」
「それに?」とティッツィアーノが聞き返す。

「好きな女性がいます」とニコラスは静かな声で、しかし師匠の目をまっすぐに見て言い切った。ティッツィアーノは一瞬目を丸くして、それから満面の笑顔を見せた。

「それは芸術家にとって、最高の創造の源だよ、ニコラス」



 もう日が落ちるのも早くなった。

 ニコラスは少し歩く速度を上げていた。自分が送っていくとは言っても、運河沿いのこの場所まで来る間にラウラに何かあったら、と少し心配になる。彼女さえ許してくれれば、刺繍の工房まで迎えに行くのだが、とニコラスは思う。しかしそれをするには資格が必要だ、とニコラスは思う。

 恋人、婚約者、あるいは夫という資格である。

 この数ヵ月間、自分がラウラにとってどのような存在なのか、ニコラスにはまったく分からなかった。仲のいい友人であることは疑いがない。しかし、ラウラがそれ以上の感情を持っているかというと、ニコラスはまったく自信がなくなってしまう。

 伊達男ならばもっと早い時点でさっさと口説いてしまうのだが、ニコラスはそうではないようだ。
 この200年後にヴェネツィアに登場する、かの有名なカサノヴァのようにはなれないということだ。

 師匠のティッツィアーノに告げた通り、ニコラスは彼女を好きになっていた。もし、彼女が自分に友人以上の好意を持っていると分かれば、すぐにでも愛を告げたいのだ。

 その日、ラウラもどこか思い詰めた表情で現れた。ニコラスは何かまずいことをしただろうかと思い返してみる。ラウラはニコラスの顔をじっと見上げて、何か言おうとしている。ニコラスは目を見開いて、彼女のぽってりとした唇から出てくる言葉を待った。彼女はその唇を一瞬すぼめてから、思いきって言った。

「私、あなたのモデルになる」

 ニコラスは自分の口を手で覆うと、空を見上げた。すでに月が海のほうから姿を現している。

「ねえラウラ、ちょっと待って。よく分からないんだけど……君を描きたいと思うけど、何だかいきなりすぎて……」

 ラウラは真っ赤な顔になっていた。それでも一生懸命にニコラスに訴える。
「私、いやなの。ニコラス、あなたがどこかの娼婦の裸を描いている姿を想像するだけで泣けてしまうの。それだけじゃないわ。他の女性と親しく話をしている姿を想像するだけでも……それなら、私がモデルになる」

 ニコラスはこの事態をどう収拾すべきか、よりよい答えを持ち合わせていなかった。彼はまず、ラウラの目をじっと見た。彼女の瞳は潤んでいる。それを見て、ニコラスは決心がついた。
「ラウラ、それじゃ順番が違うよ」
 ラウラは潤んだ瞳のまま、ニコラスの目を覗き込む。
「順番って?」
 ニコラスはラウラを引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
「ラウラ、愛してる。大好きだよ」
 ラウラはニコラスの腕にぎゅっと巻かれてびっくりしたまま、身動きも取れずにいる。胸の鼓動は早く打ったままで収まりそうにない。
「私も、私も大好きよ。ニコラスが好き」

 リアルト橋のたもとで、人々は足早に通りすぎていく。
 冬の明るい月が抱き合うふたりを静かに照らしていた。
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