16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第2章 海の巡礼路(西洋編) フランシスコ・ザビエル

プレヴェザの海戦 1537~38年 ヴェネツィア、プレヴェザ(ギリシア)

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<フランシスコ・ザビエルら会員たち、神聖ローマ皇帝カール5世、教皇パウロ3世、オスマン帝国スレイマン1世、ヴェネツィア海軍将軍カペッロ、皇帝軍海将アンドレア・ドーリア、教皇軍海将グリマーニ、オスマン軍海将バルバロス・ハイレッディン>


 1537年6月、ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂で司祭に叙階された私たちは、病院での奉仕活動にいそしみ、巡礼船が出るのを今か今かと待っていた。聖地イェルサレムに赴くことは、私たちの誓願の大切な柱だったのだからね。
 私はローマに赴けなかったイニゴに教皇パウロ3世の忠告を伝えた。「聖地イェルサレムへの巡礼は困難だと思う」と言われたことだ。イニゴは私たちがそれを伝える前に、そのことをよく理解していたよ。ヴェネツィアにずっといて、イェルサレムへの渡航について情報を得ていたのだからね。

 そう、ヴェネツィアは陸側の最前線だった。

 私たちのイェルサレム行きが足止めを食ったのはそのためなのだよ、アントニオ。それがまた、私たちを別の方向に進めることになるのだから、一概(いちがい)に不運だったわけではない。

 さて、私たちにとっては運命的な「プレヴェザ海戦」の話をしようか。



 さきにロードス島をオスマン・トルコが攻略し、聖ヨハネ騎士団が敗北した話をしたと思うが、スレイマン1世は北アフリカ、イベリア半島まで含めて地中海すべてを手にするつもりだったのだ。そのためにみずからの海軍の補強をはかり、本格的な海の侵略を進めることとした。
 その海将に選んだのが地中海に悪名を馳せた海賊バルバロス・ハイレッディン、通称「赤ひげ」だ。絵に描いたような海賊だ。その副将になったドラグーも、そのまま海賊だ。地中海を知り尽くしているのだから、これほど適した人材もいないだろう。
 ハイレッディンの話はよく知られている。本名はフズルという。レスボス島出身の彼は、エーゲ海を中心に活動する商人だったが、のちに海賊に転向した。兄のオルチとともに北アフリカのジェルバ島を拠点にして海で大暴れ、それだけでなく陸にも進攻していく。アフリカ沿岸の重要な拠点であるアルジェを実質的に支配するにいたった。
 その過程でオスマン帝国と縁を持つにいたったのだ。それは先代のセリム1世の頃だったという。

 しかし、ヴェネツィアでバルバロス・ハイレッディンなどと呼ぶ者はいなかったよ、「赤ひげ」としか言われていなかったと思う。私はヴェネツィアで似顔絵を見たことがあったが、赤みがかった茶色のひげ、毛髪という印象だった。地中海の陽光にずっとさらされていたら、もっと赤く見えるのかもしれない。

 スレイマン1世は彼らを首都イスタンブールに呼び寄せ、領地や称号、それにふさわしい金銭も含めた高待遇を与えて彼らを臣下にした。もちろん、海で戦うのだから旗艦となる巨大なガレー船や小型のフスタ船も乗員付きで与えられた。フスタ船はイスラム国家では一般的な船だ。どちらも人力が主な動力だ。風任せの船では戦争には不向きだから。その乗組員はたいていが捕囚された後に組織されたキリスト教徒だった。

 海賊を将軍にしたオスマン・トルコは地中海の東側、ギリシアの島々を制圧し、イタリア半島との間にある島々も次々と手中に収めた。その勢いは北アフリカ沿岸にまで達し、チュニスにもトルコの旗が立てられたのだ。その動きはスレイマン1世が皇帝になって10年ほど経った1530年頃から顕著になった。

 それから何を狙うか、地中海の西、イタリア半島にイベリア半島だ。地中海全体がオスマン・トルコのヨーロッパ包囲網として使われようとしていたのだ。

 奪った、というからには奪われたものがいる。特に地中海の島々を長く自身の領土とし、交易で栄えたヴェネツィアにとっては死活問題だった。もちろん、チュニスを制圧していたスペインも、アドリア海からリグリア海に忍び寄る影に脅威を感じるローマも同じだった。そしてオスマン帝国に対抗する連合艦隊が編成されることになったのだ。

 東地中海についてオスマン帝国と同等の土地勘を持つ海運国ヴェネツィアはともかく、神聖ローマ皇帝やローマはどうだっただろうか。
 神聖ローマ皇帝カール5世は、何度も繰り返すがスペイン国王カルロス1世を兼ねている。スペインは海に面しているため、海軍も編成していたが、それだけではこころもとない。そこで、イタリア半島ジェノヴァ出身の軍人、アンドレア・ドーリアに神聖ローマ帝国軍の舵取りを任せることにした。ドーリアはこのときすでに70歳を越えていたというから驚異的なことだ。
 もう一つ、ローマはどうだったろうか。実は教皇軍にも海軍は存在していた。最初に編成されたのは前世紀末のアレクサンデル6世の頃だったが、実戦経験が豊富なわけではない。この時にはパウロ3世がグリマーニを海将として船団を地中海に派遣することに決定した。

 ただ、「連合」と名前がつくときはしばしば見られる事象なのだが、足並みが揃わずによくない方向に進んでしまうこともある。強力な主導者が必要なのは言うまでもないことなのだが、その目的だけは一致させておかなければならない。「戦争なのだから、敵を倒すことしかない」と言うだろう。そうではないのだ。敵は倒したいが、同盟者に利益を与えたくないなどと考え出すと、事態は複雑になる。えてしてそれが決定的な敗因となってしまう場合もあるのだ。

 1537年までは、海での戦いは散発的なものだった。その主な戦場、オスマン帝国の侵略地となったのは先にあげたロードス島やチュニス、イオニア海(イタリア半島の南方)の島々だった。そして、巡礼船を含めて民間船の運航はしだいに厳しい状況となってきたのである。

 誰も、大砲で沈められて海の藻屑(もくず)になりたくはないだろう。

 そしてようやく連合艦隊が具体的に編成され、ギリシア沿岸のコルフ島に集結することとなった。各国の将軍についてはさきにあげたが、集結から足並みが揃わなかった。神聖ローマ帝国の名のもと、総司令官はアンドレア・ドーリアだったのだが、彼はなかなかコルフ島に着かなかった。

 1538年3月にまずヴェネツィア軍がコルフ島に到着した。教皇軍のグリマーニ率いる船団が到着したのが6月、そして、ドーリアらが到着したのは9月のことだった。最初に着いて半年も待機していたカペッロはさぞかし忸怩(じくじ)たる思いをしていただろう。同情を禁じえない。連合軍の船の数は――。

・ヴェネツィア 81~2隻
・ローマ教皇軍 ガレー船で36隻
・神聖ローマ帝国(スペイン) 41~50隻

 主力であるはずの神聖ローマ帝国(スペイン)の船は当初計画の半分しかなかった。しかもそのうちの20隻強はドーリア所有の船だ。まあ、個人の船をそれだけ出すというのはたいへんな貢献だと思うが……カペッロの嘆く顔が見えるようだ。半年も待たされて、船もちゃんと出さず、しかも指揮は預けなければいけない。踏んだり蹴ったりという心境になっただろう。しかも、作戦を立てるにあたって、この司令官は言い放った。

「秋になり天候も変わりやすくなった。嵐に巻き込まれないためには時期をよく待って……」

「遅く来たのはいったい誰だ」という言葉をカペッロもグリマーニも飲み込んだことだろう。しかし、ドーリアの態度の意味を二人は承知していた。ドーリアの雇い主である神聖ローマ皇帝(とスペイン王)カール5世が戦争による損失を望んでいないということを。簡単にいえば、さっさと終わらせてできるものなら和議で済ませたい、ということだろうか。雇い主がそのような態度なのだから、ドーリアも反するわけにはいかなかったのである。

 しかし、オスマン軍はすでにイスタンブール(コンスタンティノープル)を出発し、コルフ島のすぐ側のプレヴェザまで来ているのだ。今さらいやになったから帰るというわけにもいかない。

 ようやく、というのも変だが、連合艦隊が動き始めたのは1538年9月25日のことだった。はじめに教皇軍の艦隊がコルフを出て南下し、パクソス島に到着した。さらに南のプレヴェザに動きはない。

 翌9月26日、アンドレア・ドーリアが前に出た。甥のジャンネット・ドーリアに命じて4隻の軍艦をプレヴェザの湾内に進入させたのだ。しかし必要以上に奥深くには進まない。当然、オスマン軍は戦闘態勢に入り大砲を数発放ってくる。それに対してジャンネットの命令で艦船から大砲が同じだけの数放たれる。オスマン軍の艦船は湾内に退いていく。連合軍は追わない。その応酬が数回繰り返された。

 これは、示威行動に過ぎなかった。

 そして、連合軍はプレヴェザからさらに南下する。そこへ挑発に応じるとばかり「赤ひげ」の指揮する艦隊が追ってきた。連合軍を背後から攻撃するつもりだ。

 ここで疑問を抱くのだが、なぜ連合軍はオスマン軍を背後に置く形にしたのだろうか。まるで背後から追ってきてくれといわんばかりである。そこを狙われてはいくら数が多いといっても攻撃を受けるだけになってしまい、明らかに不利である。

 連合司令官ドーリアに戦争をする意思はなかった。カール5世から戦闘を回避するように厳命されていたのだろう。

 このときも連合軍で打ち合わせが持たれたのだが、司令官ドーリアはこの段に及んでも戦闘すべきではないと口にしていたのだ。カペッロやグリマーニにしたら、開いた口がふさがらなかっただろう。猛烈な抗議の結果、ようやくドーリア率いる神聖ローマ帝国(スペイン)軍は船の隊形を整えにかかるのだが、そのとき風向きが変わった。ガレー船に随行していた帆船が流され、本隊から離れてしまったのである。

 ここぞとばかり、オスマン軍は帆船に襲いかかる。
 カペッロとグリマーニは業を煮やした。
 ドーリアはまだ攻撃命令を出さない。

 ついにヴェネツィアのガレー船2隻が耐え切れず、オスマン軍のほうに全速力で向かっていく。敵の前線にいるフスタ船8隻を次々と撃沈したが、ガレー船に取り囲まれ、一斉攻撃を受けて海の藻屑となった。

 ここでドーリアは総攻撃をかけると誰もが思ったが、彼が出したのは撤退命令だった。

 神聖ローマ帝国(スペイン)の艦隊が一斉に退いていく、オスマン軍の艦隊の周辺を縫うようにである。隊形が整っていないのだから仕方ない判断ではあるが、敵前逃亡にも見える。司令官が撤退を命じているのだから、教皇軍もヴェネツィア軍も撤退せざるをえない。

 そうこうしているうちに、ヴェネツィアの帆船団とスペインの帆船団がオスマン軍に包囲されてしまった。そのうちの何隻かは逃げおおせたのだが……。

 ヴェネツィアのガレー船2隻、スペインの帆船4隻を失って海戦は終了した。オスマン側の被害はフスタ船8隻だけである。

 連合艦隊の完全な敗北だった。


 アントニオ、私たちが聖地イェルサレムに行こうと思っていた時期は、ちょうどこのプレヴェザの海戦と重なっていたのだよ。なので、少し詳しく話してみたのだ。

 この海戦に向けてヴェネツィアは主力艦隊として方々に出ていたし、地中海の島々では小競り合いが続いていた。ヴェネツィア共和国にとって、地中海の島々が次々とオスマン帝国に侵略されていくのは致命的なことだったのだ。その多くはヴェネツィアの領有していたものだったのだから。ただ、それが神聖ローマ帝国にとっても同じような重さがあったかというと――違うだろう。
 教皇パウロ3世の立場はまだいい。オスマン・トルコの攻勢にたいへんな危機感を持っていたからヴェネツィアに加勢することに躊躇(ちゅうちょ)はなかった。すでに彼らは北アフリカ沿岸まで手中にしている。そこから地中海の西側、リグリア海にも出てくることは容易に考えられることだったからだ。

 それゆえに神聖ローマ帝国と同盟を結び地中海の防衛に取り掛かったのだ。しかし……。

 初めからカール5世は及び腰だったのだ。ジェノヴァ出身の海将アンドレア・ドーリアがほぼ何もせずに撤退したのは、カール5世の指示に他ならない。

 アントニオ、私はアレクサンドロス大王と比べてみずにはいられなかった。

 カール5世(スペインではカルロス1世)の支配している地域はアレクサンドロス大王の規模には及ばないが、同じ名を持つカール大帝の帝国に迫るほど広大だったのだ。
 カール5世はアレクサンドロス大王のように、大帝国を拡大させて大王として君臨する野望はなかった。もし、彼にアレクサンドロス大王のような猛る(たける)心があれば、きっと古(いにしえ)のローマ帝国を再興させることも可能だったと思う。何より彼は教皇の承認を得ている神聖ローマ帝国皇帝なのだから、敵国でない限りはどこも文句は言えないだろう。

 少なくとも、西ヨーロッパを統一することはできたはずなのだ。

 西ヨーロッパにかつてのローマ帝国のような強大な帝国があるべきか否かということについて、私は自身の強固な考えは持っていない。ただ、皮肉なことだと思う。カール5世は、オスマン帝国のスレイマン1世のような好戦的な、いや自身が描いた計画を忠実に実行していく為政者ではなかったのだ。ローマ劫略(ごうりゃく)にしてもそうだ。あの凄まじい惨状を報告されたカール5世は、「しまった」と言わんばかりに教皇との和睦をはかった。それを見ても明らかだ。ひとことで言えば「受身」の皇帝だったのだ。

 オスマン・トルコともできる限り直接激突することは避けて、戦場に赴いたという事実だけは残す。その場限りの対応でできるだけ切り抜けようとしていたのだ。

 それは仕方のないことかもしれない。生まれながらにして、ハプスブルグ家とスペイン王家の王位を約束され、神聖ローマ皇帝になったのだから。彼の祖父母(マクシミリアン1世、イザベラ女王、フェルナンド2世)が苦労して成し遂げたことをゼロからする必要はなかった。そのようにして神聖ローマ皇帝になり、スペインも自領とした彼がいきなり西ヨーロッパの中心的な君主としてさまざまな事態に対処しなければいけなくなった。

 私の兄たちが身を投じたナヴァーラの再独立の戦いにしてもそうだし、フランスとの長い敵対関係についてもそうだ。ローマ教皇庁とは友好な関係を保たなければならない。ナポリなどスペイン領になっているそれぞれの土地の問題もある。帝国内では新教(プロテスタント)の台頭で諸侯が割れている。

 それに加えて、オスマン・トルコがヨーロッパを狙って活動しているのだ。
 よほどの野心がなければ、これらのことに次々と対処できる力はわかないだろう。

 もしカール5世がはっきりとした目標、あるいは完成図を頭に描いた上で、どう行動するかじっくりと考えて、果断に実行するだけの力量を持っていたら、西ヨーロッパはまた変わっていたかもしれない。



 いずれにしても、中途半端な形で終わったプレヴェザの海戦でオスマン・トルコはさらに地中海に進出することになる。そして、西ヨーロッパも捲土重来(けんどちょうらい)を期して次の策を練ることになる。

 私たちの待つ巡礼船が出航することはさらに、たいへん難しくなった。
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