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いつもよりも暗く、まるで闇のような海の底にいるかのようだ。フェルミは、息苦しさを覚えて新鮮な空気を求めるが上手くいかなかった。体のあちこちが痛くてたまらない。石臼のような重怠さのせいで、身の置き所がないほど苦しかった。
「フェルミ……。どうしてこんな……」
あれほどつらかった暗闇の中の一点の光が灯ったかのような瞬間だった。
動かなかった右手が、ほんの少し温かくなる。聞いたことのない声が、自分を心配しているのがわかった。どこかの誰かはわからないが、もう少しだけでいいからこうして欲しいと思った。
フェルミの息遣いは、相変わらず浅く速い。喉が笛のような音と、ごろごろと水の中で吐く息がつくる泡のような音がした。
突然、口の中にどろりとした刺激の強い、言いようのないほど不味い味が広がった。吐き出そうとするが、大きな指がそれを許さなかった。咳き込みをするが、それはフェルミの体の中に入っていったのである。
徐々に体が軽くなり、天まで昇れそうな気分になる。 このまま、女神様の御許に行けるのなら、それでもいいと思えた。
少し呼吸が安定してきたフェルミが目を閉じて、意識が深海に沈んだ頃、ファーリは床に膝をついていた。
「お、お許しを……」
なぜ、こんなことになったのか。疑問と、行き場のない焦燥と、自分をこんな目に合わせたフェルミへの怒りでファーリは思考が定まらなかった。
※※※※
フェルミが体調を軽く崩すことはよくあった。しかし、常備薬でなんとかなった。今回、フェルミが今度もそうできると思ったのだが、いつまで経っても良くならないどころか、ますます悪化してしまった。
フェルミの胸が、突然動かなくなった。数秒ののちに、口を大きく開けて深く吸い込む。しかし、相変わらず胸が動かない。ファーリは、そうなって初めて、先日の誕生日の後片づけてで忙しくしているメイド長に助けを求めたのである。
ファーリのあまりの慌てように、いつもなら数時間は彼女を放置するメイド長は嫌な予感がした。彼女とともにフェルミの元に行くと、息も絶え絶えになりいまにも天に還ろうとしているではないか。
「なんてこと! ファーリ、お前、一体何をしていたの?!」
「昨日、いただいたケーキや食事を美味しそうに食べておりました。いつも通りお休みになられたはずだったんです。朝、お嬢様を起こそうとしたら、もうこのような状況で……」
「とにかく、このままでは危険だわ。ファーリ、本邸の主治医や、私直属ののメイドたちを連れてきなさい。私は、お嬢様の救命処置をします」
「はいっ!」
メイド長は、嫌そうな顔をしたまま、フェルミの胸に手を当てた。フェルミの口から、ツンとした黄水のにおいがする。胸をはだけようとする必要もなく、薄い生地一枚のフェルミの心臓の位置がわかった。肘を伸ばし、真上から胸の中央に手を当てる。
「いくら、奥様を苦しめ続ける呪われた子供だとしても、ここで死なせるわけにはいかないのよ!」
フェルミの胸が、メイド長の手によって上下する。一分、二分と必死に胸を沈ませるが、心臓の鼓動は戻らない。痩せた子供の胸部とはいえ、5分も続ければ疲労で、圧迫する力が弱くなった。
「ファーリはまだなの? 戻って、もどれぇ!」
それは、いつも冷静沈着で品行方正をうたうメイド長らしからぬ言葉だった。その時、ファーリの胸が、自らの力でどくんと強く動いた。揺すられる体の白い肌が、徐々に色づく。
「メイド長様! お医者様をお連れしました」
「遅いわよっ! 先生、どうか助けてください」
内心、このままいなくなれば、敬愛する伯爵夫人の心は晴れる。そのほうがいいと考えたが、これは、子供を放置したあげくの事態だ。女神が嘆き悲しみ、祝福した子供を失わせた伯爵家に災いをもたらすだろう。不幸な事故とはいえ、死なせるわけにはいかない。
幸い、緑の手を持つ彼らのスキルのおかげで、フェルミに合った薬が即時に作られた。それらを飲ませ、呼吸がやっと人並みに出来たころ、騒ぎを聞きつけた伯爵が息せき切って入ってきた。
「フェルミ、どうしてこんな……」
横たわる彼女の小さな手を握る。そして、医師が作った薬を飲ませた。力がないのか、口の中に入れた薬のほとんどは出てくる。伯爵は、指を入れて口内を刺激してそれを嚥下させた。フェルミの頬は青白いままだが、紫だった唇が紅になるとほっとして振り返る。
「メイド長、これは一体どういうことだ? この部屋は一体? この子が寝ているベッドは、まるで2歳児のもののようではないか」
メイド長は、下を向いて何も答えない。言えるわけがなかった。
「私は、この子には、令嬢としての最低限ではあるが、十分な予算を組むよう申し伝えていたはずだ。父の手前、世間から隠すようにここに住まわせることになったが、冷遇しろと言った覚えはない。妻は、このことを知っているのか?」
その時、伯爵の目に、吊るされた白いワンピースが目に入った。それは、ずぶ濡れであることが一目でわかる。自ら選んだそれの胸元に、たった一日で広範囲の汚れがついていることも。
伯爵は、会うことは出来ないが、フェルミが恙なく過ごしていると信じていた。そして、成人した時に、十分な支度をして結婚させようとも考えていたのである。
しかし、ここはとても人間が住めるような環境ではない。ましてや、フェルミはまだ5歳。
馬小屋以下の部屋の中でどれほど辛かっただろうと、妻やメイド長に任せきりだったことに後悔し、呆然と立ち尽くしたのである。
「フェルミ……。どうしてこんな……」
あれほどつらかった暗闇の中の一点の光が灯ったかのような瞬間だった。
動かなかった右手が、ほんの少し温かくなる。聞いたことのない声が、自分を心配しているのがわかった。どこかの誰かはわからないが、もう少しだけでいいからこうして欲しいと思った。
フェルミの息遣いは、相変わらず浅く速い。喉が笛のような音と、ごろごろと水の中で吐く息がつくる泡のような音がした。
突然、口の中にどろりとした刺激の強い、言いようのないほど不味い味が広がった。吐き出そうとするが、大きな指がそれを許さなかった。咳き込みをするが、それはフェルミの体の中に入っていったのである。
徐々に体が軽くなり、天まで昇れそうな気分になる。 このまま、女神様の御許に行けるのなら、それでもいいと思えた。
少し呼吸が安定してきたフェルミが目を閉じて、意識が深海に沈んだ頃、ファーリは床に膝をついていた。
「お、お許しを……」
なぜ、こんなことになったのか。疑問と、行き場のない焦燥と、自分をこんな目に合わせたフェルミへの怒りでファーリは思考が定まらなかった。
※※※※
フェルミが体調を軽く崩すことはよくあった。しかし、常備薬でなんとかなった。今回、フェルミが今度もそうできると思ったのだが、いつまで経っても良くならないどころか、ますます悪化してしまった。
フェルミの胸が、突然動かなくなった。数秒ののちに、口を大きく開けて深く吸い込む。しかし、相変わらず胸が動かない。ファーリは、そうなって初めて、先日の誕生日の後片づけてで忙しくしているメイド長に助けを求めたのである。
ファーリのあまりの慌てように、いつもなら数時間は彼女を放置するメイド長は嫌な予感がした。彼女とともにフェルミの元に行くと、息も絶え絶えになりいまにも天に還ろうとしているではないか。
「なんてこと! ファーリ、お前、一体何をしていたの?!」
「昨日、いただいたケーキや食事を美味しそうに食べておりました。いつも通りお休みになられたはずだったんです。朝、お嬢様を起こそうとしたら、もうこのような状況で……」
「とにかく、このままでは危険だわ。ファーリ、本邸の主治医や、私直属ののメイドたちを連れてきなさい。私は、お嬢様の救命処置をします」
「はいっ!」
メイド長は、嫌そうな顔をしたまま、フェルミの胸に手を当てた。フェルミの口から、ツンとした黄水のにおいがする。胸をはだけようとする必要もなく、薄い生地一枚のフェルミの心臓の位置がわかった。肘を伸ばし、真上から胸の中央に手を当てる。
「いくら、奥様を苦しめ続ける呪われた子供だとしても、ここで死なせるわけにはいかないのよ!」
フェルミの胸が、メイド長の手によって上下する。一分、二分と必死に胸を沈ませるが、心臓の鼓動は戻らない。痩せた子供の胸部とはいえ、5分も続ければ疲労で、圧迫する力が弱くなった。
「ファーリはまだなの? 戻って、もどれぇ!」
それは、いつも冷静沈着で品行方正をうたうメイド長らしからぬ言葉だった。その時、ファーリの胸が、自らの力でどくんと強く動いた。揺すられる体の白い肌が、徐々に色づく。
「メイド長様! お医者様をお連れしました」
「遅いわよっ! 先生、どうか助けてください」
内心、このままいなくなれば、敬愛する伯爵夫人の心は晴れる。そのほうがいいと考えたが、これは、子供を放置したあげくの事態だ。女神が嘆き悲しみ、祝福した子供を失わせた伯爵家に災いをもたらすだろう。不幸な事故とはいえ、死なせるわけにはいかない。
幸い、緑の手を持つ彼らのスキルのおかげで、フェルミに合った薬が即時に作られた。それらを飲ませ、呼吸がやっと人並みに出来たころ、騒ぎを聞きつけた伯爵が息せき切って入ってきた。
「フェルミ、どうしてこんな……」
横たわる彼女の小さな手を握る。そして、医師が作った薬を飲ませた。力がないのか、口の中に入れた薬のほとんどは出てくる。伯爵は、指を入れて口内を刺激してそれを嚥下させた。フェルミの頬は青白いままだが、紫だった唇が紅になるとほっとして振り返る。
「メイド長、これは一体どういうことだ? この部屋は一体? この子が寝ているベッドは、まるで2歳児のもののようではないか」
メイド長は、下を向いて何も答えない。言えるわけがなかった。
「私は、この子には、令嬢としての最低限ではあるが、十分な予算を組むよう申し伝えていたはずだ。父の手前、世間から隠すようにここに住まわせることになったが、冷遇しろと言った覚えはない。妻は、このことを知っているのか?」
その時、伯爵の目に、吊るされた白いワンピースが目に入った。それは、ずぶ濡れであることが一目でわかる。自ら選んだそれの胸元に、たった一日で広範囲の汚れがついていることも。
伯爵は、会うことは出来ないが、フェルミが恙なく過ごしていると信じていた。そして、成人した時に、十分な支度をして結婚させようとも考えていたのである。
しかし、ここはとても人間が住めるような環境ではない。ましてや、フェルミはまだ5歳。
馬小屋以下の部屋の中でどれほど辛かっただろうと、妻やメイド長に任せきりだったことに後悔し、呆然と立ち尽くしたのである。
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