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 春宵《しゅんゆう》の朝は早い。斜向かいの神社に行って、境内を一周するのが彼の日課になっている。朝の、清浄な空気と、誰も居ない場所が、好きなのだ。塩浜町は、海にほど近いことも有って、朝方は、夏でも肌寒くて、良く霧も出る。今朝も、若月骨董店の店先から、一車線だけの狭い道路を挟んだ、この神社の姿さえ捉えることが出来ないほどだ。霧に乗って、海の、匂いが運ばれてくる。

 海の匂いを、春宵は、死臭だと感じる。海は、天から降った雨が、流れをなし、川となり、そして海にたどり着くまでの長い間に、何百何千もの命を、飲み込んでいるのだ。塩分が、良い証拠である。生物から出た、無機分がやがて塩分を作り出す。それこそ、生命の死が流れ行きつく場所であるという証であろうと、春宵は考える。

「春宵」

 と、霧の中から声がかけられた。

「なんだ、夏樹か。……早いじゃないか」

「何とでも言え。……お前のほうこそ、毎朝、よく続くな」

 霧の中から姿をあらわした人物は、浅葱色の袴を穿いている。手にした、竹箒を見るに、掃除の最中であったのだろう。

「僕のは、趣味だからな」

「じじくさいヤツめ。おまえ、なんて言うか、若さがないよ。若さが、さ」

 と、言いながら、夏樹は竹箒をせわしなく動かしているが、はらはらと風に舞う紅葉は、全く集められてはいない。そっと。春宵は手を差し出した。そこに、深紅の蝶々が留まるように、鮮やかに紅葉がひとひら、舞い落ちる。深紅の手に滴る、血液のようでもあった。

「そういうおまえこそ、こんな時間に、お仕事か?」

「朝と、正月と、七五三と、六月の夏越えと、十一月のお祭りと……ともかく、俺の出番なんて少ないさ」

「それに、朝は会社づとめだしな」

 と、春宵は手を振った。ひらひらと、紅葉が舞い落ちる。

「まぁ、何はともあれ、大変なことは大変だがな……お前のほうこそ、どうなんだ? 東京の、オーケストラから誘われてたんだろ? レコード会社からも声がかかってたとかさ」

 春宵は、くす、と笑った。薄く。淡く。口端が僅かに吊り上がっている。

「世間には、軽薄な音楽が溢れている。僕は、コンピュータは使うけど、シンセサイザーの音は大嫌いだ。シンセサイザーは、所詮、0と1だけの世界だよ。何かが確実にこぼれ落ちてしまう。本当の音を再現しきれるはずがない」

 ふぅ、と夏樹は大仰に溜息をついて、

「相変わらずの、変人振りだな」

「そう言えば、おまえに見てもらいたいものが、うちの店先にあるんだ。……暇だったら、うちに来てくれないか? 親父に言えばわかると思うから」

「おまえは?」

「いや、仕事が入ってるから……店番はしないと思うよ」ふうん、と分かったような返事をした夏樹に、春宵は必ずこいよ、と念を押して、家に戻っていった。いつのまにかすっかり霧が消え、つめたく冷えた空気が、あたりを包み込んでいた。冷えたのか、春宵は肩を抱いた。
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