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1巻
1-3
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何故なら今のカティエは、ひどく泥酔している。
「カティエ。ちゃんと着替えないと、風邪を引いてしまうわ」
「う~ん……。わかってるわよ~……」
どうやらカティエは相当量のお酒を口にしたらしい。すっかり酔っぱらってしまった彼女に夜着へ着替えるようすすめるが、返答のみで行動する気配がない。
仕方がないので、衣装箱からカティエの夜着を引っ張り出して彼女の傍に置く。そのついでに耳元を飾るイヤリングを外したほうが良さそうだと考えた。
「カティエ、イヤリングも外したほうが……」
「リリア」
カティエの耳元に触れようとすると、その手首を突然ぐっと掴まれた。
急に身体を掴まれたことに驚いて、すぐに身を引こうとする。だが酔ったカティエは加減が出来ないのか、指先に込められた力はかなり強く、簡単には振り解けなかった。
「い、いたい……! カティエ!」
咄嗟に声をあげると、カティエの力が少し弱まる。しかし手は解放してくれない。
「本当、可愛いわね」
短く告げられた言葉の意図がわからず、おそるおそる顔を上げる。
そこにはじいぃっとリリアの瞳を覗き込むカティエがいた。まるで蛇のように。いや、魔女のようにきつい視線がリリアを捉える。背筋がぞっとするような、全身が凍り付くような冷たい瞳で。
「可愛い」
「カ……カティエ?」
「まるで赤子みたい」
ふふふっと笑ったカティエは、確かに酒に酔っている。けれど、本当にそれだけだろうか。
リリアが小さくなった姿を、カティエはまだ数えるほどしか目にしていない。だが今夜から国民への婚約発表の日まで、リリアとカティエはこの部屋で共に過ごすことになる。幼い少女に変貌してしまうこの姿を、彼女は毎夜のように目にすることになる。
もしかしたら、カティエはリリアの幼い姿を見る度に、魔女に襲われたときのことを思い出すのかもしれない。この姿を見ると、恐怖の瞬間を想起するのかもしれない。
そうだとしたら、リリアはカティエの傍にいないほうがいいのではないだろうか。これから王宮に嫁ぐカティエにとって、リリアは恐怖を思い出す不快な存在なのではないだろうか。魔女に襲われた日からふた月近くが経過しているが、彼女の心の傷はまだ癒えていないのではないか。
「ほんとうに、ほんとうに……リリアは可愛い」
「カティ……エ……」
冷たい目で笑う彼女の心を探ろうとする。
(私は、ここにいないほうがいい?)
そう訊ねようと思ったが、今の彼女はお酒に酔った状態だ。きっと冷静な判断が出来ないし、仮にしっかりと話し合えたとしても、明日にはその内容を忘れてしまう可能性がある。だったら今はそんな話をしても無駄に違いない。
「ええと……カティエのほうが、可愛いと思うけれど」
「それはそうよね」
リリアが呟いた言葉を全面肯定したカティエが、急に満足げに鼻を鳴らす。それから何度か頷くと、ようやくその手を離してくれた。いつの間にかカティエはいつもの様子に戻っていて、ほっと胸を撫で下ろす。
本当は湯浴みをすべきだと思うが、今夜はそのまま眠るらしい。夜着に着替えてベッドの中に入ろうとしたカティエが、ふとリリアのほうを振り返った。
「小さいから、ソファでも眠れるでしょ?」
「……うん」
それが当然だと言うように断言されては、リリアも頷くしかない。
昔は同じベッドで眠ることもあったのに。今はこんなに広いベッドを使えて、リリアの身体は昔のように小さくて、最初に寂しいと言ったのはカティエなのに。一緒に眠るための理由はたくさんあるはずなのに、カティエは『一緒に寝よう』とは言ってくれない。その事実が、リリアは少しだけ寂しい。
カティエが脱ぎ散らかした服と装飾品を片付け、部屋の明かりを消して戸締まりを確認する。ソファの上に横になると、ほどなくして天蓋の中からカティエの寝息が聞こえてきた。
きっとリリアは、まだ眠れない。
そう思っていたのに、ソファに身体を預けて力を抜くと自然と睡魔が襲ってきた。
王宮にやって来て八日目の午後。リリアは目の前の様子を見て、密かに頭を悩ませていた。
リリアが用意したのは、カティエが持参した彼女のお気に入りのティーセット。紅色と桃色の大花が描かれた白いカップの縁を、金色の装飾が彩っている。そして甘いカスタードケーキと、淹れたばかりのブラウンティー。テーブルに季節の花を彩った優雅なひととき。
ではないと思う。どう考えても。
「少しは私の相手もして下さいませんと、寂しいですわ」
いじらしく唇を尖らせる表情も、小さなわがままも、花のように可憐で愛らしい。
そんなカティエの前に座っているのは、他でもない第二王子のエドアルドだった。
「悪かった。忙しさにかまけて、君の相手をおろそかにしてしまったな」
そう言って苦笑するエドアルドに、リリアが代わって全力謝罪する。もちろん発言は許されないので、心の中で。
エドアルドが政務で忙しいことは、先日の様子を見ればカティエにだって理解出来るはずだ。けれどカティエは己のわがままをエドアルドにまで押し付けるつもりのようだ。
どうしてもエドアルドに会いたい。どうしてもティータイムを共にしたい。
木苺とはわけが違うのよ、と懸命に説得したが、カティエがリリアの意見に耳を傾けてくれるはずなどなかった。
忙しいエドアルドを煩わせているのは百も承知だ。だからせめてお茶だけでも美味しく淹れたい。悩んだ末、リリアはカスタードケーキに一番合うと感じたブラウンティーを選択した。
エドアルドの細長い指先が、ティーカップを口へ運ぶ。プラチナホワイトの銀糸がそよ風をまとってサラサラとなびく。サファイアブルーの瞳の中にティーカップの水面が揺らめく。
そんな優雅な所作にぼんやりと見惚れていると、
「うん、美味いな」
と呟く声がティーサロンの中に響いた。
「カティエが羨ましい」
「あら、なぜですの?」
「君にはお茶を淹れるのが上手な友人がいるからな」
エドアルドの笑顔を正面からそっと見つめて、リリアは密かに照れてしまう。カティエを通して褒められた喜びから心の中で舞い上がったが、彼女の返答は怖いぐらいに冷徹だった。
「幼少期から知るといっても、彼女は侍女ですわ。友人というわけではありません」
(ええー……ひどい……)
そこは適当に誤魔化して相槌を打つか、さらっと流してくれればいいのに。離れるのが寂しいから王宮についてきて欲しいと言ったのはカティエなのに。それがリリアの身元を偽るための演技だと知っていても、友達ではないとはっきり口にされると複雑な気分になってしまう。
「これは去年の茶葉か?」
エドアルドはカティエの悪い冗談をさらりと聞き流してくれた。その代わり、口にしているブラウンティーに興味を示す。そんなエドアルドの問いかけにカティエの肩がびくりと跳ねた。
「え……」
カティエの背中は困惑そのものだった。ちらりと彼女の様子を盗み見た瞬間、リリアは再び頭を抱えることになる。カティエは自分の領地で収穫して、自分で持参してきた茶葉の詳細をしっかり理解してないらしい。
「リーリャ」
「……はい」
飛び火してきた声が求めていることもすぐに察知する。
カティエのためを思うなら、本当はここで助け舟など出さないほうがいい。わからないことは、わからない。知らないことは、知らない。二人がこの先夫妻として上手くやっていくことを考えるなら、カティエは見栄を張って些末な隠しごとをするずるい手段など覚えてはいけない。
それはわかっているが、リリアは結局、カティエに甘い。振り返った彼女にうるんだ瞳を向けられて言葉のない懇願をされてしまえば、手を差し伸べる他ない。ここでもまたお人好しを発揮して、カティエのために心を鬼に出来ない自分が情けない。
「私に説明の許可を頂けますか?」
「ああ、もちろん」
「王子殿下の御心に感謝いたします」
あっさりと許可が下りたので、その場で一度頭を下げる。
顔を上げるとエドアルドと再び目が合う。しかし、ただの侍女が王族である彼を正面から直視するのは無礼にあたる。とはいえ急に逸らすのもまた無礼なので、リリアは発声に影響がない程度にゆっくりと視線を下げた。
「こちらのブラウンティーは本年の茶葉になります。今年は雪解けが早く、春から初夏の気候が安定しておりましたので、例年より早く収穫を迎えられました。昨年のものよりもやや渋みが強いですが、ただいまお召し上がりになられているカスタードケーキであれば、今年のものは相性がいいと思われます」
「そうだな、確かに甘いケーキに合うかもしれない。オレンジはどうだ?」
「はい。オレンジティーは、丁度今が収穫の時期です。ですが茶師は昨年のほうが出来がよさそうだ、と申しておりました」
「ああ、去年の茶葉は市井でも人気だったな」
ふうん、そうか、と感慨深げに呟くエドアルドには、リリアのほうが感心してしまう。
リリアは父が領地として管理するフォルダイン領産の茶葉だけでなく、王国中の新茶葉の出来を毎年楽しみにしている。もちろんすぐ隣のヴィリアーゼン領の茶葉の下調べも怠らない。しかしそれはひとえに、リリアがお茶好きだからである。王族として自国の状況を把握しておくことは重要だと思うが、まさかエドアルドも茶葉の出来を把握しているとは思ってもいなかった。
「丁寧な説明をありがとう」
「恐れ入ります」
エドアルドのその言葉を聞くと、もう一度頭を下げて壁際に退がる。
これでカティエの体裁は保たれたはずだ。助けを求められれば応じるが、あとは壁のレリーフに徹する。
そろそろお茶のおかわりを用意しなければ、と考えながら何気なく顔を上げると、エドアルドがこちらを見つめていることに気が付いた。
(な、なに……?)
驚いて身体がぴくりと跳ねるが、再びゆっくりと視線を逸らす。
しかししばらく目線を彷徨わせた後に顔を上げると、再びエドアルドと目が合ってしまった。
(ええと……)
おまけに今度は笑顔まで向けられてしまい、リリアは反応に困ってしまう。
最初はカティエに微笑んでいるのだと思った。リリアと違い、エドアルドとカティエは元々面識がある。侯爵家の令嬢らしく、カティエは社交の場にもちゃんと顔を出している。それならばエドアルドとの共通の話題も多いはず。
そう予想していたリリアを裏切り、エドアルドは一方的に話すカティエの話には適当な相槌を打つだけだ。その代わり、レリーフと同じく微動だにしないリリアと視線が合う度に、やわらかく笑いかけてくる。
(セイラ。エドアルド殿下は結構笑うお方だと思うわ)
それはもう、眩しいぐらいの笑顔で。
そういえば八日前に応接間で会ったときも、無表情のリリアの顔を見て笑っていた。もしかするとエドアルドは彫刻やレリーフが好きなのかもしれない。
でもリリアは、自分の造形物としての完成度は高くないと知っている。もう少し華やかな顔立ちか曲線美を感じられる体躯だったら、エドアルドの目の保養になったかもしれないけれど。
「リーリャ」
庭の隅で忘れ去られた石像の気持ちになっていると、カティエが声をかけてきた。
カティエはお茶のおかわりをご所望だ。
声をかけられるまでカップの中身が空になったことに気付かないとは情けない。はっとしたリリアは、急ぎつつも粗野にならないようポットの中身を慎重にティーカップに注ぐ。
カップにブラウンティーが満たされると、エドアルドがまた『ありがとう』と微笑んだ。エドアルド殿下は侍女に対しても優雅に笑ってお礼を言うのね、と再びときめいてしまう。
整った顔立ちが目を細める様子から視線を外すと、今度はカティエのカップにお茶を注ぐ。
しかしリリアがポットの中身を注いでいると、横から突然カティエの手が伸びてきた。熱い陶器が指先に触れるのではないかと驚いたリリアは咄嗟にポットを引っ込めるが、急いだせいで腕がカティエの肩に当たってしまった。
「きゃあっ!?」
「っ……! 申し訳ございません! お怪我は……っ」
悲鳴を漏らしたカティエに、慌てて謝罪の声をかけてしまう。本来は給仕をするだけの侍女が、主人や客人に自ら声を掛けるのはご法度だ。だが飛び出てしまった言葉を引っ込めることは出来ず、心配したつもりだったのにカティエにきつく睨まれてしまう。
「もう、下がっていいわ」
カティエはすっかり虫の居所が悪くなってしまったようだ。口調こそ静かだが、リリアを睨みつける表情は険しい。見たことがない友人の表情に、リリアは驚愕して困惑してしまう。
「ですが……」
「かわりが欲しくなったら、他の人を呼ぶわ!」
「……かしこまりました」
ただの侍女が、主人の命令や決定に意見することなど出来ない。
三度目は言わせない、と強い視線が怒りを露わにするので、リリアは渋々頭を下げた。
「ご無礼をお許し下さい。失礼いたします」
エドアルドとカティエに謝罪の言葉を述べると、そのままティーサロンを後にする。
折角のティータイムに水を差してしまったことを猛烈に反省するが、後悔しても遅い。パタンと閉じたガラス扉の向こう側を確認することも出来ず、リリアはそっとサロンから離れた。
「はあ……どうしよう……」
カティエを怒らせてしまった。リリアを見上げたカティエの視線は、怒りの感情で満ちていた。
彼女が怒るのは無理もない。経緯はどうあれ現在は侍女の身であるというのに、給仕の最中に考え事をしてしまった。その結果、自分に与えられた役目を疎かにしてしまった。だから怒られてしまうのは仕方がない。
ただでさえ魔女に呪われたリリアは夜になると役立たずで、普通の侍女より出来ることが少ない。今度は絶対に失敗しないようにしなければ。友人として、侍女として、カティエを支えると自分で決めたのだから。
それにしても、カティエはどうしてあんな危ないことをしたのだろう。熱いお茶を注いでいる最中に手を出してはいけないのは、小さな子どもだって知っているのに。彼女に怪我も火傷もなかったことは幸いだったけれど。
むしろ火傷を負ったのはリリアのほうだ。カティエから遠ざけようと慌てたせいで、ポットを素手で押さえてしまった。熱い液体が直接かかったわけではないので、リリアが熱さに耐えてポットの落下を阻止したと二人に知られなかったのは幸いだった。
「うう……きっと腫れるわ……」
ポットを掴んだ左の手のひらを眺めると、皮膚の表面が赤くなっている。それに発赤を生じているところのすべてがジンジンと痛い。手のひら全部に血が巡っているように感じる。早く冷やさなければ、後でもっと痛い思いをしそうだ。
(セイラに頼んで、冷やすものを貸してもらおう)
リリアはため息を一つ零して、立ち止まっていた場所からゆっくりと歩き出した。
「待て」
しかし角を曲がろうとしたところで、後ろから突然声をかけられた。リリアは手の痛みと腫れに気をとられていたせいか、背後から人が近づいてきていたことに全く気付いていなかった。
近くから呼ばれたことに驚いて振り返ると、そこにいたのはエドアルドだった。
「で……殿下……!?」
「大丈夫か?」
想像していなかった人物から声を掛けられ、思わず硬直してしまう。もしかしてカティエだけではなく、エドアルドにも怒られてしまうのかもしれない。カティエを怒らせてしまったときを上回る『どうしよう』が、慌てて頭を下げたリリアの胸を埋め尽くす。
「ご無礼をいたしまして、申し訳ございません」
「あ、いや……そんなことはどうでもいい」
眉間に皺を寄せたエドアルドは、リリアの謝罪を軽く受け流す。そればかりか謝罪のために腰を折ったリリアの上体を強引に引き起こし、手首をぐっと掴んで、赤く腫れた手のひらをじっと凝視してくる。てっきり怒られてしまうと思って身構えたが、エドアルドはリリアが想像していたものとは異なる言葉をかけてきた。
「やっぱり火傷してるじゃないか」
「えっ……? あっ、大丈夫です。すぐに冷やせば……」
至近距離で揺れ動くサファイアブルーの瞳を見つけて、リリアはつい挙動不審になってしまう。エドアルドから逃れようと手を引いたが、彼の指先はしっかりと左の手首を掴まえていて、簡単に逃れることは出来なかった。
「悪かった。俺が君に夢中になりすぎたせいで」
「え……ええ、と……?」
「カティエは、面白くなかっただろうな」
ふっと表情を崩して笑う麗しい姿に、また驚いてしまう。
『だってエドアルド殿下って、あんまり笑わないんだもの』
『エドアルド殿下の婚約者候補なんて、私なら気が滅入ってしまうわ』
頭の中に再びセイラの言葉が響くが、そんなはずはないと思う。セイラはリリアを驚かそうと思って、悪戯のような嘘を教えたに違いない。
「おいで。火傷の痕が残ったら大変だ」
エドアルドの笑顔を見上げて、リリアは自分の疑問を確信に変えた。
優しい声でリリアの手を引いたエドアルドは、角を曲がらずそのまま廊下の先へ進む。
「あ、あの……本当に、冷やせば問題ありませんから!」
焦ったリリアの反論は『そうだな』と受け流された。火傷した左手はどこかにぶつからないようしっかりと握られ、後ろに回された腕は前掛けの結び目の上から腰を抱いている。
行き先を誘導するエドアルドと顔の距離が近いことに気が付くと、リリアは急に気恥ずかしくなってしまい、サッと顔を下げた。
「殿下はサロンへお戻り下さい……」
きっとカティエが待っている。あの人形のような愛らしい頬を膨らませて、つまらないわと唇を尖らせて、席を外したエドアルドの帰りを待っているはず。火傷など冷やせばいいのだから、エドアルドが気にする必要はないのに。
「戻らなくても平気だ。仕事だと言って出てきたから」
「えっ?」
「まぁ、嘘なんだけどな」
エドアルドが悪戯に成功した子供のような笑顔を浮かべるので、リリアは小さく首をかしげた。
とある部屋の前で、エドアルドが足を止める。どうやらこの部屋も応接間のようだ。
扉が施錠されていない部屋へ入ると、中はそれほど広くはなかった。しかしブラウンオークのテーブルとエンジ色のソファは、一目で高級な調度品だとわかる立派なものだ。
そのソファに座るよう促されたので、言われた通りに腰を下ろす。座面の柔らかさと肌触りの上質さには驚いたが、もっと驚いたのはエドアルドが隣に腰を下ろしたことだった。
「見せて」
「え、いえ……あの……恐れ多い、です」
思わず首を振ってしまうが、エドアルドはリリアの様子を気にせず掴んだ左手をまじまじと見つめた。
「悪いな。魔法はあまり得意じゃないから、この程度しか出来ないが」
そう言ったエドアルドがパキンと指を鳴らすと、何もない空間に透明の渦が巻き起こった。チカッと瞬いた閃光に、ほんの少しだけ目が眩む。そこに生じた波動は最初は小さかったが、周囲の空気を取り込みながらだんだんと大きな渦になり、やがて光の粒子を含んだ一つの塊になった。
「わぁっ!」
形も大きさも魔女から受けた呪いの球体と似ている。だがあの禍々しい暗黒とは異なり、エドアルドが生み出した球体は水晶のように透明だった。つるりと丸い物体に、その奥にあるテーブルや対のソファ、壁にかけられた刺繍の織物までが鮮明に透けている。キラキラと輝く光の粒子が球体の中で流動する様子は、芸術品のようで息を飲むほど美しい。
そしてリリアの手の中にころりと落ちてきたそれは、氷のような冷たさを持っていた。
「わ、冷たい、です」
「冷やさなきゃ意味がないだろう。少し我慢してくれ」
エドアルドはリリアの火傷を癒すために魔法を使ってくれたようだ。
今のリリアは王宮の侍女服を身につけてはいるが、カティエが正式に結婚するまでの期間限定の部屋付き侍女に過ぎない。ただの侍女にまで目をかけ、しっかりと労ってくれるエドアルドの懐の深さに感銘を受けた。
左手の上の冷たい球体を眺めながら、リリアはふと胸の奥に生まれた疑問を口にした。
「あの……質問をしてもよろしいでしょうか?」
「ん? 何だ?」
「今は政務がお忙しい時期ですよね? なぜこの時期にご婚約されるのですか?」
王宮にきてから数日が経過した。リリアは実際に仕事をする様子を見ていないが、今のエドアルドの政務が忙しいのは明らかだ。同じ王宮内にいる婚約者に八日間も満足に会えないほど忙しいのならば、一ヶ月なり半年なり時期を遅らせればよかったはずなのに。
「秋のうちに披露目の夜会を済ませたいんだ。そうすれば冬黎祭と婚約発表の時期を合わせられる。冬の間にゆっくり結婚の準備をすすめれば、花が一番綺麗な時期に婚姻の儀式を迎えられるからな」
エドアルドの説明を聞いたリリアは、思わずはっと息を飲んだ。
(そっか、冬黎祭……!)
冬黎祭はエドアルドの生誕を祝う祭典の名前だ。スーランディア王国では一つ一つの祝事を個別に執り行うよりも、吉事が重なればより大きな祝福を受けられるとされる。冬黎祭と婚約発表の時期を合わせたのは、王宮としても大きな意味があることなのだ。
(けど私が、直前になって婚約を辞退したから……!)
当初の予定では、秋が深まる前にお披露目の夜会を済ませているはずだった。そしてリリアは今頃、王宮作法の手ほどきを受けているはずだった。
リリアもカティエも貴族としての基礎教育は受けているが、王宮作法教育は王族とその妃しか受けられない。そのため、まずはお披露目の夜会を済ませ、王侯貴族に婚約を認められる必要がある。彼らに認められてはじめて、王子の婚約者は王宮作法教育の段階へ進めるのだ。
もちろん王宮作法を身につけた者でなければ、王族の婚約者として国民に発表出来ない。だからリリアは一年も前から入念に婚姻の準備を進めていた。冬黎祭の日取りから逆算すれば、本来なら余裕がある日程を組んでいたのだ。
しかしリリアが婚約を辞退したことで、王宮の予定はすべて狂ってしまった。それは同時に、冬黎祭に準備を間に合わせなければいけない、新たな花嫁であるカティエの負担も意味していた。
「仕方ない。何事も自分の望んだ通りにはいかないものだからな」
そしてリリアが何よりも重く受け止めなければいけないことは、他でもないエドアルドの気持ちだった。困ったように笑うエドアルドの表情に、リリアは胸が締め付けられた。それはきっと、王宮の祭事の予定が狂ってしまったことへの落胆だけではない。
エドアルドは、傷付いたのだ。一年も前から決まっていた婚姻を、土壇場になって辞退された。
花嫁に逃げられた王子――エドアルドの物憂げな横顔を見つめたリリアは、彼を深く傷付けてしまったことにいまさらながらに気が付いた。
(――申し訳ありません……)
口に出すことは出来ないので、心の中でそっと謝罪する。
しかし新しい花嫁のカティエは、わがままだけれどエドアルドを好いている。地味なリリアと違って愛らしい外見をしている。話好きで社交界との繋がりも深く、いざとなったらフィーゼルとロナ侯爵家を慕う人たちも力を貸してくれる。だから第二王子の花嫁として、カティエならば申し分ないはずだ。
「君を」
俯いていると、エドアルドに声をかけられた。
はっとして顔を上げると、サファイアブルーの美しい瞳と目が合う。元気のない声と同様に、リリアを見つめるその表情はひどく切ない。
悲しみを帯びた青い水面に囚われていると、エドアルドに再び手首を掴まれた。その拍子にリリアの手から冷たい球体が転がり落ちてしまう。
だが透明な球は床に落ちても砕けたり割れたりはしなかった。
「逃がすつもりはない」
「……殿下?」
けれどリリアの思考は、簡単に砕けてしまった。
「カティエ。ちゃんと着替えないと、風邪を引いてしまうわ」
「う~ん……。わかってるわよ~……」
どうやらカティエは相当量のお酒を口にしたらしい。すっかり酔っぱらってしまった彼女に夜着へ着替えるようすすめるが、返答のみで行動する気配がない。
仕方がないので、衣装箱からカティエの夜着を引っ張り出して彼女の傍に置く。そのついでに耳元を飾るイヤリングを外したほうが良さそうだと考えた。
「カティエ、イヤリングも外したほうが……」
「リリア」
カティエの耳元に触れようとすると、その手首を突然ぐっと掴まれた。
急に身体を掴まれたことに驚いて、すぐに身を引こうとする。だが酔ったカティエは加減が出来ないのか、指先に込められた力はかなり強く、簡単には振り解けなかった。
「い、いたい……! カティエ!」
咄嗟に声をあげると、カティエの力が少し弱まる。しかし手は解放してくれない。
「本当、可愛いわね」
短く告げられた言葉の意図がわからず、おそるおそる顔を上げる。
そこにはじいぃっとリリアの瞳を覗き込むカティエがいた。まるで蛇のように。いや、魔女のようにきつい視線がリリアを捉える。背筋がぞっとするような、全身が凍り付くような冷たい瞳で。
「可愛い」
「カ……カティエ?」
「まるで赤子みたい」
ふふふっと笑ったカティエは、確かに酒に酔っている。けれど、本当にそれだけだろうか。
リリアが小さくなった姿を、カティエはまだ数えるほどしか目にしていない。だが今夜から国民への婚約発表の日まで、リリアとカティエはこの部屋で共に過ごすことになる。幼い少女に変貌してしまうこの姿を、彼女は毎夜のように目にすることになる。
もしかしたら、カティエはリリアの幼い姿を見る度に、魔女に襲われたときのことを思い出すのかもしれない。この姿を見ると、恐怖の瞬間を想起するのかもしれない。
そうだとしたら、リリアはカティエの傍にいないほうがいいのではないだろうか。これから王宮に嫁ぐカティエにとって、リリアは恐怖を思い出す不快な存在なのではないだろうか。魔女に襲われた日からふた月近くが経過しているが、彼女の心の傷はまだ癒えていないのではないか。
「ほんとうに、ほんとうに……リリアは可愛い」
「カティ……エ……」
冷たい目で笑う彼女の心を探ろうとする。
(私は、ここにいないほうがいい?)
そう訊ねようと思ったが、今の彼女はお酒に酔った状態だ。きっと冷静な判断が出来ないし、仮にしっかりと話し合えたとしても、明日にはその内容を忘れてしまう可能性がある。だったら今はそんな話をしても無駄に違いない。
「ええと……カティエのほうが、可愛いと思うけれど」
「それはそうよね」
リリアが呟いた言葉を全面肯定したカティエが、急に満足げに鼻を鳴らす。それから何度か頷くと、ようやくその手を離してくれた。いつの間にかカティエはいつもの様子に戻っていて、ほっと胸を撫で下ろす。
本当は湯浴みをすべきだと思うが、今夜はそのまま眠るらしい。夜着に着替えてベッドの中に入ろうとしたカティエが、ふとリリアのほうを振り返った。
「小さいから、ソファでも眠れるでしょ?」
「……うん」
それが当然だと言うように断言されては、リリアも頷くしかない。
昔は同じベッドで眠ることもあったのに。今はこんなに広いベッドを使えて、リリアの身体は昔のように小さくて、最初に寂しいと言ったのはカティエなのに。一緒に眠るための理由はたくさんあるはずなのに、カティエは『一緒に寝よう』とは言ってくれない。その事実が、リリアは少しだけ寂しい。
カティエが脱ぎ散らかした服と装飾品を片付け、部屋の明かりを消して戸締まりを確認する。ソファの上に横になると、ほどなくして天蓋の中からカティエの寝息が聞こえてきた。
きっとリリアは、まだ眠れない。
そう思っていたのに、ソファに身体を預けて力を抜くと自然と睡魔が襲ってきた。
王宮にやって来て八日目の午後。リリアは目の前の様子を見て、密かに頭を悩ませていた。
リリアが用意したのは、カティエが持参した彼女のお気に入りのティーセット。紅色と桃色の大花が描かれた白いカップの縁を、金色の装飾が彩っている。そして甘いカスタードケーキと、淹れたばかりのブラウンティー。テーブルに季節の花を彩った優雅なひととき。
ではないと思う。どう考えても。
「少しは私の相手もして下さいませんと、寂しいですわ」
いじらしく唇を尖らせる表情も、小さなわがままも、花のように可憐で愛らしい。
そんなカティエの前に座っているのは、他でもない第二王子のエドアルドだった。
「悪かった。忙しさにかまけて、君の相手をおろそかにしてしまったな」
そう言って苦笑するエドアルドに、リリアが代わって全力謝罪する。もちろん発言は許されないので、心の中で。
エドアルドが政務で忙しいことは、先日の様子を見ればカティエにだって理解出来るはずだ。けれどカティエは己のわがままをエドアルドにまで押し付けるつもりのようだ。
どうしてもエドアルドに会いたい。どうしてもティータイムを共にしたい。
木苺とはわけが違うのよ、と懸命に説得したが、カティエがリリアの意見に耳を傾けてくれるはずなどなかった。
忙しいエドアルドを煩わせているのは百も承知だ。だからせめてお茶だけでも美味しく淹れたい。悩んだ末、リリアはカスタードケーキに一番合うと感じたブラウンティーを選択した。
エドアルドの細長い指先が、ティーカップを口へ運ぶ。プラチナホワイトの銀糸がそよ風をまとってサラサラとなびく。サファイアブルーの瞳の中にティーカップの水面が揺らめく。
そんな優雅な所作にぼんやりと見惚れていると、
「うん、美味いな」
と呟く声がティーサロンの中に響いた。
「カティエが羨ましい」
「あら、なぜですの?」
「君にはお茶を淹れるのが上手な友人がいるからな」
エドアルドの笑顔を正面からそっと見つめて、リリアは密かに照れてしまう。カティエを通して褒められた喜びから心の中で舞い上がったが、彼女の返答は怖いぐらいに冷徹だった。
「幼少期から知るといっても、彼女は侍女ですわ。友人というわけではありません」
(ええー……ひどい……)
そこは適当に誤魔化して相槌を打つか、さらっと流してくれればいいのに。離れるのが寂しいから王宮についてきて欲しいと言ったのはカティエなのに。それがリリアの身元を偽るための演技だと知っていても、友達ではないとはっきり口にされると複雑な気分になってしまう。
「これは去年の茶葉か?」
エドアルドはカティエの悪い冗談をさらりと聞き流してくれた。その代わり、口にしているブラウンティーに興味を示す。そんなエドアルドの問いかけにカティエの肩がびくりと跳ねた。
「え……」
カティエの背中は困惑そのものだった。ちらりと彼女の様子を盗み見た瞬間、リリアは再び頭を抱えることになる。カティエは自分の領地で収穫して、自分で持参してきた茶葉の詳細をしっかり理解してないらしい。
「リーリャ」
「……はい」
飛び火してきた声が求めていることもすぐに察知する。
カティエのためを思うなら、本当はここで助け舟など出さないほうがいい。わからないことは、わからない。知らないことは、知らない。二人がこの先夫妻として上手くやっていくことを考えるなら、カティエは見栄を張って些末な隠しごとをするずるい手段など覚えてはいけない。
それはわかっているが、リリアは結局、カティエに甘い。振り返った彼女にうるんだ瞳を向けられて言葉のない懇願をされてしまえば、手を差し伸べる他ない。ここでもまたお人好しを発揮して、カティエのために心を鬼に出来ない自分が情けない。
「私に説明の許可を頂けますか?」
「ああ、もちろん」
「王子殿下の御心に感謝いたします」
あっさりと許可が下りたので、その場で一度頭を下げる。
顔を上げるとエドアルドと再び目が合う。しかし、ただの侍女が王族である彼を正面から直視するのは無礼にあたる。とはいえ急に逸らすのもまた無礼なので、リリアは発声に影響がない程度にゆっくりと視線を下げた。
「こちらのブラウンティーは本年の茶葉になります。今年は雪解けが早く、春から初夏の気候が安定しておりましたので、例年より早く収穫を迎えられました。昨年のものよりもやや渋みが強いですが、ただいまお召し上がりになられているカスタードケーキであれば、今年のものは相性がいいと思われます」
「そうだな、確かに甘いケーキに合うかもしれない。オレンジはどうだ?」
「はい。オレンジティーは、丁度今が収穫の時期です。ですが茶師は昨年のほうが出来がよさそうだ、と申しておりました」
「ああ、去年の茶葉は市井でも人気だったな」
ふうん、そうか、と感慨深げに呟くエドアルドには、リリアのほうが感心してしまう。
リリアは父が領地として管理するフォルダイン領産の茶葉だけでなく、王国中の新茶葉の出来を毎年楽しみにしている。もちろんすぐ隣のヴィリアーゼン領の茶葉の下調べも怠らない。しかしそれはひとえに、リリアがお茶好きだからである。王族として自国の状況を把握しておくことは重要だと思うが、まさかエドアルドも茶葉の出来を把握しているとは思ってもいなかった。
「丁寧な説明をありがとう」
「恐れ入ります」
エドアルドのその言葉を聞くと、もう一度頭を下げて壁際に退がる。
これでカティエの体裁は保たれたはずだ。助けを求められれば応じるが、あとは壁のレリーフに徹する。
そろそろお茶のおかわりを用意しなければ、と考えながら何気なく顔を上げると、エドアルドがこちらを見つめていることに気が付いた。
(な、なに……?)
驚いて身体がぴくりと跳ねるが、再びゆっくりと視線を逸らす。
しかししばらく目線を彷徨わせた後に顔を上げると、再びエドアルドと目が合ってしまった。
(ええと……)
おまけに今度は笑顔まで向けられてしまい、リリアは反応に困ってしまう。
最初はカティエに微笑んでいるのだと思った。リリアと違い、エドアルドとカティエは元々面識がある。侯爵家の令嬢らしく、カティエは社交の場にもちゃんと顔を出している。それならばエドアルドとの共通の話題も多いはず。
そう予想していたリリアを裏切り、エドアルドは一方的に話すカティエの話には適当な相槌を打つだけだ。その代わり、レリーフと同じく微動だにしないリリアと視線が合う度に、やわらかく笑いかけてくる。
(セイラ。エドアルド殿下は結構笑うお方だと思うわ)
それはもう、眩しいぐらいの笑顔で。
そういえば八日前に応接間で会ったときも、無表情のリリアの顔を見て笑っていた。もしかするとエドアルドは彫刻やレリーフが好きなのかもしれない。
でもリリアは、自分の造形物としての完成度は高くないと知っている。もう少し華やかな顔立ちか曲線美を感じられる体躯だったら、エドアルドの目の保養になったかもしれないけれど。
「リーリャ」
庭の隅で忘れ去られた石像の気持ちになっていると、カティエが声をかけてきた。
カティエはお茶のおかわりをご所望だ。
声をかけられるまでカップの中身が空になったことに気付かないとは情けない。はっとしたリリアは、急ぎつつも粗野にならないようポットの中身を慎重にティーカップに注ぐ。
カップにブラウンティーが満たされると、エドアルドがまた『ありがとう』と微笑んだ。エドアルド殿下は侍女に対しても優雅に笑ってお礼を言うのね、と再びときめいてしまう。
整った顔立ちが目を細める様子から視線を外すと、今度はカティエのカップにお茶を注ぐ。
しかしリリアがポットの中身を注いでいると、横から突然カティエの手が伸びてきた。熱い陶器が指先に触れるのではないかと驚いたリリアは咄嗟にポットを引っ込めるが、急いだせいで腕がカティエの肩に当たってしまった。
「きゃあっ!?」
「っ……! 申し訳ございません! お怪我は……っ」
悲鳴を漏らしたカティエに、慌てて謝罪の声をかけてしまう。本来は給仕をするだけの侍女が、主人や客人に自ら声を掛けるのはご法度だ。だが飛び出てしまった言葉を引っ込めることは出来ず、心配したつもりだったのにカティエにきつく睨まれてしまう。
「もう、下がっていいわ」
カティエはすっかり虫の居所が悪くなってしまったようだ。口調こそ静かだが、リリアを睨みつける表情は険しい。見たことがない友人の表情に、リリアは驚愕して困惑してしまう。
「ですが……」
「かわりが欲しくなったら、他の人を呼ぶわ!」
「……かしこまりました」
ただの侍女が、主人の命令や決定に意見することなど出来ない。
三度目は言わせない、と強い視線が怒りを露わにするので、リリアは渋々頭を下げた。
「ご無礼をお許し下さい。失礼いたします」
エドアルドとカティエに謝罪の言葉を述べると、そのままティーサロンを後にする。
折角のティータイムに水を差してしまったことを猛烈に反省するが、後悔しても遅い。パタンと閉じたガラス扉の向こう側を確認することも出来ず、リリアはそっとサロンから離れた。
「はあ……どうしよう……」
カティエを怒らせてしまった。リリアを見上げたカティエの視線は、怒りの感情で満ちていた。
彼女が怒るのは無理もない。経緯はどうあれ現在は侍女の身であるというのに、給仕の最中に考え事をしてしまった。その結果、自分に与えられた役目を疎かにしてしまった。だから怒られてしまうのは仕方がない。
ただでさえ魔女に呪われたリリアは夜になると役立たずで、普通の侍女より出来ることが少ない。今度は絶対に失敗しないようにしなければ。友人として、侍女として、カティエを支えると自分で決めたのだから。
それにしても、カティエはどうしてあんな危ないことをしたのだろう。熱いお茶を注いでいる最中に手を出してはいけないのは、小さな子どもだって知っているのに。彼女に怪我も火傷もなかったことは幸いだったけれど。
むしろ火傷を負ったのはリリアのほうだ。カティエから遠ざけようと慌てたせいで、ポットを素手で押さえてしまった。熱い液体が直接かかったわけではないので、リリアが熱さに耐えてポットの落下を阻止したと二人に知られなかったのは幸いだった。
「うう……きっと腫れるわ……」
ポットを掴んだ左の手のひらを眺めると、皮膚の表面が赤くなっている。それに発赤を生じているところのすべてがジンジンと痛い。手のひら全部に血が巡っているように感じる。早く冷やさなければ、後でもっと痛い思いをしそうだ。
(セイラに頼んで、冷やすものを貸してもらおう)
リリアはため息を一つ零して、立ち止まっていた場所からゆっくりと歩き出した。
「待て」
しかし角を曲がろうとしたところで、後ろから突然声をかけられた。リリアは手の痛みと腫れに気をとられていたせいか、背後から人が近づいてきていたことに全く気付いていなかった。
近くから呼ばれたことに驚いて振り返ると、そこにいたのはエドアルドだった。
「で……殿下……!?」
「大丈夫か?」
想像していなかった人物から声を掛けられ、思わず硬直してしまう。もしかしてカティエだけではなく、エドアルドにも怒られてしまうのかもしれない。カティエを怒らせてしまったときを上回る『どうしよう』が、慌てて頭を下げたリリアの胸を埋め尽くす。
「ご無礼をいたしまして、申し訳ございません」
「あ、いや……そんなことはどうでもいい」
眉間に皺を寄せたエドアルドは、リリアの謝罪を軽く受け流す。そればかりか謝罪のために腰を折ったリリアの上体を強引に引き起こし、手首をぐっと掴んで、赤く腫れた手のひらをじっと凝視してくる。てっきり怒られてしまうと思って身構えたが、エドアルドはリリアが想像していたものとは異なる言葉をかけてきた。
「やっぱり火傷してるじゃないか」
「えっ……? あっ、大丈夫です。すぐに冷やせば……」
至近距離で揺れ動くサファイアブルーの瞳を見つけて、リリアはつい挙動不審になってしまう。エドアルドから逃れようと手を引いたが、彼の指先はしっかりと左の手首を掴まえていて、簡単に逃れることは出来なかった。
「悪かった。俺が君に夢中になりすぎたせいで」
「え……ええ、と……?」
「カティエは、面白くなかっただろうな」
ふっと表情を崩して笑う麗しい姿に、また驚いてしまう。
『だってエドアルド殿下って、あんまり笑わないんだもの』
『エドアルド殿下の婚約者候補なんて、私なら気が滅入ってしまうわ』
頭の中に再びセイラの言葉が響くが、そんなはずはないと思う。セイラはリリアを驚かそうと思って、悪戯のような嘘を教えたに違いない。
「おいで。火傷の痕が残ったら大変だ」
エドアルドの笑顔を見上げて、リリアは自分の疑問を確信に変えた。
優しい声でリリアの手を引いたエドアルドは、角を曲がらずそのまま廊下の先へ進む。
「あ、あの……本当に、冷やせば問題ありませんから!」
焦ったリリアの反論は『そうだな』と受け流された。火傷した左手はどこかにぶつからないようしっかりと握られ、後ろに回された腕は前掛けの結び目の上から腰を抱いている。
行き先を誘導するエドアルドと顔の距離が近いことに気が付くと、リリアは急に気恥ずかしくなってしまい、サッと顔を下げた。
「殿下はサロンへお戻り下さい……」
きっとカティエが待っている。あの人形のような愛らしい頬を膨らませて、つまらないわと唇を尖らせて、席を外したエドアルドの帰りを待っているはず。火傷など冷やせばいいのだから、エドアルドが気にする必要はないのに。
「戻らなくても平気だ。仕事だと言って出てきたから」
「えっ?」
「まぁ、嘘なんだけどな」
エドアルドが悪戯に成功した子供のような笑顔を浮かべるので、リリアは小さく首をかしげた。
とある部屋の前で、エドアルドが足を止める。どうやらこの部屋も応接間のようだ。
扉が施錠されていない部屋へ入ると、中はそれほど広くはなかった。しかしブラウンオークのテーブルとエンジ色のソファは、一目で高級な調度品だとわかる立派なものだ。
そのソファに座るよう促されたので、言われた通りに腰を下ろす。座面の柔らかさと肌触りの上質さには驚いたが、もっと驚いたのはエドアルドが隣に腰を下ろしたことだった。
「見せて」
「え、いえ……あの……恐れ多い、です」
思わず首を振ってしまうが、エドアルドはリリアの様子を気にせず掴んだ左手をまじまじと見つめた。
「悪いな。魔法はあまり得意じゃないから、この程度しか出来ないが」
そう言ったエドアルドがパキンと指を鳴らすと、何もない空間に透明の渦が巻き起こった。チカッと瞬いた閃光に、ほんの少しだけ目が眩む。そこに生じた波動は最初は小さかったが、周囲の空気を取り込みながらだんだんと大きな渦になり、やがて光の粒子を含んだ一つの塊になった。
「わぁっ!」
形も大きさも魔女から受けた呪いの球体と似ている。だがあの禍々しい暗黒とは異なり、エドアルドが生み出した球体は水晶のように透明だった。つるりと丸い物体に、その奥にあるテーブルや対のソファ、壁にかけられた刺繍の織物までが鮮明に透けている。キラキラと輝く光の粒子が球体の中で流動する様子は、芸術品のようで息を飲むほど美しい。
そしてリリアの手の中にころりと落ちてきたそれは、氷のような冷たさを持っていた。
「わ、冷たい、です」
「冷やさなきゃ意味がないだろう。少し我慢してくれ」
エドアルドはリリアの火傷を癒すために魔法を使ってくれたようだ。
今のリリアは王宮の侍女服を身につけてはいるが、カティエが正式に結婚するまでの期間限定の部屋付き侍女に過ぎない。ただの侍女にまで目をかけ、しっかりと労ってくれるエドアルドの懐の深さに感銘を受けた。
左手の上の冷たい球体を眺めながら、リリアはふと胸の奥に生まれた疑問を口にした。
「あの……質問をしてもよろしいでしょうか?」
「ん? 何だ?」
「今は政務がお忙しい時期ですよね? なぜこの時期にご婚約されるのですか?」
王宮にきてから数日が経過した。リリアは実際に仕事をする様子を見ていないが、今のエドアルドの政務が忙しいのは明らかだ。同じ王宮内にいる婚約者に八日間も満足に会えないほど忙しいのならば、一ヶ月なり半年なり時期を遅らせればよかったはずなのに。
「秋のうちに披露目の夜会を済ませたいんだ。そうすれば冬黎祭と婚約発表の時期を合わせられる。冬の間にゆっくり結婚の準備をすすめれば、花が一番綺麗な時期に婚姻の儀式を迎えられるからな」
エドアルドの説明を聞いたリリアは、思わずはっと息を飲んだ。
(そっか、冬黎祭……!)
冬黎祭はエドアルドの生誕を祝う祭典の名前だ。スーランディア王国では一つ一つの祝事を個別に執り行うよりも、吉事が重なればより大きな祝福を受けられるとされる。冬黎祭と婚約発表の時期を合わせたのは、王宮としても大きな意味があることなのだ。
(けど私が、直前になって婚約を辞退したから……!)
当初の予定では、秋が深まる前にお披露目の夜会を済ませているはずだった。そしてリリアは今頃、王宮作法の手ほどきを受けているはずだった。
リリアもカティエも貴族としての基礎教育は受けているが、王宮作法教育は王族とその妃しか受けられない。そのため、まずはお披露目の夜会を済ませ、王侯貴族に婚約を認められる必要がある。彼らに認められてはじめて、王子の婚約者は王宮作法教育の段階へ進めるのだ。
もちろん王宮作法を身につけた者でなければ、王族の婚約者として国民に発表出来ない。だからリリアは一年も前から入念に婚姻の準備を進めていた。冬黎祭の日取りから逆算すれば、本来なら余裕がある日程を組んでいたのだ。
しかしリリアが婚約を辞退したことで、王宮の予定はすべて狂ってしまった。それは同時に、冬黎祭に準備を間に合わせなければいけない、新たな花嫁であるカティエの負担も意味していた。
「仕方ない。何事も自分の望んだ通りにはいかないものだからな」
そしてリリアが何よりも重く受け止めなければいけないことは、他でもないエドアルドの気持ちだった。困ったように笑うエドアルドの表情に、リリアは胸が締め付けられた。それはきっと、王宮の祭事の予定が狂ってしまったことへの落胆だけではない。
エドアルドは、傷付いたのだ。一年も前から決まっていた婚姻を、土壇場になって辞退された。
花嫁に逃げられた王子――エドアルドの物憂げな横顔を見つめたリリアは、彼を深く傷付けてしまったことにいまさらながらに気が付いた。
(――申し訳ありません……)
口に出すことは出来ないので、心の中でそっと謝罪する。
しかし新しい花嫁のカティエは、わがままだけれどエドアルドを好いている。地味なリリアと違って愛らしい外見をしている。話好きで社交界との繋がりも深く、いざとなったらフィーゼルとロナ侯爵家を慕う人たちも力を貸してくれる。だから第二王子の花嫁として、カティエならば申し分ないはずだ。
「君を」
俯いていると、エドアルドに声をかけられた。
はっとして顔を上げると、サファイアブルーの美しい瞳と目が合う。元気のない声と同様に、リリアを見つめるその表情はひどく切ない。
悲しみを帯びた青い水面に囚われていると、エドアルドに再び手首を掴まれた。その拍子にリリアの手から冷たい球体が転がり落ちてしまう。
だが透明な球は床に落ちても砕けたり割れたりはしなかった。
「逃がすつもりはない」
「……殿下?」
けれどリリアの思考は、簡単に砕けてしまった。
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