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第5話

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 シーツの上に崩れ落ちたリーゼの額やこめかみに口づけつつ果てた余韻に浸っていたヴィクトルだったが、ふとした瞬間に我に返ったらしい。ひとときの享楽にすっかり没頭していたことを思い出したのか、リーゼの頭を撫でるとすぐに寝台から身を起こす。乱雑に脱ぎ捨てていた衣服に脚と腕を通して速やかに身を整えると、リーゼにはコルセットを締めるときだけ手を貸し、自分は扉に近づいてみる。が。

「おい……開かないぞ!」

 身体に残存する甘美な痺れや気だるさと戦いつつワンピースのホックを留めていたリーゼの元へ、ヴィクトルの慌てたような声が届いた。夫の大きな声にびくっと飛び跳ねたリーゼだったが、ヴィクトルの台詞の内容を理解すると、すぐに彼の焦りと困惑に自然と同調する。リーゼもてっきり、条件を満たせば扉の鍵が開くとばかり思っていた。

 ヴィクトルが表情を歪めながら、ドアのレバーをガチャガチャと動かす。

「どうして開かないんだ……!? 愛し合えば開くのではないのか!?」

(※ 誰もそんなことは言っていません。お金払わないと開きません)

 ヴィクトルの焦った声に触発されるように、リーゼも狼狽してしまう。
 だが少し考えているうちに、リーゼは突然閃いた。天啓かもしれない。

「も、もしかして……たっ……足りなかったのでしょうか……?」
「!」

 リーゼが神のお告げをもじもじと伝えると、ヴィクトルも雷に打たれたように無表情のまま硬直した。だがすぐに、彼もそれが事実であると思ってくれたらしい。

「ああ、そうか……。そうだな、確かにたったの二度では、不足しているのかもしれないな」

(※ ちがいます。お金を払わないと開かないだけです)

 異世界の文字が読めない二人には正しい解決策がわからない。ならば現状で考えられるもっとも可能性のありそうな脱出方法を試すしかない。

 互いにそう信じ込んで、身体の距離を近づける。ヴィクトルの腕がリーゼの腰に絡みつく。リーゼの手もヴィクトルの背中に回る。たった今締めたばかりの背中のリボンの結び目をするっと引かれると同時に、二人そっと目を閉じる。

 そのままあとほんの少しで唇が触れ合うという、その刹那――二人のすぐ傍にあった扉が、ドンドンッ! と勢いよく叩かれた。

『リーゼさま! ヴィクトル殿下! こちらにいらっしゃいますか?』

 豪快な音に驚いて二人で一緒にビクッと飛び跳ねる。何事かと思って振り返ったリーゼだったが、直後に聞こえてきたのは他でもない、侍女のサナの声だった。

「サナ! います! ここにおりますわ!」

 慌ててヴィクトルと距離を取り、扉に近づいてサナに返答する。すると扉の向こうから、想像もしていなかった事実を告げられた。

『申し訳ございません! 言い忘れておりましたが、ラブホは部屋の中でお金を払う仕組みです』
「……え?」
「は?」
『料金を支払わないとドアが開錠しないので、そちらで清算してください』
「な、なるほど……! ではこれは、利用料金を支払う装置なのね。わかったわ! サナ、ありがとう」

 扉の向こうにいるサナに返事をしつつ、衝撃的な早とちりと勘違いをしていたことに明確に気がついてしまう。それはきっと、ヴィクトルも同じだった。

「……ということは、ここに書いてるのは『愛し合わなければ出られない』ではなく、『お金を払わなければ出られない』……?」
「そ、そのようですね……」
「……」
「……」

 ヴィクトルの呟きに同意するものの、熱く火照った顔のままでは視線が上げられず、ただ俯くしかない。

 ウォードル王国の民の中に〝不思議な力〟は持つ者はそう多くないが、異世界からやってくる者のほとんどが卓越した身体能力や摩訶不思議な力を有している。であれば異世界からやってきた建物もなんらかの〝不思議な力〟を秘めているのだと思っていた。その不思議な力が発動したからこそ〝条件を満たさない者は入城できない状態〟に陥ったのだと解釈した。

 ならばきっとリーゼとヴィクトルが部屋から出れないのも、脱出の条件を満たしていないからだと――もっとたくさん愛し合わなければ、このままずっと出られないまま閉じ込められてしまうと思っていたのに。

 違ったらしい。必要なのは料金の支払いだった。
 恥ずかしい、穴があったら入りたい。

 羞恥を感じつつ、そういえばサナはどうして数ある部屋の中からピンポイントでこの部屋に自分たちがいるとわかったのだろう、と考える。リーゼとヴィクトルが蜜事に耽っている間に、サナはサナで経営する者に会って中の様子を聞き出してくれていたのだろうか。

「なるほどな。金さえ払えば、好きなだけ妻と愛し合える部屋……か……ふむ」

 羞恥と思案の狭間で料金を支払おうとポーチを取り出したリーゼの隣で、ヴィクトルもヴィクトルで別のことを考えていたらしい。独り言を零したヴィクトルの横顔を何気なく見つめると、そこではたと動きを止めた夫と静かに目が合った。

「待て、リーゼ。どうして君が金なんて持っている……?」
「え……?」

 ヴィクトルに不思議そうな顔で訊ねられ、確認するように自分の手元へ視線を落とす。

 リーゼの手には白い生地に桃色の薔薇の花を刺繍した小さなポーチが握られ、そこから今まさに紙幣を取り出そうとしているところだった。異世界の支払い装置にウォードルの通貨である紙幣が使えるのかどうかは、今は問題ではなく。

「え、えっとぉ……」

 貨幣や紙幣は物品を購入したりサービスを受けたりするときに支払う通貨だ。しかし王太子妃であるリーゼは王城での生活を保証されている身のため、基本的に手ずから金銭を支払う機会はほぼ存在しない。機会がないのだから、自らお金を持ち歩く必要もない。

 なのに金が必要だと言われて懐からサッとポーチが出てくれば、それはヴィクトルも疑問に思うことだろう。

「あのー……サナと一緒に……お忍びで?」

 ヴィクトルの問いかけから、そろーっと視線を外してなにもない空間を見つめる。彼が纏う空気の冷たさから説教を食らう気配は悟ったが、それでも必死に誤魔化したかった。リーゼとて怒られたくはない。

「城下に出たときに……飲み物やおやつを買ったり……馬車に乗ったりするときのために……ドレスの裏ポケットに……えへ」
「君という人は……本当に……!」

 しかし笑顔の誤魔化しはまったく効果がなかった。案の定、頬の皮を思いきり摘ままれて横にぐいぐい引っ張られる。

「護衛をつけずに女性二人で外を出歩くなと、どれほど言えば理解するんだ!」
「いいぃ、いひゃぃえふ……うぃくとうひゃま……!」
「君は俺の心配を、わかってるのかっ!?」
「わ、わかってます……! 以後気をつけますっ」
「はぁ……まったく」

 ぱっ、と指が離れた後の頬をすりすり撫でながら反省していると、ヴィクトルに思いきりため息をつかれた。美しい顔の夫はどんな表情でも美しいが、できれば怒りじゃない感情を向けられたい。

 そう思っていると、腰を少し折りリーゼの耳の傍に顔を近付けてきたヴィクトルがぼそりと何かを呟いた。

「君にはお仕置きが必要だな」
「え……?」

 たった一言だけ呟いて顔を離したヴィクトルと、至近距離で見つめ合う。そんな彼の青い眼の奥に怒りとは別の感情が宿っていることに気がつく。

「今は忙しくて仕置きをする時間がない。だから明日改めて……今度は別の部屋で」
「……はい」

 扉の解除音が、別の扉の施錠音に聞こえたような気がしたのは――きっとリーゼの気のせいではなかった。



   * * *



「あれ? サナちゃん、今日はリーゼさまと一緒じゃないんだ?」
「エイベル殿下」

 王城の広い廊下を歩いていたサナをすれ違いざまに呼び止めてきたのは、ウォードル王国第二王子のエイベルだった。髪の色や眼の色、背格好は似ているが、常に苛立った様子の兄ヴィクトルと異なり、弟のエイベルは大抵にこにこと朗らかな笑みを浮かべている。

 そんな彼が今日も人の良さそうな笑顔で話しかけてきたので、サナは挨拶ついでにここ数日気になっていたことをエイベルに訊ねてみることにした。

「〝小さな城〟の件、どうなりましたか?」

 それは他でもない、異世界……サナが元いた世界の〝日本〟という国から建物ごと転移してきた『ラブホテル』の処置の件についてだった。ただしウォードル王家の人々に『ラブホ』『ラブホテル』と言っても通じないので、呼称は『小さな城』で統一することとなっている。

 サナの質問にエイベルが「んーん」と困ったような声を発した。

「それがヴィクトル兄さんが後の処理を請け負うーって言い出して、僕の管理からは外れたんだ」
「あら、そうでしたか」
「一応、城の主? と話をつけて、建物ごと別の場所に移動してもらうことで合意は得たはずなんだけど。どういうわけか、兄さんがまだ『偵察が終わってない』って言うんだよね」

 エイベルの説明に、サナはふむふむと頷く。

 王太子であるヴィクトルは国内各地の領主や国外の王侯貴族・外交官とやりとりに時間を割くことが多く、代わりに弟である第二王子エイベルが、内政における細々とした取り決めや計らいの調整役を担っている。

 よって『小さな城』の件もエイベルの管理・管轄になるはずだったのに、どういうわけか今回の件に関しては、ヴィクトルの裁量により審判され対処方法が決定されることとなったらしい。

 エイベルは不思議そうに首を傾げているが、サナは疑問には思わない。むしろ、やはり、と考えてしまう。

「でもヴィクトル兄さん最近やけに機嫌いいし、周りを怒ることも減ったし、やたらと仕事が早いんだよね。なんかこう、効率的っていうか? だから面倒事を請け負ってくれるなら、僕としては楽なんだけども」
「……わかりやす」

 サナの予想は当たっていた。やはりリーゼとヴィクトルには、もっと他愛のない時間を楽しむ余裕が……二人きりになる時間が必要だったのだ。

 可能であればヴィクトルはもっと妻のリーゼを頼り、自らが抱える面倒な公務を彼女に割り振ってもいいと思う。おっとりした性格ではあるが、王太子妃リーゼには心を込めて賓客をもてなしたり、遠方の領主や領民の話にじっくりと耳を傾けるぐらいの器量と度量がある。それにもしヴィクトルに頼られたらリーゼは喜んで彼の役に立とうと張り切るはず。

 だがおそらくヴィクトルは、この先もリーゼに仕事を与えようとはしないだろう。

 理由は二つ。ああ見えて過保護で嫉妬深いヴィクトルは、自分がいない場で他者とリーゼが接することを極端に嫌う。たとえ公務であっても、リーゼが他の……特に男性に笑顔を向けることが気に入らないのだ。それなら自分が忙しい方が何倍もましだと思っている節すらある。

 そしてもう一つの理由は。

「もうすぐヴィクトル殿下とリーゼさまに御子さまができると思いますよ」
「え? えー? まさか~? 毎日毎日朝から深夜まで仕事詰めで、大好きなリーゼさまと一緒に寝れてないのに、どうやって子どもなんて……」
「ふふふっ」

 エイベルの呆れと苦笑いを混ぜたような表情に、再び笑みを零す。

 過保護な上に心配性のヴィクトルは、リーゼが懐妊したとなれば間違いなく公務など与えない。仕事などさせるわけがない。場合によっては部屋からも極力出ないように命じるかもしれないと思うほどなのだ。

 そうなるとここ数日は落ち着いているリーゼのお忍び脱走計画が再燃しそうな気もするが――まぁ、それもまだしばらくは心配しなくても大丈夫だろう。

「え……っと? サナちゃんは、なんでそう思うの……?」
「さあ、なぜでしょうね。……それではそろそろ失礼します、エイベル殿下」

 頭の中に未来予想図を広げたサナは、エプロンとワンピースの端を摘まんでゆったりと膝を折った。それからすっと背筋を伸ばし、仕上がった洗濯物を受け取るべく係のメイドが待つリネン室へ向かう。

「うーん……。異世界人ってほんと不思議……」

 サナの背中を見つめて呟くエイベルは、きっと気がついていない。彼の背後に見える窓の向こうで、全然忍んでいない変装をして小さな城へ仲良く出かけていく、兄夫婦の仲睦まじい姿には。


  ――Fin*

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