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ようこそ八百万町へ
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しおりを挟む旺仁郎は耳を塞いだまま蹲り、自分の腹の辺りに深く深く頭を沈めた。
しかし、鐘楼の音は鳴り続け、どんなに強く塞いでも指の隙間から頭の中を叩きつけるようだった。
目を開けているのか閉じているのかわからない。耳を塞いだまま顔を上げても、どこまでも暗く自分の姿すら見えないのだ。
鐘の音で耳を塞がれ、暗闇で目も塞がれているというのに、そこかしこから気配を感じる。不気味で得体の知れないそれらは、旺仁郎の周りをぐるぐると囲み、まるでこちらを値踏みするかのようだった。
千隼に館の中に押し込まれ、その場からは動いていないはずだった。それなのにどんなに探っても扉に手が当たらない。
ついに旺仁郎はその場を探ることを諦めて、何も見えぬままふらふらと歩き始めた。せめてこの鐘の音から遠ざかりたい。その一心で音を背にして歩みを進める。
取り囲む気配は今のところ襲ってくるような様子もなく、ただ少しの距離を空けて旺仁郎について回った。
ふと顔を上げると、視界の先にほのかに赤い球が見えた。それはとてつもなく遠くにあるようにも見えたが、旺仁郎が歩みを進めると思ったよりもはやくその距離を詰めている。
だんだんと大きくなるそれは、まるでこたつの中の温かい光のようだと旺仁郎は思った。橙色でぼんやりとその周囲だけを照らしている。
辿り着くと、ちょうどこの身が入るほどの範囲に広がっている。そっと光の中に身を投じてみると、こたつほどではないものの、ほのかに温かい。不思議とその光の中では周囲にいた気味の悪い気配が遠のき、鐘の音がプツリとやんだ。
旺仁郎は自分が存在していることを確かめるかのように、自身の体を見下ろしてみる。手も足も胴体もちゃんと存在して、思った通りに動いていた。
それを確かめた後で顔を上げて驚いた。
つい先程まで無かった、否、見えていなかった光景が目の前にあったのだ。
薄っすらと灯る暖色の光の中に微かに見える。それは夜の街よりは明るいが、夕方よりはもっと暗い。
両手を広げた三人ほどが通れる幅の道、その両側に低層の古い長屋や商店が並んでいる。人影はなくしんと静まり返っている。
もしや壁に描かれた絵なのかと、旺仁郎は一歩踏み出し触れてみるが、そこにはざりざりとした木造の壁の感覚があった。
どの家も年季が入り、あちこち壊れていたり、あるいは修復したような跡がある。
「うそでちょ? うそでちょ? ほんとうなの? あたちったら、ゆめでもみてるのかちらっ⁈」
突然の子供のような高い声に、旺仁郎は肩を震わせ振り返った。声は確かに背後からしたのだがその姿が見つからない。
視線を左右にやったあと、今度は上下に動かして、ようやく向かいの商店の店先に置かれた大きな水瓶の影からこちらを覗くその姿を見つけた。
半身を水瓶に隠している。背丈は旺仁郎の膝下ほどで、和装の衣服を纏ったその姿は幼い少女のようにもみえるが、目がギョロリと大きく、どちらかと言うと人ではなくメガネザルのようである。体毛はないが頬がふっくらとしており、こんな得体の知れない場所に現れたにもかかわらず、不気味というよりは可愛らしいと旺仁郎は思った。
「あなたちゃま、もちかちて、ニンゲンちゃまなのっ?」
どうやら、人かと問われているようだ。
旺仁郎は少し考え、首を振ろうとしたその時だった。突然左の方から何かの影が地面を蹴り上げ、旺仁郎の肩を押した。
咄嗟に手を突いたものの、右半身をなかなか強く地面に打ちつけ旺仁郎は倒れ込んだ。何事かと視線を向けると、大きな狼……否、犬が前足で旺仁郎の体を押さえつけていた。
慌てて払い除けようと手を伸ばすが、なんとその犬はするすると姿を変えていったのだ。
「ニンゲン? ニンゲンっていったよな⁈」
旺仁郎の伸ばした手首を掴み上げたその姿は、やや髪の長い、青年と少年のちょうど中間ほどの年若い男だった。毛色は先ほどの姿同様に狼の毛並みを思わせる。
上がった目尻に、旺仁郎はほんの少し蓮を思い出したのだが、その口元には犬歯がちらつき、相手が人ではないと認識できた。
「やった、やった! ニンゲンだ!」
犬の青年は旺仁郎の両手首を押さえて、上に跨ったまま屈託のない表情で笑んだ。何が起こっているのかわからないまま、旺仁郎はその青年の顔を見つめ眉を上げた。
「ニンゲン! 俺とまぐわろう! 俺をお前にあげるから、お前を俺によこすんだ!」
何を言っているのか一瞬理解できない旺仁郎だったが、突然下半身の衣服を掴まれ引き下ろされそうになったところで、ほとんど無意識に体をばたつかせ相手の体を押しやった。
「こらこら、逃げるな」
青年はまるで子供でも揶揄うような調子で、逃れようとしている旺仁郎の体を抑え込む。
「やだわ! コマちゃまっ! こんなところでハレンチよっ!」
隣でメガネザルの少女の声がする。しかし、その声も本気で咎める様子ではない。
コマと呼ばれた犬の青年は、強いがそれでも旺仁郎の体を傷つけないような具合で、その体を抱え込んだ。指が後ろからするりと下の衣服に入り込み皮膚を撫で、そのくすぐったさに旺仁郎はびくりと体を震わせて息を飲んだ。
「コマ! 何してるんだ! やめなさいっ!」
頭の上の方から声がした。
その声に待てと言われた犬のようにコマがぴたりと動きを止める。
「そういうことは、相手の同意をとってからやりなさい!」
声の主を確かめようと、旺仁郎はコマの下から視線をなんとか頭上へと持ち上げた。
そこに立っているのは、降ろせば腰ほどまでも届くであろう長い黒髪を後ろで束ねた青年だった。質素な色の着物を纏っているが、その長い髪の左耳の近くに、赤、紺、褐色、薄緑とが交互に編まれた飾りをつけており、中性的とまではいかないが繊細で端正な顔立ちをしている。その立ち姿はしなやかで、尾の長い美しい鳥のようだ。
「同意? 同意ならとったぞ! なぁ? いいよな?」
コマは旺仁郎を見下ろして、無邪気な笑顔を向けている。旺仁郎は力一杯首を横に振ろうとするが、コマがそうはさせるかと顎のあたりを手で抑えた。
「コマッ!」
鳥のような青年が若干語気を強めたが、コマは「知るかっ!」とでも言うように、またするすると旺仁郎の衣服に手を入れる。
「コマッ! いい加減にしろっ! おすわりっ!」
「キャンッ!」
コマの体は後ろにのけぞり、旺仁郎の上を離れて尻もちをついた。
「おすわり」という言葉自体に意味があったわけではなく、どうやら鳥の青年の声自体に突き飛ばされたようだった。
旺仁郎は急ぎ体を起こし衣服を整える。すると鳥の青年が静かに歩み寄り、旺仁郎に手を差し出した。その手を取るとぐいと引き上げ、力を借りて旺仁郎は立ち上がった。
「すまないね。ここで人に会うのがもう記憶にないほど久しぶりで。君はどこから迷い込んできたのかな?」
コマを怒鳴りつけた時とは別人かのように鳥の青年は柔和な笑顔を旺仁郎に向けている。
その問いに答えようと、旺仁郎は衣服を探るが、文字を綴れるものを持ち合わせていないことに気がついた。
「あら、あなたちゃま、もちかちて、おはなちできないのかちら? おこちゃまなのかちら?」
メガネザルの少女は辿々しく歩み寄ると、その可愛らしい顔で旺仁郎を見上げた。旺仁郎はその言葉に頷いて見せた。子供ではないが、そこをわざわざ否定するのはやや面倒だ。
「おや、言葉は理解できるけど口がきけないってことか? それは困ったな」
鳥の青年は口元に手を当てた。
「僕たちは言葉を話せるけど、読み書きはできないんだ。これじゃあ、君の名前すらもわからないね?」
旺仁郎が何か綴ったところで彼らには伝わらないということだ。
「かわいそうに。あたちはエマよ。あたちが、あなたちゃまにおなまえつけてあげるわ」
エマと名乗ったメガネザルの少女は、その小さい体で旺仁郎にしがみつき、するするとよじ登ってくる。
旺仁郎が思わず手を伸ばすと、エマの体はすっぽりと旺仁郎の腕におさまり胸元に抱え込まれた。思ったよりも軽く、猫を抱いているような心地である。
「あなたちゃま、とてもあまくておいしそうなにおいがするわ。そうね、まるでモモみたい! あなたちゃまはいまからモモちゃまね!」
「うーん、ホント、いい匂いだな。1人じゃなくて、いろんな人間の匂いがする」
不意に後ろで倒れていたはずのコマが、旺仁郎の体に腕を回して背後から抱き寄せた。鼻先を首筋につけ、くんくんと確かめるように匂いを嗅いでいる。
「こら、2人とも、そんなにくっついたら、……モモちゃまに失礼だろ?」
「ヤマちゃまもかいでみたらいいのよ。とぉってもいいにおいなのよ?」
ヤマというのは鳥の青年の名であろう。エマに促されると、ヤマは少し躊躇うそぶりを見せつつ、その好奇心に勝てないようだ。
やや遠慮がちに旺仁郎に歩み寄ると、エマを抱いた旺仁郎の正面から鼻先を前髪の辺りに擦り付けた。
「むぅ、なるほど」
ヤマはその身を一歩後ろに下げると、胸元で腕を組んだ。
「モモちゃまは人だけど、人ではないね? 人よりずいぶん僕たちに近い」
ヤマの言葉に匂いでそんなことがわかるのかと、感心しつつ旺仁郎は頷いた。
「それに、残念だなコマ。モモちゃまは既に誰か相手がいるようだ。特定の人の気がとても強く付いているよ」
「えっ⁈ なんだよ、そうなの⁈ くそぉ、こんなにいい匂いがするのにっ!」
かぶかぶと旺仁郎の首のあたりに甘噛みするコマの額を、胸元に抱いたエマがぺチリとはたく。
「モモちゃまはまいごなの? おうちにかえれないの?」
エマは旺仁郎の衣服を掴み、その大きな瞳で見上げている。旺仁郎はわからないというように、その首を横に振った。
「ふむ。迷子か。まあ、とにかくここではなんだから、僕らの家においでモモちゃま」
そういうとヤマは半身を翻し、道の奥へと旺仁郎を促した。不思議なことにさっきまで暗くて見えない町の奥が、ヤマが振り返った途端に灯を灯したように現れたのだ。
とにかく他に当てのない旺仁郎は、エマを抱き、背中に張り付くようなコマに押されながら、ヤマのあとに続いた。
ヤマは数歩前を歩き、時々振り返り目が合うとにこりと笑んだ。
「ところでモモちゃま、あなたのむなもとから、それはそれはいいにおいがちているわ」
「どれどれ? ふんふん、ほんとだっ! モモ! 何隠してる⁈ 見せてみろ!」
「こりゃ、コマちゃまやめなちゃい! えっち!」
ペチンとエマの手のひらが、旺仁郎の胸元に伸びたコマの手を叩く。
いい匂いとはなんのことかと旺仁郎は考えて、ああ、これか、とすぐに思い至って懐にしまい込んでいたそれを取り出す。
「それだわ! とってもいいにおいがちているの! モモちゃま、おねがい。それをあたちにくだちゃらない?」
その大きな目を輝かせてエマが見つめるのは、旺仁郎の手にした一枚の鷹の羽だ。
旺仁郎はうんと頷き、自分の腕に抱いた愛らしいエマにその羽を手渡してやる。
「ああ! エマ! ずるいっ! 俺も!」
「きゃあ! コマちゃま! やめなちゃいっ!」
伸ばしたコマの手から逃れるように、エマはするりと旺仁郎の腕から飛び出した。その手には大事そうに鷹の羽を握りしめている。
短い足でぴょんと跳ね、後を追うコマの手から逃れていた。2人の様子はまるで戯れ合う仔犬のようだ。
そうこうしているうちに、どうやら目的の場所についたようだ。とはいえ、道中ずっと同じような景色がつづき、たどり着いた先も変わり映えは特にない。
しかし、ヤマが示したその家は周囲と同じ、古めかしく屋根の低い平家であるが、ことさら強く灯りが灯り、なにやら生活の気配があった。どうやらここが彼らの暮らす家のようだ。
「さあ、どうぞ」
ガラリと引き戸を開け放ち、言葉の通りヤマはその手を上に向け家の中の方へと向けた。
旺仁郎は目を見張る。
扉の先に続くのは、夕暮れ色に染まった街並みだった。扉の外とほとんど同じ建物が並ぶが、違うのはガヤガヤと活気付き、さまざまな様相の妖が行き交っていた。
人のように見えるものも多いが、何か動物が入り混じったのような者、またはほとんど動物の姿のものもいる。なによりも、今まで歩いてきた道より向こうは明るく温かい。
扉を潜って振り返ると、家の中に入ったはずが、家の中からでてきたかのように扉が佇んでいる。暗い町から夕暮れ色に染まる町へ、家の扉一枚隔てて場所を変えたのだ。
「ようこそ、モモちゃま。八百万町へ」
戸惑う様子の旺仁郎に、ヤマはにこりと笑顔を作る。
『八百万町』
ヤマはこの町並みをそう呼んだ。
八百万町妖奇譚
ーようこそ八百万町へー
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