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もう一つの
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扉から飛び出したものが肩を掠め、直後に千隼が呻き声をあげた。
宗鷹は閉ざされた扉の中の旺仁郎を助けるべく再びその扉に手をかけることもままならず、倒れ込んだ兄の体を抱き上げた。鷹の姿では爪を刺さずに体を支えることは困難で、やむなく人の姿のまま神御前の館に背を向け階段を駆け降りる。
町中にはいつもよりさらにけたたましく、鐘楼の鐘が鳴り続けている。
「なんだあれは! 空っぽのはずじゃなかったのか!」
宗鷹は千隼に問いただすように叫んだが、千隼は血の滲む肩を抑えて顔を歪めたままなんの言葉もかえさなかった。
何か知っていての行動であることは明らかだった。しかし、今はこれ以上追求している場合ではない。
背後から複数の異形の妖が町へ飛び立ち、または転がるように宗鷹と千隼の後を追ってくるのだ。それらは間違いなくあの扉から溢れ出した。
「千隼、一人で走れるか」
息も切れ切れに宗鷹がそう尋ねると、千隼はくっと目尻を上げて宗鷹を睨み上げた。
「俺を見捨てるのか宗鷹」
「違う。この道の先に学校がある。隣には詰め所もあるから、そこが一番異能が多い。そこまで逃れて守ってもらうんだ」
あとはもう千隼の文句を聞く余裕もなく。宗鷹は姿を変え、翼を翻した。
背後に迫っていたその妖の顔に爪を立て、もう一匹には嘴を突き刺す。肉を貫く不快な感触と、生臭い血の匂いが飛び散った。
千隼は妖の呻き声を聞きながら宗鷹の言葉通り、道の先へと一人走った。
◇
鐘楼が鳴り響くと普通課の教室は一斉に窓を閉ざし、特異課の生徒は息を呑みその表情を変える。
まだ年若い彼らの中で前線へ出るものは限られていたが、蓮はもちろんそのうちの一人に数えられていた。
先ほどまで晴れ渡っていたはずの空は、なぜかいつの間にか曇天に様子を変えていた。妖が雲をもたらしたかのようである。
しかし、このまま雨が降れば蓮にとっては都合が良い。雨が降ると言うことは、妖を鋭く射抜く水の粒がそこかしこにあると言うことだ。
「な、なにあれっ⁈」
空にばかり目を向けていた蓮だったが、教室から聞こえたその声に振り返る。声の主は蓮と同じく窓の外を見ていた女子生徒であったが、その視線は空ではなくもう少し下方を向いていた。
その視線の先を追うように蓮は再び窓の外に顔を向けた。他の生徒も蓮と同様に、女子生徒の声につられて窓の外に目をやった。
「色が変わっていってる?!」
別の生徒が声を上げた。
それは神御前のある丘の上だ。館の方から何かが滑り降りる、否こぼれ落ちるかのように丘の木々を伝っている。その様子が、丘の頂上から流れるように木々が燻んだ色に変わっていくように見えているのだ。
そしてそれは粘性のある液体かのように気味悪く形を変えながら中空へと浮かび上がってはまた沈み、跳ねるような動きを見せる。その動きを避け、または時折誘い出すかのようにその上空で鷹が羽ばたいている。
蓮は窓を離れ室内から飛び出した。走ろうともあまり物音を立てない蓮の動きに気づいたものは少なかった。前線へ向かういく人かに紛れて階段を駆け降りる。
「蓮ちゃん!」
途中で声をかけられ振り返った。
どうやら自分を探していたらしい大成が、息を切らして膝に手をついた。
「千隼くんが来てる! で、怪我してて、それでっ……」
よほど走ったのか大成は苦しそうに唾を飲んだ。
蓮は千隼などどうでも良かった。早く次を言えと少々苛立ったが、焦る気持ちを抑えて大成の言葉を待つ。
「さっきまで、上に……神御前に居たって、それで宗くんと、旺仁郎がっ……」
その名を聞いて、蓮は大成の肩を掴んだ。
「旺仁郎がどうしたんだ?!」
大成はまだ膝に手をついたまま息を切らしている。流石におかしいと蓮が視線を落とすと、脇腹の辺りの衣服が破れ、血が滲んでいた。
「大成、どうしたんだ⁈ 大丈夫か⁈」
乱暴に肩を掴んでしまったことを後悔して、今度はその体を支えるように手を貸した。
「あ、うん。傷の方は大丈夫。いや、いてぇけどな。それより、ちょっと気を使いすぎちゃって」
「いったいどこで」
蓮は尋ねた。大成も学内に居たはずだ。
「千隼くんが、めっちゃ大量の妖引き連れて逃げてきてさ、俺のクラスちょうど外で捕縛の訓練中だったから……」
大成の言葉に蓮は少し先の窓から頭を出した。そこからは蓮の教室からはちょうど見えなかった校門のあたりが見える。
想像していたよりも騒然とした光景がそこにあった。怪我人が見て取れる。ほとんどが制服を着た学生のようだった。
近くの詰め所から、学生以外の異能者たちも集まり、詰め寄る複数の妖相手に前線を校門から遠ざけようと対抗している。
とにかく来て欲しいと大成に手を引かれ、蓮は階段を駆け降り外へ出た。先ほど上から見た通り、校門手前のこの辺りは騒がしく、怪我をした生徒を手当するものや、何やら周囲に指示を出す教師、隊列を組もうと人を集める異能者の声が飛び交っていた。
妖は異能者の血肉を好む。つまり異能者の集まるこの場所は餌の宝庫である。
普段現れる妖の数程度なら、数人の異能者で徒党を組めば人の少ないところに誘い出し対処することは可能だ。しかし、蓮の目に映る範囲だけでも今のこの数は多すぎる。
行き交う人をかき分けると、建物の脇に数名の人だがりがある。その中心に取り囲まれるように腰を下ろしているのが千隼であった。彼は別に責めたてられて囲まれているわけではなく。その周囲にいる誰もが玄田の長男の体調を気遣い、または手当を施している。
「千隼くん! 蓮ちゃん連れてきた!」
大成が声を掛けると、千隼が顔を上げた。
肩のあたりを負傷したのか、この寒い中上半身の衣服を脱いで手当を受けている。取り巻きが冬の風に当たらぬようにと、治療の邪魔にならない範囲に毛布を当てがっていた。
「いったいどうなってるんだ? 旺仁郎はどうしたんだ⁈」
相変わらず白く華奢で少しも宗鷹と似ていない玄田の長男に、蓮は焦り尋ねた。
「旺仁郎? ああ、あの貧相な妖か。あいつなら、上に……神御前に閉じ込めた」
「何?」
千隼の言葉に蓮は一歩地面を踏み締めて、息苦しく脈打つ鼓動を喉の奥で押さえ込んだ。手元に自然と力が入り無意識に握りしめている。
「ちょっとまって千隼くん。この妖、上から流れてきたように見えたぞ?まさか……」
傷の痛みからか少々表情を歪めながらも、大成はその視線を神御前へと持ち上げた。
「ああ、うん。そうそう。ちょっと扉を開けただけなのに、思いのほか外に出ちゃってね。でももう扉は閉じたから、これ以上増えはしないよ」
その話を聞く限り、この状況を招いたのは千隼であるが、彼は微塵も悪びれる様子がない。
「この妖は神御前の中から出てきたって言うのか? あそこは空じゃないのか? 旺仁郎をその中に閉じ込めたって?」
蓮の言葉に、千隼はふっと息を漏らすように笑った。その仕草を見て蓮は苛立ち唾を飲む。
千隼の手当ては終わったようで、取り巻きがその衣服を着せて整えている。
「神がいないのは本当だけど空っぽじゃない。あの妖は全部館の中から出てきた」
千隼が言葉を言い終わらぬうちに蓮は体の向きを変え、門の外へと走り出そうと地面を踏み締めていた。しかし、その蓮の動作に気が付き千隼が腕を掴んだ。
「ダメだ、蓮、ここにいろ。大成と蓮はここにいて俺を守れ」
蓮はその腕を振り解く。
「ふざけるな。俺を自分の弟と同じと思うなよ」
千隼に対して冷ややかな表情で低い声を発した蓮に、周囲は息を飲んだ。
周囲が千隼に抱く印象は、ヒステリックで傲慢だ。蓮のその言葉に怒り狂って暴れ出すのではと誰もが思った。しかし、予想に反して千隼は落ち着いていた。
「まさか、お前まであの気味の悪い妖に惑わされでもしてるのか?」
「は?」
「あの妖。人の弟を誑かして食う気だったんだ。だから閉じ込めた。当然だろ?」
「違う、旺仁郎はそんなんじゃないっ!」
千隼に掴み掛かるほどの勢いで手を伸ばした蓮を周囲の数名が間に入って動きを止めた。
「宗鷹もお前もどうかしてる。まるで俺を悪者のように思っているようだが、ルールを破っているのはお前らだぞ? 俺はこの町のために危険な妖を捕らえて閉じ込めたんだ」
蓮は息を飲んだ。千隼に向かう力を緩めるとそれを察したかのように、動きを制していた取り巻きが蓮からその手を離していく。
千隼の言っていることは間違っていない。千隼のせいで溢れ出た妖たちのことはさて置いて、旺仁郎が妖である以上、その身を捕らえるのはこの町のルールだ。
妖は人ではない。この町はそれらとの共存を望んではいないのだ。
「千隼くん、あの中はどうなってんだ? 旺仁郎は大丈夫なのか⁈」
喉の奥を震わせながら大成が尋ねた。
「俺も入ったことはない。大丈夫かどうかは知らないが、あいつ共食いするんだろ? だったらエサはいくらでもある」
千隼の物言いに、蓮も大成も表情を歪めた。
「まあ、逆にアイツが食われるかもしれないのか。なんかアレみたいだな、なんと言ったか……」
千隼は蓮と大成の不快な様子に気がついているはずだ。しかし、素知らぬ顔で言葉を続け、まるで煽るかのように薄っすらと笑みを浮かべている。
「ああ、思い出した。蠱毒だ」
大成は奥歯を噛み締め拳を握った。傷の痛みさえも忘れ、目の前にいるこの男への強い感情が込み上げる。振り上げようと腕を引いたその時だった。
大成がするよりも早く蓮が地面を踏み締めて、その右の拳を千隼の頬に打ちつけた。
華奢な千隼の体はあっけなく崩れ、地面に手をついている。当然ながら周囲は慌てふためき、千隼に駆け寄り、その具合を確かめている。
「大成、傷ちゃんと手当してもらいな」
蓮は低い声で大成に言うと、門の方へと向きを変えた。
「蓮ちゃん!」
大成の呼ぶ声にも振り返らず蓮はその場を立ち去った。
千隼は蓮に殴られた頬を押さえ、取り巻きに支えられながらその体を起こし、蓮の背中を睨みつけている。
「大成、もう一つの問いはなんだったか」
「えっ?」
唐突な千隼の言葉に大成は眉を上げた。
「あの中が、どうなってるのかと聞いたよな?」
千隼はその細い指先で、丘の上の神御前の館を指差している。
いったいこの奸悪な男は次に何を言うのだろうと、大成の腹の奥は不快感でずしりと重くなった。その大成の表情を、千隼はニタリと見上げ言葉を続けた。
「あの中にもう一つ、八百万町が入ってる」
八百万町妖奇譚
ーもう一つのー
宗鷹は閉ざされた扉の中の旺仁郎を助けるべく再びその扉に手をかけることもままならず、倒れ込んだ兄の体を抱き上げた。鷹の姿では爪を刺さずに体を支えることは困難で、やむなく人の姿のまま神御前の館に背を向け階段を駆け降りる。
町中にはいつもよりさらにけたたましく、鐘楼の鐘が鳴り続けている。
「なんだあれは! 空っぽのはずじゃなかったのか!」
宗鷹は千隼に問いただすように叫んだが、千隼は血の滲む肩を抑えて顔を歪めたままなんの言葉もかえさなかった。
何か知っていての行動であることは明らかだった。しかし、今はこれ以上追求している場合ではない。
背後から複数の異形の妖が町へ飛び立ち、または転がるように宗鷹と千隼の後を追ってくるのだ。それらは間違いなくあの扉から溢れ出した。
「千隼、一人で走れるか」
息も切れ切れに宗鷹がそう尋ねると、千隼はくっと目尻を上げて宗鷹を睨み上げた。
「俺を見捨てるのか宗鷹」
「違う。この道の先に学校がある。隣には詰め所もあるから、そこが一番異能が多い。そこまで逃れて守ってもらうんだ」
あとはもう千隼の文句を聞く余裕もなく。宗鷹は姿を変え、翼を翻した。
背後に迫っていたその妖の顔に爪を立て、もう一匹には嘴を突き刺す。肉を貫く不快な感触と、生臭い血の匂いが飛び散った。
千隼は妖の呻き声を聞きながら宗鷹の言葉通り、道の先へと一人走った。
◇
鐘楼が鳴り響くと普通課の教室は一斉に窓を閉ざし、特異課の生徒は息を呑みその表情を変える。
まだ年若い彼らの中で前線へ出るものは限られていたが、蓮はもちろんそのうちの一人に数えられていた。
先ほどまで晴れ渡っていたはずの空は、なぜかいつの間にか曇天に様子を変えていた。妖が雲をもたらしたかのようである。
しかし、このまま雨が降れば蓮にとっては都合が良い。雨が降ると言うことは、妖を鋭く射抜く水の粒がそこかしこにあると言うことだ。
「な、なにあれっ⁈」
空にばかり目を向けていた蓮だったが、教室から聞こえたその声に振り返る。声の主は蓮と同じく窓の外を見ていた女子生徒であったが、その視線は空ではなくもう少し下方を向いていた。
その視線の先を追うように蓮は再び窓の外に顔を向けた。他の生徒も蓮と同様に、女子生徒の声につられて窓の外に目をやった。
「色が変わっていってる?!」
別の生徒が声を上げた。
それは神御前のある丘の上だ。館の方から何かが滑り降りる、否こぼれ落ちるかのように丘の木々を伝っている。その様子が、丘の頂上から流れるように木々が燻んだ色に変わっていくように見えているのだ。
そしてそれは粘性のある液体かのように気味悪く形を変えながら中空へと浮かび上がってはまた沈み、跳ねるような動きを見せる。その動きを避け、または時折誘い出すかのようにその上空で鷹が羽ばたいている。
蓮は窓を離れ室内から飛び出した。走ろうともあまり物音を立てない蓮の動きに気づいたものは少なかった。前線へ向かういく人かに紛れて階段を駆け降りる。
「蓮ちゃん!」
途中で声をかけられ振り返った。
どうやら自分を探していたらしい大成が、息を切らして膝に手をついた。
「千隼くんが来てる! で、怪我してて、それでっ……」
よほど走ったのか大成は苦しそうに唾を飲んだ。
蓮は千隼などどうでも良かった。早く次を言えと少々苛立ったが、焦る気持ちを抑えて大成の言葉を待つ。
「さっきまで、上に……神御前に居たって、それで宗くんと、旺仁郎がっ……」
その名を聞いて、蓮は大成の肩を掴んだ。
「旺仁郎がどうしたんだ?!」
大成はまだ膝に手をついたまま息を切らしている。流石におかしいと蓮が視線を落とすと、脇腹の辺りの衣服が破れ、血が滲んでいた。
「大成、どうしたんだ⁈ 大丈夫か⁈」
乱暴に肩を掴んでしまったことを後悔して、今度はその体を支えるように手を貸した。
「あ、うん。傷の方は大丈夫。いや、いてぇけどな。それより、ちょっと気を使いすぎちゃって」
「いったいどこで」
蓮は尋ねた。大成も学内に居たはずだ。
「千隼くんが、めっちゃ大量の妖引き連れて逃げてきてさ、俺のクラスちょうど外で捕縛の訓練中だったから……」
大成の言葉に蓮は少し先の窓から頭を出した。そこからは蓮の教室からはちょうど見えなかった校門のあたりが見える。
想像していたよりも騒然とした光景がそこにあった。怪我人が見て取れる。ほとんどが制服を着た学生のようだった。
近くの詰め所から、学生以外の異能者たちも集まり、詰め寄る複数の妖相手に前線を校門から遠ざけようと対抗している。
とにかく来て欲しいと大成に手を引かれ、蓮は階段を駆け降り外へ出た。先ほど上から見た通り、校門手前のこの辺りは騒がしく、怪我をした生徒を手当するものや、何やら周囲に指示を出す教師、隊列を組もうと人を集める異能者の声が飛び交っていた。
妖は異能者の血肉を好む。つまり異能者の集まるこの場所は餌の宝庫である。
普段現れる妖の数程度なら、数人の異能者で徒党を組めば人の少ないところに誘い出し対処することは可能だ。しかし、蓮の目に映る範囲だけでも今のこの数は多すぎる。
行き交う人をかき分けると、建物の脇に数名の人だがりがある。その中心に取り囲まれるように腰を下ろしているのが千隼であった。彼は別に責めたてられて囲まれているわけではなく。その周囲にいる誰もが玄田の長男の体調を気遣い、または手当を施している。
「千隼くん! 蓮ちゃん連れてきた!」
大成が声を掛けると、千隼が顔を上げた。
肩のあたりを負傷したのか、この寒い中上半身の衣服を脱いで手当を受けている。取り巻きが冬の風に当たらぬようにと、治療の邪魔にならない範囲に毛布を当てがっていた。
「いったいどうなってるんだ? 旺仁郎はどうしたんだ⁈」
相変わらず白く華奢で少しも宗鷹と似ていない玄田の長男に、蓮は焦り尋ねた。
「旺仁郎? ああ、あの貧相な妖か。あいつなら、上に……神御前に閉じ込めた」
「何?」
千隼の言葉に蓮は一歩地面を踏み締めて、息苦しく脈打つ鼓動を喉の奥で押さえ込んだ。手元に自然と力が入り無意識に握りしめている。
「ちょっとまって千隼くん。この妖、上から流れてきたように見えたぞ?まさか……」
傷の痛みからか少々表情を歪めながらも、大成はその視線を神御前へと持ち上げた。
「ああ、うん。そうそう。ちょっと扉を開けただけなのに、思いのほか外に出ちゃってね。でももう扉は閉じたから、これ以上増えはしないよ」
その話を聞く限り、この状況を招いたのは千隼であるが、彼は微塵も悪びれる様子がない。
「この妖は神御前の中から出てきたって言うのか? あそこは空じゃないのか? 旺仁郎をその中に閉じ込めたって?」
蓮の言葉に、千隼はふっと息を漏らすように笑った。その仕草を見て蓮は苛立ち唾を飲む。
千隼の手当ては終わったようで、取り巻きがその衣服を着せて整えている。
「神がいないのは本当だけど空っぽじゃない。あの妖は全部館の中から出てきた」
千隼が言葉を言い終わらぬうちに蓮は体の向きを変え、門の外へと走り出そうと地面を踏み締めていた。しかし、その蓮の動作に気が付き千隼が腕を掴んだ。
「ダメだ、蓮、ここにいろ。大成と蓮はここにいて俺を守れ」
蓮はその腕を振り解く。
「ふざけるな。俺を自分の弟と同じと思うなよ」
千隼に対して冷ややかな表情で低い声を発した蓮に、周囲は息を飲んだ。
周囲が千隼に抱く印象は、ヒステリックで傲慢だ。蓮のその言葉に怒り狂って暴れ出すのではと誰もが思った。しかし、予想に反して千隼は落ち着いていた。
「まさか、お前まであの気味の悪い妖に惑わされでもしてるのか?」
「は?」
「あの妖。人の弟を誑かして食う気だったんだ。だから閉じ込めた。当然だろ?」
「違う、旺仁郎はそんなんじゃないっ!」
千隼に掴み掛かるほどの勢いで手を伸ばした蓮を周囲の数名が間に入って動きを止めた。
「宗鷹もお前もどうかしてる。まるで俺を悪者のように思っているようだが、ルールを破っているのはお前らだぞ? 俺はこの町のために危険な妖を捕らえて閉じ込めたんだ」
蓮は息を飲んだ。千隼に向かう力を緩めるとそれを察したかのように、動きを制していた取り巻きが蓮からその手を離していく。
千隼の言っていることは間違っていない。千隼のせいで溢れ出た妖たちのことはさて置いて、旺仁郎が妖である以上、その身を捕らえるのはこの町のルールだ。
妖は人ではない。この町はそれらとの共存を望んではいないのだ。
「千隼くん、あの中はどうなってんだ? 旺仁郎は大丈夫なのか⁈」
喉の奥を震わせながら大成が尋ねた。
「俺も入ったことはない。大丈夫かどうかは知らないが、あいつ共食いするんだろ? だったらエサはいくらでもある」
千隼の物言いに、蓮も大成も表情を歪めた。
「まあ、逆にアイツが食われるかもしれないのか。なんかアレみたいだな、なんと言ったか……」
千隼は蓮と大成の不快な様子に気がついているはずだ。しかし、素知らぬ顔で言葉を続け、まるで煽るかのように薄っすらと笑みを浮かべている。
「ああ、思い出した。蠱毒だ」
大成は奥歯を噛み締め拳を握った。傷の痛みさえも忘れ、目の前にいるこの男への強い感情が込み上げる。振り上げようと腕を引いたその時だった。
大成がするよりも早く蓮が地面を踏み締めて、その右の拳を千隼の頬に打ちつけた。
華奢な千隼の体はあっけなく崩れ、地面に手をついている。当然ながら周囲は慌てふためき、千隼に駆け寄り、その具合を確かめている。
「大成、傷ちゃんと手当してもらいな」
蓮は低い声で大成に言うと、門の方へと向きを変えた。
「蓮ちゃん!」
大成の呼ぶ声にも振り返らず蓮はその場を立ち去った。
千隼は蓮に殴られた頬を押さえ、取り巻きに支えられながらその体を起こし、蓮の背中を睨みつけている。
「大成、もう一つの問いはなんだったか」
「えっ?」
唐突な千隼の言葉に大成は眉を上げた。
「あの中が、どうなってるのかと聞いたよな?」
千隼はその細い指先で、丘の上の神御前の館を指差している。
いったいこの奸悪な男は次に何を言うのだろうと、大成の腹の奥は不快感でずしりと重くなった。その大成の表情を、千隼はニタリと見上げ言葉を続けた。
「あの中にもう一つ、八百万町が入ってる」
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