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第20話 高鳴る鼓動

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 昨夜は結局私が起きている間にアレクシス様が戻ってくることはなかった。
 それでも朝だけはやって来る。

「おはようございます奥様、朝ですよ!」
「はい、おはようございます、ライカさん。あ」
「旦那様なら帰っておられますよ」

 私が挨拶の後に続いて言おうとしたことを察したように、彼女は先にそう答えを出した。

「わたくし、まだ何も言っていないのですが」
「お顔に書いてありますよ」
「――え」

 ライカさんがごく自然にぽんぽんと自分の頬を叩くので、釣られるように私も頬に手を当ててしまう。

「冗談です」
「もちろん知っております!」

 当然ながら頬に書いてあるはずがない。

「わたくしが眠っている奥様の頬に書いた犯人です」
「え!?」

 本気で書かれている!?
 再び頬を押さえるとライカさんは笑いを堪えられなかったようで吹き出した。

「――も。もう! もうっ! ライカさんの意地悪!」
「うふふふ。さあ、奥様。文句を言っている間に朝の準備を終えてしまいましょう」
「……分かりました」

 着替えを終えて、いつものようにライカさんに化粧と髪結いをお願いすると、私は食堂へと向かった。

「おはようございます、アレクシス様」

 私はほっと表情を崩すと椅子に座っていた彼に朝の礼を取る。

「おはよう。元気そうだな」
「え?」
「ボルドーに随分としごかれたと聞いたものだから。だが元気そうで良かった」

 アレクシス様の唇が笑むためにわずかに開かれた。
 それが目に入った途端、どくりと大きく鼓動を打つ。
 恐怖で打った鼓動とは明らかな違いを感じる。どうしてだろう。まだ出会って間もないのに。私はただの一時的な身代わりにすぎないのに。

「どうかしたか?」

 瞬く間に笑みは消え、気遣いの瞳に変わる。

「い、いえ。……お、お腹が空きまして」
「そうか。やはり元気らしい。食事にしよう」
「はい」

 引いてもらった椅子に腰をかけた。

「アレクシス様も昨夜は遅いお帰りでしたようで、お疲れ様でございます。お出迎えもせずに失礼いたしました」
「いや。休んでくれている方がいい」

 人に待たれているかもしれないと思うと集中できないのかもしれない。
 私はこれからも遠慮なくお休みさせていただく旨を伝える。

「昨日は何をしていた?」
「パストゥール家の歴史やしきたり、行儀作法などをお教えいただきました。後は結婚祝いのお礼状の返戻です」
「そうか」
「ですが、手紙の書き方一つから侍従長にかなり駄目出しをされてしまいました……」

 肩を落とすとアレクシス様は小さく頷く。

「ボルドーは口うるさく厳しいかもしれないが、一番この家を知る者で、彼の指示は的確だ。大変だろうが頼りにすると喜ぶ単純な所もあるので、うまく付き合ってくれるとありがたい」
「た、単純な所ですか」

 あのボルドーさんに単純な所がある。
 意外な感じだ。

「ああ。ボルドーは本来なら両親が住む屋敷に行ってもらう予定だった。両親もそれを希望していた。しかし彼がここに残ることを望んだ」
「なぜですか」

 小首をかしげて尋ねると、アレクシス様は唇の端を少し上げた。

「彼は侍従長という職に誇りを持ち、生きがいとしているからだ。父が退位した後に、未熟な私を支えると言って残ったんだ。おかげでそれはもう手厳しく小うるさく指導された」
「アレクシス様も!」

 私にだけ特別厳しいわけではなかったのか。確かに言われてみれば、自分にも厳しい人だ。人を見て態度を変えるような方ではない。

「だが君が来てくれたおかげで、その標的が私から君に変わった」
「まあ! それではわたくしは生贄ではありませんか」
「ああ。ありがとう」
「ひどいです!」

 澄まし顔で礼を言うアレクシス様に抗議すると彼は声を上げて笑った。
 本当に普段笑わない人の笑顔はずるすぎる。

「さて。料理も来たことだし、冷めない内に頂こうか」
「はい」

 お料理がテーブルに揃ったところでアレクシス様はそう言って一度話を切ると、食事前の挨拶を述べた。
 簡単な挨拶は私でもすぐに覚え、一人だった昨日も述べた後で食事を頂いた。おそらくこういう事一つ一つを自分のものとしていくことで、パストゥール家の一員となっていくのだろう。

「ところで一つ確認しておきたいのだが」
「はい。何でしょうか」

 美味しいお料理に頬を緩ませながらアレクシス様の言葉に顔を上げる。

「君には婚約者が。……いたのか?」
「え? あ、はい。――っ! い、いえ! いません! いませんでした」

 しまった!
 お料理を堪能する余り、気が緩みすぎていた。また自分のことをうっかり口にしている。

 ブランシェに婚約者はいなかった。なぜなら彼女は魔力が高く、優秀だったから高位貴族が妻にと望む声がいくらでもあると踏んだ父が、早々に決めてしまうことをためらっていたからだ。逆に私には手頃な(と言えばもちろん失礼だが)今の婚約者に嫁がせることにした。

「姉のアンジェリカ嬢には婚約者がいるとのことだったが」

 アレクシス様に初めて呼ばれた自分の名にどきりと固まった。
 どくどくと鼓動が速くなる。

「ブランシェ?」

 声をかけられてはっと我に返った。

「――あ、いえ! あの。本当です。わたくしに婚約者はおりませんでした」

 今の変な態度で疑われている気がして、私は焦りながら早口で言う。

「そうか。分かった」

 頷いているが、本当に分かっているのだろうか。
 表情の変わらぬアレクシス様に小さな不安を覚えた。
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