婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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「……散歩、でございますか?」

私は引きつった笑顔を張り付け、窓枠越しの公爵閣下に向き合った。

逃げ場はない。

前方は完全武装の騎士団。

横には、この国で最も敵に回してはいけない男。

後方は、怯えて縮こまっている御者のトム。

私は必死に脳みそをフル回転させ、現状を打破するための言い訳を検索した。

「ええ、そうですわ、閣下。今日は天気が良いので、少し遠出をして……北の果てにある、風光明媚な農村の空気を吸いたいなと思いまして」

「ほう。北の果てか」

アレクセイ公爵は、面白そうに顎を撫でた。

「散歩にしては、随分と大きな荷物を持っているようだが?」

彼の視線が、私が足元に隠そうとしたボストンバッグに注がれる。

「こ、これは……お弁当です」

「随分と重そうな弁当だな。中身は? 帳簿と専門書か?」

「……ッ!?」

なぜバレている。

私は思わずバッグを抱きしめた。

彼はフッと鼻で笑うと、黒馬から優雅に降り立った。

その動作一つ一つが絵になるが、今は死神が鎌を構えているようにしか見えない。

彼は私の馬車の扉を、許可もなく開け放った。

「降りろ、メリーナ嬢」

「お断りします。私は急いでおりますので」

「拒否権があると思っているのか?」

彼は私の抵抗などそよ風程度にしか感じていない様子で、長い手を差し出した。

「選ばせてやろう。A、私の手を取って、私の馬車に乗り換える。B、このまま騎士団に護送され、罪人として連行される」

「罪人!? 私は何も悪いことはしておりません!」

「そうかな? 王太子の婚約者――元とはいえ――が、王家の許可なく重要書類(請求書)を送りつけ、夜逃げ同然に姿を消す。これは国家反逆の疑いをかけられても文句は言えんぞ」

「そんな暴論が……!」

「私が『そうだ』と言えば、そうなるのがこの国の法だ」

絶対権力者の横暴である。

私は歯噛みした。

この男は、本気だ。

ここで「B」を選べば、本当に手錠をかけられかねない。

「……Aでお願いします」

「賢明な判断だ」

彼は満足げに頷くと、私の手を取ってエスコートした。

その手つきは、まるで壊れ物を扱うように丁寧で、紳士的だ。

言っていることは脅迫なのに、やっていることは王子様。

このギャップが、余計に怖い。

私はトムに「ごめん、帰ってて」と目配せをし、トランクと共にアレクセイ公爵の豪華な馬車へと移送された。



公爵家の馬車の中は、広かった。

ふかふかのビロード張りの座席。

備え付けの保冷庫には冷えた飲み物。

対面には、足を組んで優雅に座るアレクセイ公爵。

馬車が動き出すと、彼は黙って私を観察し始めた。

値踏みするような、それでいて獲物を愛でるような視線。

沈黙が痛い。

私は居心地の悪さに耐えかねて、先に口を開いた。

「……あの、閣下。私をどこへ連れて行くおつもりですか? 牢獄ですか? それとも拷問部屋ですか?」

「なぜそうなる」

「これだけの騎士団を動員して捕獲したのですから、それなりの処分があるのでしょう? 確かに請求書は高額でしたが、あれは正当な……」

「金の話ではない」

彼は私の言葉を遮った。

そして、サイドテーブルから一枚の紙を取り出し、私に突きつけた。

「これを見ろ」

それは、私が今朝送りつけた請求書の、明細ページの一つだった。

赤ペンでいくつかの箇所にチェックが入っている。

「……計算ミスはありませんが?」

「計算は合っている。私が注目したのはここだ」

彼が指差したのは、『公務代行業務詳細』の欄だった。

『○月○日:隣国との通商条約改定案の不備を修正。関税率を2.5%から2.8%へ引き上げ、年間収益を15%向上させる見込み』

「ああ、それですか。殿下が2.5%でサインしようとしていたので、慌てて書き換えたんです。向こうの提示額だと、輸送コストを含めるとこちらの赤字になりますから」

私は淡々と説明した。

「それに、条文の第14条に『不可抗力による遅延の免責』が含まれていなかったので、追記させました。あれがないと、嵐で船が遅れた時に賠償金を請求されます」

「……やはり、お前か」

「はい?」

アレクセイ公爵は、深く座席に背を預け、感嘆のため息をついた。

「あの条約改定、担当官たちが『王太子殿下が突然覚醒された』と騒いでいたのだ。だが、あの愚弟にそんな知恵があるはずがないと思っていた」

彼は青い瞳を細め、私を真っ直ぐに射抜いた。

「メリーナ・アシュフォード。お前はただの飾り物の婚約者ではなかったのだな」

「……飾り物でいられたら、どんなに幸せだったか」

私は遠い目をした。

「私の十年間は、殿下の無能さをカバーし、国の利益を守るための影の労働でした。……褒められたくてやったわけではありません。私がやらなきゃ、国が傾くからです」

「国が傾く、か」

彼は口元に笑みを浮かべた。

「その通りだ。お前がいなくなった今、王城はすでに傾きかけている」

「え?」

「今日の午後、財務省と外務省がパニックになっていた。お前が処理していた案件が全てストップし、誰も続きが分からないからだ」

「……ざまあみろ、ですね」

思わず本音が漏れてしまった。

しまった、と口を押さえるが、公爵は声を上げて笑った。

「くくく……いい性格だ。やはりお前は面白い」

彼は笑い収めると、急に真面目な顔つきに戻り、身を乗り出した。

「メリーナ。単刀直入に言おう」

「は、はい」

「私はお前が欲しい」

ドクン、と心臓が跳ねた。

ロマンチックなセリフだ。

シチュエーションだけ見れば、絶世の美形公爵からの愛の告白である。

だが、私の長年の社畜センサーが、警報を鳴らしていた。

これは「愛」ではない。

これは、「人材」としての需要だ。

「……具体的には、どのような意味での『欲しい』でしょうか?」

私は警戒心全開で尋ねた。

彼はニヤリと笑う。

「察しがいいな。我が公爵家では、現在、慢性的な人手不足に悩まされている。特に、私の補佐を務められるレベルの『頭の回る人間』が不足しているのだ」

「まさか」

「私の秘書官になれ。いや、権限が必要だな。……私の『婚約者』として、公爵家の全権を委任する」

「お断りします!!」

私は即答した。食い気味に。

「なぜだ? 条件は悪くないはずだぞ」

「悪いに決まっています! やっと! やっと王城の激務から解放されたんですよ!? なぜまた、さらに激務と噂される『氷の公爵家』に就職しなければならないのですか!」

私は拳を握りしめて抗議した。

「私の夢はスローライフなんです! 農業なんです! 数字と書類はもう見たくないんです!」

「給与は王太子の三倍出そう」

「……っ!」

心が揺らいだ。

三倍。

それは魅力的だ。

「さらに、年二回の長期休暇。福利厚生完備。おやつは専属パティシエが食べ放題だ」

「ぐぬぬ……」

おやつ食べ放題。

私の弱点を的確に突いてくる。

「だ、騙されませんよ! どうせ『婚約者』という名の奴隷契約でしょう! 私はもう、無償の愛とか献身とか、そういう不確定なものには頼らないと決めたんです!」

私は必死に首を振った。

公爵は、そんな私の抵抗を楽しむように見つめている。

「奴隷契約ではない。対等なパートナーシップだ。それに……」

彼はふいに、窓の外を指差した。

「着いたぞ」

いつの間にか、馬車は王都の中心部にある広大な敷地へと入っていた。

高い塀に囲まれた、要塞のような屋敷。

ヴァン・ルーク公爵邸。

通称「氷の城」。

「ここが、今日からお前の職場兼自宅だ」

「帰りまーす!」

私は扉に手をかけたが、ガチャリと鍵がかかっている音がした。

「逃がさんと言っただろう」

公爵は優雅に立ち上がり、私の手を取った。

「諦めろ、メリーナ。お前の有能さが、お前自身の首を絞めたのだ」

「そんなあぁぁぁ……!」

私の悲痛な叫びと共に、馬車の扉が開かれる。

そこには、整列した使用人たちと、私のトランクを持った執事が待ち構えていた。

「ようこそ、未来の奥様!」

「違います! 私は囚人です!」

私の訂正も虚しく、私はアレクセイ公爵にガッチリと腕を掴まれたまま、屋敷の中へと連行されていった。

北門での捕獲劇からわずか数十分。

私のスローライフ計画は、早くも「公爵邸での強制労働(高待遇)」へと修正を余儀なくされたのである。
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