婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光。

そして、全身を包み込む雲のような布団の感触。

「……んぅ」

私は重い瞼を持ち上げた。

目の前に広がるのは、見知らぬ天井だ。

高い天井には繊細なレリーフが刻まれ、シャンデリアが朝日を受けてキラキラと輝いている。

(ここは……天国?)

私はぼんやりと考えた。

そうか、私は死んだのか。

昨夜、北門で捕まり、悪魔のような公爵に連行され、そのまま深夜まで隣国との通商条約の不備を修正させられ……過労死したんだ。

「可哀想な私……。でも、この布団の寝心地は最高ね……」

あまりの快適さに、二度寝を決め込もうと枕に顔を埋める。

その時だった。

「目覚めたか、私の有能な共犯者よ」

低く、冷ややかだが、どこか艶のある声が部屋に響いた。

ガバッ!!

私は反射的に飛び起きた。

声のした方を見ると、窓際のソファーに、優雅にコーヒーを飲んでいるアレクセイ公爵の姿があった。

朝の光を背負った彼は、無駄に絵になる。

だが、私にとっては死刑宣告人のようなものだ。

「……おはようございます、閣下。なぜ私の寝室に?」

私は布団を盾にして警戒した。

「ここは私の屋敷だ。どこに居ようが私の勝手だろう」

彼は平然と言ってのけた。

「それに、もう朝の八時だ。契約書には『九時始業』とあったはずだが?」

「あと一時間は眠れるという計算ですね。おやすみなさい」

「待て」

私が再び布団に潜り込もうとすると、布団の端を掴まれた。

「朝食を用意させた。お前の好物ばかりだぞ」

「……!」

ピクリ、と私の耳が反応する。

「焼きたてのクロワッサン。厚切りのベーコン。半熟のオムレツにはトリュフソースを添えてある。そしてデザートは、王都で一番人気の『銀の匙』亭から取り寄せた季節のフルーツタルトだ」

「起きます」

私は瞬時に布団を跳ね除けた。

プライド?

そんなものは、トリュフソースの前では無力だ。



案内されたダイニングルームは、舞踏会が開けそうなほど広かった。

長いテーブルの端と端に座るのかと思いきや、なぜか私の席はアレクセイ公爵のすぐ隣に用意されていた。

「遠いと会話が非効率だからな」

公爵はそう言い訳したが、給仕をする使用人たちの視線が痛い。

彼らは「あの氷の閣下が、女性と食事を……?」と驚愕の表情を浮かべつつ、私を「猛獣使い」か何かを見るような目で見ている。

「さあ、食え。脳を働かせるには糖分が必要だ」

公爵は私の皿に、次々と料理を取り分けていく。

「ここのシェフは優秀ですね……」

私はクロワッサンを一口かじり、感動に打ち震えた。

サクッ、という音と共に、芳醇なバターの香りが口いっぱいに広がる。

王城の、冷めてパサパサになったパンとは次元が違う。

「気に入ったか」

「はい。このパンのためなら、多少の残業は許容できるレベルです」

「そうか。ならばもっと食え」

彼は満足げに頷くと、さらにフルーツタルトを私の皿に乗せた。

「餌付け……ですか?」

「燃料補給だ」

彼はコーヒーを飲みながら、サラリと言った。

「今日は忙しくなるぞ。午前中に王城へ登城し、陛下への婚約報告と、お前の辞職願の提出を行う」

「ブフッ!!」

私は優雅な朝食を吹き出しそうになった。

慌ててナプキンで口を押さえる。

「と、登城ですって!? 昨日、あんな大見得を切って出てきたのに!?」

「だからこそだ」

アレクセイ公爵は、意地悪な笑みを浮かべた。

「お前が『逃亡者』として手配される前に、私の『婚約者』として公表し、身分を確定させる必要がある。そうすれば、ジュリアンもリラも手出しはできん」

「それはそうですが……気まずいにも程があります!」

「気まずい? なぜだ?」

彼は心底不思議そうに首を傾げた。

「お前は被害者であり、今は次期王位継承権を持つ筆頭公爵の婚約者だ。胸を張って、あの馬鹿共を見下してやればいい」

「……性格が悪すぎませんか?」

「お前には言われたくないな」

彼はニヤリと笑うと、ナプキンで私の口元のパンくずを拭った。

その自然すぎる動作に、心臓がトクンと跳ねる。

(……な、なによ今の)

ただの雇用関係。

ビジネスパートナー。

そう割り切っているはずなのに、この男は時々、こういう爆弾を投下してくるから油断ならない。

「それに、登城する理由はもう一つある」

「なんですか?」

「お前が送りつけた『請求書』だ。あれを見た財務大臣が、泡を吹いて倒れかけたらしい」

「あら、効果覿面ですね」

「ああ。だが、王家としては『払えない』とは言えない。かといって、全額払えば国庫が傾く。……そこで、私が間に入って『手打ち』にする」

公爵は鋭い眼光を放った。

「慰謝料の減額を認める代わりに、お前の身柄と『アシュフォード公爵家の支持』を、完全に私側につける。王家には、二度とお前に干渉させないという念書も書かせる」

「……なるほど」

私は感心した。

この男、私の請求書を「外交カード」として利用する気だ。

私が高額請求をしたことで王家を追い詰め、その救済措置として自分が助け舟を出すことで、王家に恩を売りつつ、私を合法的に手に入れる。

一石二鳥どころか、三鳥くらいの計算高さだ。

「悪徳商人ですね、閣下は」

「褒め言葉として受け取っておく。……さあ、食べ終わったら着替えろ。最高のドレスを用意させてある」



一時間後。

私は全身鏡の前で、呆然と立ち尽くしていた。

「……あの、マリー? これ、本当に私の服?」

「はい、お嬢様! 閣下が『メリーナ嬢の瞳の色に合うものを』と、夜のうちに仕立て屋を叩き起こして用意されたそうです!」

鏡に映っているのは、深夜の星空のような濃紺のドレスを纏った私だった。

生地には細かなダイヤモンドが散りばめられ、動くたびにキラキラと輝く。

王城で着ていた、地味で真面目くさったドレスとは大違いだ。

「すごく……高そう」

「お値段は聞かない方がよろしいかと。さあ、髪も結い上げますね!」

私の専属メイドだったマリーも、ちゃっかり公爵家に雇われていた。

彼女は水を得た魚のように、テキパキと私を飾り立てていく。

「お嬢様、この口紅もお似合いですよ! ああ、やはりお嬢様は素材が良いのですから、磨けば光るんです!」

「マリー、楽しそうね……」

「ええ! だって、あのアレクセイ公爵様がお嬢様を溺愛されているんですよ!? 玉の輿です! 大勝利です!」

「溺愛じゃないわよ。これは『優良物件(社畜)への投資』よ」

私は訂正したが、マリーは聞いていなかった。

支度が整い、玄関ホールへ降りる。

そこでは、正装したアレクセイ公爵が待っていた。

黒の礼服に身を包んだ彼は、息を呑むほど美しかった。

私が階段を降りていくと、彼はハッと目を見開き、数秒間、言葉を失ったように私を見つめた。

「……どうかしましたか? やはり、似合いませんか?」

私が不安になって尋ねると、彼はふいっと顔を背け、口元を手で覆った。

「……いや。計算違いだ」

「計算違い?」

「想像以上に……その、美しい。これでは、登城した際に見せびらかすつもりが、隠しておきたくなる」

ボソリと呟かれた言葉に、私の顔がカッと熱くなる。

(この人、無自覚タラシなの!?)

顔が良い男が、本音(と思われる言葉)を漏らす破壊力。

私は動揺を隠すために、ツンと澄まして見せた。

「お世辞は結構です。さあ、行きましょう。早く終わらせて、午後は書類整理をしたいので」

「……ふっ、そうだな。仕事熱心な婚約者を持って幸せだ」

彼は私の手を取り、優しくエスコートする。

「行くぞ、メリーナ。王城へ。お前を捨てたことを、骨の髄まで後悔させてやろう」

「ええ。倍返し……いえ、十倍返しです」

私たちは共犯者の笑みを交わし、公爵家の紋章が入った豪華な馬車へと乗り込んだ。

目指すは王城。

かつての職場であり、昨夜、私がガッツポーズを決めて去った場所。

まさか一日足らずで、しかも国一番の権力者を連れて舞い戻ることになるとは。

「(ジュリアン殿下、リラ様。……覚悟はよろしくて?)」

私は揺れる馬車の中で、甘い朝食で満たされたお腹をさすりながら、戦闘態勢を整えた。

契約成立。

もはや後戻りはできない。

ならば、この新しい「就職先」で、最高のパフォーマンスを見せるのみである。
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