婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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公爵邸での生活が始まって、三日が経過した。

結論から言おう。

私のスローライフ計画は、早くも暗礁に乗り上げていた。

理由はシンプルだ。

私が「気になってしまう」からである。

「……あの、そこのあなた」

私は廊下を通りかかったメイドを呼び止めた。

「は、はい! 何でしょうか、メリーナ様!」

メイドが直立不動で敬礼する。

「その洗濯物の運び方だと、シーツが床に擦れそうです。カゴを二つに分けるか、搬送用のワゴンを使いなさい。その方が一度に運べる量も増えます」

「ああっ! 確かに! ありがとうございます!」

「それから、そっちの庭師さん。剪定した枝をそのままにしない。後でまとめてやるより、その都度袋に入れた方が片付け時間が三割短縮できます」

「へいっ! 仰る通りで!」

……これだ。

私の身体に染み付いた「効率化の鬼」としての本能が、屋敷内の非効率を見るたびに疼いてしまうのだ。

見て見ぬふりができない。

なぜなら、彼らが効率よく動いてくれないと、私の快適な昼寝時間や、おやつの時間が脅かされる可能性があるからだ。

結果として、私は今日も執務室の机に向かっていた。

「(どうしてこうなった……)」

目の前には、領地の収支報告書。

本来なら文官がやる仕事だが、計算ミスが多すぎてイライラした私が「貸して! 私がやるわ!」と奪い取ってしまったのだ。

自業自得である。

カリカリカリカリ……。

私が不機嫌オーラを撒き散らしながらペンを走らせていると、視界の端にスッ……と何かが差し出された。

「……?」

手を止めると、そこには湯気の立つカップと、一口サイズのクッキーが乗った小皿があった。

顔を上げる。

そこには、無表情で書類を読んでいるアレクセイ公爵の姿があった。

彼は私の方を見てもいない。

ただ、手だけが私の机に伸びていたのだ。

「……閣下。これは?」

「三時の休憩だ。脳の回転が鈍っている音がした」

「どんな音ですか」

「『糖分をよこせ』という音だ」

彼は視線を書類から外さずに答える。

私はクッキーを一つ摘んだ。

サクッ。

口の中に広がる、芳醇なナッツの香りと上品な甘さ。

「……美味しい」

「だろうな。お前の好みに合わせて、砂糖の量を調整させた」

「いつの間に……」

私が感動してパクパクとクッキーを食べていると、彼は満足げに頷き、ようやくこちらを見た。

「食ったら働け。その計算が終わらないと、明日の視察スケジュールが組めん」

「分かってますよ! もう、人使いが荒いんですから」

私は文句を言いながらも、再びペンを握った。

不思議なことに、甘いものを食べた後は、先ほどまでのイライラが消え、集中力が増している気がする。

そして、三十分後。

「ふぅ、一段落」

私がペンを置いた瞬間。

スッ……。

またしても、絶妙なタイミングで新しい皿が差し出された。

今度は、冷えたフルーツの盛り合わせだ。

「……閣下?」

「ビタミンだ。肌にいい」

「いや、頼んでませんけど」

「私が食わせたいのだ。口を開けろ」

「自分で食べます!」

私はフォークを奪い取り、瑞々しい桃を口に運んだ。

美味しい。

悔しいほど美味しい。

それからというもの。

私の机の上には、常に何らかの「供給物」が置かれるようになった。

私が眉間にシワを寄せると、温かいハーブティーが出てくる。

私が肩を回すと、ふかふかのクッションが背中にねじ込まれる。

足が冷えたな、と思うと、いつの間にか最高級の膝掛けがかけられている。

その全てが、アレクセイ公爵の手によるものだ。

しかも彼は、それを「業務の一環」のような顔で行うのだ。

「……あの、閣下」

私はたまらず声をかけた。

「なんだ」

「私はペットですか?」

「なぜそう思う」

「仕事をするたびに餌が出てくるシステム、完全に芸を仕込まれている犬と同じなのですが」

私が抗議すると、彼はペンを止め、真剣な顔で私を見つめた。

「ペットではない」

「なら、やめてください。太ります」

「お前は痩せすぎだ。もう少し肉がついた方が、抱き心地が……いや、健康に良い」

「今、本音が漏れませんでしたか?」

「気のせいだ」

彼は涼しい顔で受け流すと、立ち上がって私のそばに来た。

そして、私の頭をポンポンと撫でる。

「……っ!?」

不意打ちに、心臓が跳ねる。

冷徹な「氷の公爵」とは思えない、優しく、大きな手だ。

「メリーナ。お前が来てから、私の仕事は劇的に減った」

「それは……閣下が私に仕事を押し付けているからでは?」

「否定はしない。だが、それだけではない」

彼は少しだけ目を細め、机の上に積み上げられた「処理済み」の書類タワーを見上げた。

「お前が隣にいると、なぜか空気が変わる。殺伐とした執務室が、悪くない場所に思えてくるのだ」

「……」

「だから、これは感謝の印だ。……それとも、菓子より宝石の方が良かったか?」

「い、いえ! お菓子の方が百万倍嬉しいです!」

私は即答した。

宝石なんて重いし、換金するのも手間だ。

消え物であるお菓子の方が、今の私には価値がある。

「そうか。安い女だな」

「堅実と言ってください」

「くくっ、違いない」

彼は楽しそうに笑うと、私の皿に最後の一つのクッキーを乗せた。

「さあ、ラストスパートだ。これが終わったら、夕食は特上のステーキだぞ」

「やります!!」

私は即座にペンを握り直した。

チョロい。

自分でも思うが、私は食に釣られすぎている。

でも、仕方がない。

王城での十年間、ろくな食事も摂らずに働き詰めだった反動なのだ。

こうして、私はまんまとアレクセイ公爵の「餌付け作戦」にハマり、公爵邸の業務をバリバリとこなすようになってしまった。

「(まあ、いいわ。定時になったら絶対に帰るし!)」

そう心に誓いながら、私は書類の山を切り崩していく。

だが、この時の私は知らなかった。

私たちがこうして優雅(?)に仕事とおやつを楽しんでいる間、王城では地獄のような光景が繰り広げられていることを。



一方、その頃の王城。

王太子の執務室は、文字通りの「戦場」と化していた。

「な、なんだこれはぁぁぁッ!!」

ジュリアン王太子の絶叫が響き渡る。

彼の目の前には、雪崩のように崩れ落ちた書類の山。

床が見えないほど散乱した紙、紙、紙。

「殿下! 北の国境警備隊から『給与が振り込まれていない』と抗議が来ています!」

「殿下! 南の貿易商から『契約更新の書類はまだか』と催促が!」

「殿下! 明日の式典のスピーチ原稿、まだ白紙ですがどうなさいますか!?」

次々と飛び込んでくる文官たちの悲鳴。

ジュリアンは頭を抱え、髪を掻きむしった。

「知らん! 知らんぞ! いつもなら、このくらいの時期には勝手に終わっていたはずだ!」

「いつもなら、メリーナ様が徹夜で処理しておられましたので……」

側近がボソリと呟く。

「うるさい! あんな可愛げのない女がいなくとも、私とリラならできるはずだ! おい、リラ! お前も手伝え!」

部屋の隅で、リラ男爵令嬢が震えていた。

彼女の手には、簡単な計算ドリルレベルの書類が握られているが、それすらも進んでいない。

「で、できないですぅ……。数字を見ると頭が痛くなって……」

リラは涙目で訴える。

「私、王妃教育なんて受けてませんものぉ……。ただ、可愛いドレスを着て、ジュリアン様の隣でニコニコしていればいいって……」

「ニコニコしているだけで国が回るかッ!!」

ジュリアンが初めて、リラに向かって怒鳴った。

「ひっ……!」

「くそっ、どうなっているんだ! メリーナは一体、毎日どんな魔法を使ってこれを処理していたんだ!?」

魔法ではない。

ただの残業と、根性と、事務処理能力だ。

しかし、温室育ちの彼らにそれが理解できるはずもなかった。

「殿下……申し上げにくいのですが」

財務大臣が、土気色の顔で入室してきた。

「ヴァン・ルーク公爵――アレクセイ閣下より、連絡がありました」

「兄上か!? 助けてくれるのか!?」

「いえ。『我が婚約者メリーナは、本日も私のために素晴らしい働きをしてくれた。おかげで我が領地は安泰だ。そちらも精が出ることだな』……との自慢の手紙が」

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!!」

ジュリアンは手紙をひったくり、ビリビリに破り捨てた。

「あの氷の悪魔め! メリーナを使って私を嘲笑っているんだ!」

「ど、どうしましょう殿下……このままでは、来週の国際会議に間に合いません……」

「……呼び戻すしかない」

ジュリアンはギリリと歯を噛み締めた。

「メリーナを呼び戻すのだ! どうせあの女も、堅苦しい兄上の元で泣いているに違いない! 私が優しく『許してやる』と言えば、尻尾を振って戻ってくるはずだ!」

根拠のない自信。

しかし、溺れる者は藁をも掴む。

彼らはまだ知らなかった。

呼び戻そうとした相手が、今や最強の猛獣(アレクセイ)によって厳重にガードされ、しかも極上のステーキで餌付けされていることを。

「手紙を書くぞ! 最高に甘い言葉を並べてな!」

王太子の的外れな反撃作戦が、今始まろうとしていた。
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