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ヴァン・ルーク公爵邸でメリーナが優雅にクロワッサンを食べていた頃。
王城の空気は、澱みきっていた。
「おい! お茶はまだか! 喉が渇いて死にそうだ!」
ジュリアン王太子の怒声が執務室に響く。
「も、申し訳ございません殿下! 今すぐに!」
侍従が慌ててティーカップを運んでくる。
ジュリアンはそれをひったくるように受け取り、一気に煽った。
「ぶッ!!!」
彼は盛大に茶を吹き出した。
「な、なんだこれは! 渋い! しかも温いぞ! 泥水か!」
「ひぃっ! も、申し訳ございません! いつもの茶葉が在庫切れでして……その、倉庫の鍵の場所が分からず……」
「鍵だ!? 鍵の管理など、侍従長であるお前の仕事だろう!」
「い、いいえ……重要倉庫の鍵は、すべてメリーナ様が管理されておりましたので……」
「……ッ!」
まただ。
また、その名前だ。
ジュリアンはカップをソーサーに叩きつけた。
今朝から、何度この会話を繰り返しただろうか。
『殿下、外交文書の雛形が見当たりません(メリーナ様が管理していました)』
『殿下、今月の予算配分が決まっていません(メリーナ様の承認印がありません)』
『殿下、私の給料が入っていません(メリーナ様の最終決済がまだです)』
王城のすべての機能が、「メリーナ・アシュフォード」というたった一人の少女の不在によって、完全停止していたのだ。
「ええい、知らん! 鍵がないなら壊して開けろ! 文書がないなら新しく作れ!」
ジュリアンが喚き散らしていると、執務室のドアが控えめにノックされた。
入ってきたのは、ピンク色のドレスを身に纏ったリラ・キャンベル男爵令嬢だ。
「ジュリアン様ぁ……」
彼女は涙目で、ハンカチを握りしめている。
「どうした、リラ。お前まで泣きそうな顔をして」
「ひどいんですぅ。厨房の料理長が、私のお願いを聞いてくれないんです」
「料理長が? 貴族への無礼だぞ、処罰してやる」
「そうですよね! 私、お昼は『子羊のロースト・香草風味』がいいって言ったのに、『予算超過です』って断られたんです! メリーナ様の時は、いつも用意されていたのに!」
リラは頬を膨らませて訴える。
「それに、新しいドレスの注文も『ツケ払いはできません』って門前払いされて……。私、次期王妃になるのに、どうしてこんな扱いを受けなきゃいけないんですかぁ?」
ジュリアンは頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
「……リラ。予算管理はどうなっている?」
「よさん?」
リラはきょとんとして首を傾げた。
「予算って、お金がいっぱいある箱のことですよね? そこから出せばいいじゃないですか」
「……その箱の管理を、誰がやっていたと思っている」
「え? 誰かが勝手に補充してくれるんじゃないんですか?」
純粋無垢。
あるいは、無知蒙昧。
ジュリアンは初めて、自分の「真実の愛」の相手が、驚くほど頭の中身が空っぽであるという事実に直面しかけていた。
いや、認めるわけにはいかない。
そんなことを認めてしまえば、メリーナを捨てた自分が馬鹿だったことになってしまう。
「だ、大丈夫だリラ。きっと一時的な混乱だ。……そうだ、メリーナが意地悪をして、わざと分かりにくい場所に隠したに違いない」
「そうですわ! やっぱりメリーナ様って性格が悪いです!」
リラが嬉々として同意する。
そこへ、顔面蒼白の財務大臣が駆け込んできた。
「で、殿下! 大変です!」
「今度はなんだ! 騒々しい!」
「ストライキです!」
「は?」
「王宮の事務官、および下級使用人たちが、『労働環境の悪化』と『指揮系統の崩壊』を理由に、一斉に業務をボイコットしました!」
「な……なにぃぃぃッ!?」
ジュリアンは椅子から転げ落ちそうになった。
「あいつら、王家に逆らう気か!」
「彼らの言い分によりますと、『メリーナ様がいらっしゃった時は、完璧なシフト管理と適正な休憩時間、そしてアメとムチによるモチベーション維持があった。しかし現在は、ただ闇雲に怒鳴られるだけで、やってられない』とのことです!」
「ぐぬぬ……!」
比較されている。
明らかに、自分とメリーナの統率力が比較され、そして自分が「無能」の烙印を押されている。
ジュリアンのプライドはズタズタだった。
「わ、わかった。給料を上げてやる! 金貨一枚上乗せだ!」
「予算がありません! メリーナ様の作成した『緊急時積立金』の口座番号が分からないのです!」
「またメリーナか!!!」
ジュリアンは机の上の書類をぶちまけた。
もう限界だった。
喉は渇いた。腹も減った。部下は動かない。恋人(リラ)は役に立たない。
この地獄から脱出する方法は、一つしかない。
「……手紙だ」
ジュリアンは血走った目で呟いた。
「手紙を書く。メリーナにだ」
「ジュリアン様? まさか、復縁なさるのですか?」
リラが不安そうに腕にしがみつく。
「まさか。あんな可愛げのない女、妻にするつもりはない」
ジュリアンはニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「だが、側室……いや、『実務担当の側仕え』としてなら、城に置いてやってもいい。あいつも公爵家に戻ったとはいえ、婚約破棄された傷物だ。私の慈悲深い提案に、泣いて感謝するはずだ」
彼の脳内変換機能は、今日も正常に(異常に)作動していた。
彼はまだ知らないのだ。
メリーナが今頃、王城の年収の三倍の契約金で雇われ、イケメン公爵にお菓子を「あーん」されているなどとは、夢にも思っていない。
「筆を持て! 今すぐに書くぞ!」
「はい、ジュリアン様! 私も一筆添えますわ! 『反省文を持ってきたら許してあげます』って!」
こうして。
王城の崩壊を食い止めるための起死回生(と彼らが信じている)の手紙が、作成されることになった。
それは、火に油を注ぐどころか、核ミサイルに着火するような行為であることに、二人はまだ気づいていなかった。
◇
一方、その頃のアレクセイ公爵邸。
「……ふっ、くしゅん!」
私は盛大にくしゃみをした。
「どうした、メリーナ。風邪か?」
向かいの席で書類を見ていたアレクセイ公爵が、即座に顔を上げる。
「いえ、誰かが私の噂をしているような……寒気がしました」
「誰かが噂、か」
彼は窓の外、王城のある方角を冷ややかな目で見やった。
「おそらく、王城の馬鹿どもが、今頃お前の幻影に怯えているのだろう」
「幻影?」
「『あれ? トイレットペーパーの補充って誰がやってたんだっけ?』とな」
「……あ、そういえば発注書出すの忘れてました」
私はポンと手を打った。
「王城のトイレットペーパー、明日あたり在庫が切れますね」
「……くくっ」
公爵が肩を震わせて笑う。
「最高だ、メリーナ。それはどんな兵器よりも効果的な復讐だ」
「わざとじゃありませんよ? 純粋なミスです」
「分かっている。だからこそ面白い」
彼は立ち上がり、私の肩にショールをかけてくれた。
「さあ、今日はもう定時だ。寒気がするなら早めに休め。……今夜は温かいシチューを作らせよう」
「わぁ、嬉しい!」
私は王城のトイレットペーパー事情など一瞬で忘れ、今夜のメニューに心を躍らせた。
平和だ。
公爵邸の業務改善は順調に進み、私の周りには穏やかな時間が流れている。
だが、この平和も長くは続かない。
明日、あの「上から目線の手紙」が届くことによって、私の、そして何より「氷の公爵」の怒りのボルテージが、限界突破することになるのだから。
王城の空気は、澱みきっていた。
「おい! お茶はまだか! 喉が渇いて死にそうだ!」
ジュリアン王太子の怒声が執務室に響く。
「も、申し訳ございません殿下! 今すぐに!」
侍従が慌ててティーカップを運んでくる。
ジュリアンはそれをひったくるように受け取り、一気に煽った。
「ぶッ!!!」
彼は盛大に茶を吹き出した。
「な、なんだこれは! 渋い! しかも温いぞ! 泥水か!」
「ひぃっ! も、申し訳ございません! いつもの茶葉が在庫切れでして……その、倉庫の鍵の場所が分からず……」
「鍵だ!? 鍵の管理など、侍従長であるお前の仕事だろう!」
「い、いいえ……重要倉庫の鍵は、すべてメリーナ様が管理されておりましたので……」
「……ッ!」
まただ。
また、その名前だ。
ジュリアンはカップをソーサーに叩きつけた。
今朝から、何度この会話を繰り返しただろうか。
『殿下、外交文書の雛形が見当たりません(メリーナ様が管理していました)』
『殿下、今月の予算配分が決まっていません(メリーナ様の承認印がありません)』
『殿下、私の給料が入っていません(メリーナ様の最終決済がまだです)』
王城のすべての機能が、「メリーナ・アシュフォード」というたった一人の少女の不在によって、完全停止していたのだ。
「ええい、知らん! 鍵がないなら壊して開けろ! 文書がないなら新しく作れ!」
ジュリアンが喚き散らしていると、執務室のドアが控えめにノックされた。
入ってきたのは、ピンク色のドレスを身に纏ったリラ・キャンベル男爵令嬢だ。
「ジュリアン様ぁ……」
彼女は涙目で、ハンカチを握りしめている。
「どうした、リラ。お前まで泣きそうな顔をして」
「ひどいんですぅ。厨房の料理長が、私のお願いを聞いてくれないんです」
「料理長が? 貴族への無礼だぞ、処罰してやる」
「そうですよね! 私、お昼は『子羊のロースト・香草風味』がいいって言ったのに、『予算超過です』って断られたんです! メリーナ様の時は、いつも用意されていたのに!」
リラは頬を膨らませて訴える。
「それに、新しいドレスの注文も『ツケ払いはできません』って門前払いされて……。私、次期王妃になるのに、どうしてこんな扱いを受けなきゃいけないんですかぁ?」
ジュリアンは頭痛をこらえるようにこめかみを押さえた。
「……リラ。予算管理はどうなっている?」
「よさん?」
リラはきょとんとして首を傾げた。
「予算って、お金がいっぱいある箱のことですよね? そこから出せばいいじゃないですか」
「……その箱の管理を、誰がやっていたと思っている」
「え? 誰かが勝手に補充してくれるんじゃないんですか?」
純粋無垢。
あるいは、無知蒙昧。
ジュリアンは初めて、自分の「真実の愛」の相手が、驚くほど頭の中身が空っぽであるという事実に直面しかけていた。
いや、認めるわけにはいかない。
そんなことを認めてしまえば、メリーナを捨てた自分が馬鹿だったことになってしまう。
「だ、大丈夫だリラ。きっと一時的な混乱だ。……そうだ、メリーナが意地悪をして、わざと分かりにくい場所に隠したに違いない」
「そうですわ! やっぱりメリーナ様って性格が悪いです!」
リラが嬉々として同意する。
そこへ、顔面蒼白の財務大臣が駆け込んできた。
「で、殿下! 大変です!」
「今度はなんだ! 騒々しい!」
「ストライキです!」
「は?」
「王宮の事務官、および下級使用人たちが、『労働環境の悪化』と『指揮系統の崩壊』を理由に、一斉に業務をボイコットしました!」
「な……なにぃぃぃッ!?」
ジュリアンは椅子から転げ落ちそうになった。
「あいつら、王家に逆らう気か!」
「彼らの言い分によりますと、『メリーナ様がいらっしゃった時は、完璧なシフト管理と適正な休憩時間、そしてアメとムチによるモチベーション維持があった。しかし現在は、ただ闇雲に怒鳴られるだけで、やってられない』とのことです!」
「ぐぬぬ……!」
比較されている。
明らかに、自分とメリーナの統率力が比較され、そして自分が「無能」の烙印を押されている。
ジュリアンのプライドはズタズタだった。
「わ、わかった。給料を上げてやる! 金貨一枚上乗せだ!」
「予算がありません! メリーナ様の作成した『緊急時積立金』の口座番号が分からないのです!」
「またメリーナか!!!」
ジュリアンは机の上の書類をぶちまけた。
もう限界だった。
喉は渇いた。腹も減った。部下は動かない。恋人(リラ)は役に立たない。
この地獄から脱出する方法は、一つしかない。
「……手紙だ」
ジュリアンは血走った目で呟いた。
「手紙を書く。メリーナにだ」
「ジュリアン様? まさか、復縁なさるのですか?」
リラが不安そうに腕にしがみつく。
「まさか。あんな可愛げのない女、妻にするつもりはない」
ジュリアンはニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「だが、側室……いや、『実務担当の側仕え』としてなら、城に置いてやってもいい。あいつも公爵家に戻ったとはいえ、婚約破棄された傷物だ。私の慈悲深い提案に、泣いて感謝するはずだ」
彼の脳内変換機能は、今日も正常に(異常に)作動していた。
彼はまだ知らないのだ。
メリーナが今頃、王城の年収の三倍の契約金で雇われ、イケメン公爵にお菓子を「あーん」されているなどとは、夢にも思っていない。
「筆を持て! 今すぐに書くぞ!」
「はい、ジュリアン様! 私も一筆添えますわ! 『反省文を持ってきたら許してあげます』って!」
こうして。
王城の崩壊を食い止めるための起死回生(と彼らが信じている)の手紙が、作成されることになった。
それは、火に油を注ぐどころか、核ミサイルに着火するような行為であることに、二人はまだ気づいていなかった。
◇
一方、その頃のアレクセイ公爵邸。
「……ふっ、くしゅん!」
私は盛大にくしゃみをした。
「どうした、メリーナ。風邪か?」
向かいの席で書類を見ていたアレクセイ公爵が、即座に顔を上げる。
「いえ、誰かが私の噂をしているような……寒気がしました」
「誰かが噂、か」
彼は窓の外、王城のある方角を冷ややかな目で見やった。
「おそらく、王城の馬鹿どもが、今頃お前の幻影に怯えているのだろう」
「幻影?」
「『あれ? トイレットペーパーの補充って誰がやってたんだっけ?』とな」
「……あ、そういえば発注書出すの忘れてました」
私はポンと手を打った。
「王城のトイレットペーパー、明日あたり在庫が切れますね」
「……くくっ」
公爵が肩を震わせて笑う。
「最高だ、メリーナ。それはどんな兵器よりも効果的な復讐だ」
「わざとじゃありませんよ? 純粋なミスです」
「分かっている。だからこそ面白い」
彼は立ち上がり、私の肩にショールをかけてくれた。
「さあ、今日はもう定時だ。寒気がするなら早めに休め。……今夜は温かいシチューを作らせよう」
「わぁ、嬉しい!」
私は王城のトイレットペーパー事情など一瞬で忘れ、今夜のメニューに心を躍らせた。
平和だ。
公爵邸の業務改善は順調に進み、私の周りには穏やかな時間が流れている。
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