婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

文字の大きさ
12 / 28

12

しおりを挟む
公爵邸のテラスには、氷河期が訪れていた。

原因は、テーブルの上に置かれた一枚の手紙――ジュリアン王太子からの「復縁要請(という名の命令書)」である。

アレクセイ公爵は、美しい顔に能面のような無表情を貼り付け、静かに言った。

「……メリーナ」

「はい、閣下」

「この手紙を持ってきた急使は、まだそこにいるか?」

視線の先には、直立不動で震えている王城の従僕がいた。

彼は公爵の放つ冷気(殺気)に当てられ、生まれたての子鹿のように膝をガクガクさせている。

「は、はひっ! お、お返事を……殿下が、お返事を待てと……!」

従僕は涙目で訴えた。

彼に罪はない。ただ、上司が愚かだっただけだ。

アレクセイ公爵は、ゆったりとカップを置いた。

その動作だけで、従僕が「ヒィッ」と悲鳴を上げる。

「よかろう。返事を書く前に、この素晴らしい手紙の内容を精査しようではないか」

公爵は手紙を指先で摘み上げた。まるで汚物でも扱うかのように。

「まず、ここだ。『君のような地味な女が、堅物の兄上と暮らすのは辛いだろう』……ほう?」

公爵の声が、絶対零度まで下がる。

「私は堅物か? メリーナ」

「いえ。閣下は『仕事熱心』で『合理的』なだけです。それに、おやつのセンスは王太子の百倍あります」

私が即答すると、公爵の表情がふっと緩んだ。

「そうだな。お前はよく分かっている」

「それに、『地味な女』という表現も失礼です。今日の私は、閣下が選んでくださった最高級のドレスを着ているのに」

私は胸を張って、ダイヤモンドの粉末が織り込まれたドレスを見せつけた。

公爵は満足げに頷く。

「ああ。地味どころか、今の王城の全財産を売っても買えない価値がある。……ジュリアンめ、眼球が腐っているのか?」

公爵の毒舌が止まらない。

彼は再び手紙に目を落とした。

「次だ。『側仕えとして置いてやってもいい』……これが最大の謎だ」

公爵は心底理解できないという顔で、首を傾げた。

「なぜ、次期公爵夫人であり、私のパートナーであるお前が、王太子の愛人の『下働き』にならねばならんのだ? 給料は下がる、地位は落ちる、福利厚生は皆無。……何のメリットがある?」

「殿下の中では、『王太子のそばにいられること』が、この世で最も価値ある報酬なのでしょう」

私は冷静に分析した。

「彼は本気で信じているのです。『メリーナは僕に捨てられて泣いている』『僕が声をかければ、尻尾を振って戻ってくる』と」

「……頭がおめでたいな」

「お花畑ですから」

私たちが淡々と会話していると、従僕が恐る恐る口を挟んだ。

「あ、あのぅ……。殿下は、『メリーナは強がっているだけだ。素直になれば許してやる』と仰ってまして……。その、お菓子を持ってくれば、水に流すと……」

ドゴォン!!

突然、テーブルが揺れた。

アレクセイ公爵が、拳を叩きつけた音だ。

「……水に流す、だと?」

公爵が立ち上がる。

その背後に、どす黒いオーラが立ち上るのが見えた(気がした)。

「どちらがだ。水に流してやるのはこちらの方だぞ。数々の未払い賃金、冤罪による名誉毀損、そして精神的苦痛。……それらを棚に上げて、『許してやる』だと?」

「ひぃぃぃッ!! お、お許しをぉぉ!!」

従僕がその場に土下座する。

「まあまあ、閣下。落ち着いてください」

私は優雅にマスカットをつまみながら、公爵を宥めた。

「怒るだけ無駄です。言葉が通じる相手なら、最初からこんな手紙は書きません」

「……チッ。そうだったな」

公爵は舌打ちをして座り直した。

「だが、腹の虫が治まらん。メリーナ、お前はどう思う?」

彼は真剣な眼差しで私を見た。

「万が一、億が一だが……お前は、戻りたいか?」

「は?」

私は素っ頓狂な声を出した。

「戻る? 私が? 王城へ?」

「ああ。ジュリアンは腐っても王太子だ。将来の王妃(側室だが)という立場に、未練はないか?」

公爵の瞳が、僅かに揺れている。

これは……もしや、嫉妬だろうか?

あるいは、私が「やっぱり殿下が好き!」と言い出す可能性を、0.1%くらい危惧しているのだろうか。

私は呆れて溜息をついた。

そして、ニッコリと、今日一番の輝く笑顔を見せた。

「閣下。私の辞書に『無給労働』という言葉はありません」

「……」

「それに、今の私は『定時退社』と『おやつ食べ放題』の特権を持っています。これを手放してまで、あのブラック職場に戻る理由が、地球上のどこに存在するというのです?」

私の揺るぎない「現金な」答えに、公爵は一瞬呆気にとられ、それから楽しそうに笑い出した。

「くく……ははは! そうか、そうだったな!」

彼は私の手を取り、甲に口づけを落とした。

「愚問だった。お前は愛よりも実利を取る女だったな」

「愛も大事ですよ? ですが、相手によります」

私は公爵の手を握り返した。

「私は、私を正当に評価し、大切にしてくれる(美味しいお菓子をくれる)雇用主様の方が、ずっと好きです」

「……ほう」

公爵の目が、怪しく光る。

「『好き』か。その言葉、契約書に追加しておこう」

「あ、今のなしで。言質を取らないでください」

「もう遅い」

公爵は上機嫌で立ち上がると、震えている従僕を見下ろした。

「聞いたな? 这が彼女の答えだ」

「は、はいっ! 確かに聞きました! 『王太子殿下より、公爵閣下のほうが条件が良い』と!」

「少し違うが、まあいい」

公爵は私に向き直った。

「さて、メリーナ。感動的な返信を書いてやろう。殿下が二度と『復縁』などという寝言を言えないような、強烈な一撃を」

「ええ。任せてください」

私は執事が用意した最高級の便箋ではなく、その辺にあったメモ用紙を取り出した。

「丁寧な手紙を書く時間も、私の時給に含まれますので。こんな無駄な要件には、メモ書きで十分です」

私はペンを取り、サラサラと文字を走らせる。

ジュリアン殿下の「上から目線」を、地面の底から見上げるような「現実」で叩き潰すために。

これから書くのは、たったの三行。

しかし、その三行には、私の十年間の恨みと、現在の充実した生活(マウント)が凝縮されている。

「さあ、書き終わりました」

私がペンを置くと、公爵がそれを覗き込み、そして吹き出した。

「ぶッ……! 容赦ないな、お前」

「事実ですので」

「いいだろう。これをそのまま封筒に入れろ。封蝋は……そうだな、アシュフォード家の紋章ではなく、私の『ヴァン・ルーク家』の紋章を使え」

「よろしいのですか?」

「ああ。これは『私の婚約者に手を出すな』という、私からの意思表示でもある」

公爵は楽しそうに、自らの印章を押した。

「さあ、持っていけ!」

公爵が従僕に手紙(メモ入り)を投げる。

「これをジュリアンに渡せ。『アシュフォード公爵令嬢はすでに私のものだ。不用品回収は受け付けていない』とな」

「は、はいぃぃぃッ!!」

従僕は脱兎のごとく逃げ出した。

テラスに再び静寂が戻る。

しかし、先ほどまでの冷たい空気はない。

あるのは、共犯者たちのあたたかな(そして少し黒い)笑い声だけだった。

「……あー、すっきりした」

私は伸びをした。

「さて、お茶の続きをしましょうか、閣下」

「そうだな。タルトがまだ残っている」

私たちは再び優雅なティータイムに戻った。

一方、その手紙を受け取るであろう王太子たちが、どんな顔をするか。

それを想像するだけで、マスカットの味がさらに甘く感じられるのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。

木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」 結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。 彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。 身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。 こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。 マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。 「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」 一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。 それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。 それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。 夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています

22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」 そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。 理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。 (まあ、そんな気はしてました) 社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。 未練もないし、王宮に居続ける理由もない。 だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。 これからは自由に静かに暮らそう! そう思っていたのに―― 「……なぜ、殿下がここに?」 「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」 婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!? さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。 「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」 「いいや、俺の妻になるべきだろう?」 「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

【完結】好きでもない私とは婚約解消してください

里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。 そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。 婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。

処理中です...