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王城、王太子の執務室。
そこには、奇妙な高揚感が漂っていた。
「そろそろだな、リラ」
ジュリアン王太子は、窓際で腕を組み、ニヤリと笑った。
「はい、ジュリアン様! きっと今頃、メリーナ様は嬉し泣きしながら馬車に乗っているはずですわ!」
リラ男爵令嬢も、新しいドレス(ツケ払いを断られたため、少し古いデザインのもの)を着て、そわそわとしている。
彼らの予想図はこうだ。
メリーナは自分の過ちを悔い改め、感動の涙を流しながら部屋に入ってくる。
そして、『ありがとうございます! また働かせてください!』と足元にすがりつくのだ。
そうすれば、山積みの書類は片付き、美味しい紅茶が出てきて、リラの我儘もすべて叶えられる。
完璧な未来予想図だった。
コンコン。
ドアがノックされる。
「来たか!」
ジュリアンは急いで椅子に座り直し、威厳あるポーズをとった。
「入れ! ……ふん、少しは反省した顔をしているといいがな」
ガチャリ。
扉が開く。
しかし、そこに入ってきたのは、涙目のメリーナでも、菓子折りを持ったメリーナでもなかった。
先ほど使いに出した、一人の従僕だけである。
しかも、その顔色は死人のように青白く、足取りはフラフラとしていた。
「……なんだ? メリーナはどうした?」
ジュリアンが眉をひそめる。
「まさか、嬉しすぎて気絶でもしたか? それとも、身支度に時間がかかっているのか?」
「も、申し訳ございません、殿下……」
従僕は震える手で、銀の盆を差し出した。
そこには、一通の封筒だけが乗っていた。
「メリーナ様は……いらっしゃいません。代わりに、このお手紙を……」
「手紙だと?」
ジュリアンは不満げに鼻を鳴らした。
「ちっ、直接謝罪に来る度胸もないのか。まあいい、まずは文面で許しを乞いたいということだろう」
彼は尊大な態度で封筒を手に取った。
その瞬間。
「……ん?」
彼の目が、封筒の裏面に押された『封蝋』に釘付けになった。
真っ赤な蝋に刻まれているのは、アシュフォード公爵家の紋章ではない。
氷の結晶と、獰猛な獅子を組み合わせた紋章。
この国で、王家の紋章の次に権威があり、そして最も恐れられている印。
『ヴァン・ルーク公爵家』の紋章だった。
「な、なぜ兄上の紋章が……?」
ジュリアンの背筋に、嫌な汗が流れる。
「ま、まさか、兄上が検閲したのか? ……いや、そんなはずはない。兄上は私に甘いはずだ」
彼は震える指で封を開けた。
中に入っていたのは、香水のかかった便箋でも、涙で滲んだ謝罪文でもない。
そこらへんにあったと思われる、安っぽいメモ用紙が一枚。
「……なんだこれは」
ジュリアンは目を疑った。
そこに書かれていたのは、丁寧な挨拶文も、季節の言葉も一切ない。
ただ、事務的かつ破壊的な、たった『三行』の文章だった。
彼はそれを読み上げようとして――喉を詰まらせた。
「じゅ、ジュリアン様? 何が書いてあるんですかぁ?」
待ちきれなくなったリラが、横からメモを覗き込む。
そして、彼女もまた、その内容に絶句した。
そこに書かれていたのは、以下の通りである。
***
1.現状報告:現在、アレクセイ公爵閣下と婚約し、以前の三倍の年俸(+おやつ食べ放題・週休二日)で雇用されています。
2.比較検討:殿下の側仕え(無給・重労働) < 閣下の婚約者(高待遇・定時退社)。よって戻るメリットは皆無です。
3.結論:この手紙は燃えるゴミへ。二度と連絡しないでください(迷惑です)。
***
シーン……。
執務室に、完全なる沈黙が落ちた。
「…………は?」
最初に声を出したのは、リラだった。
「さ、三倍? 週休二日? ……え、どういうことですの?」
彼女の小さな脳みそが、事態を処理しきれずにショートする。
一方、ジュリアンは顔を真っ赤にして、わなわなと震え出した。
「ふ、ふざけるな……ッ!!」
ビリリッ!!
彼はメモ用紙を乱暴に引き裂いた。
「なんだこれは! なんだこのふざけた返事は! 雇用だと!? おやつだと!? 私を愚弄しているのか!!」
彼は怒り狂って叫んだ。
「それに、兄上と婚約!? 嘘だ! あの氷のような兄上が、女に興味を持つはずがない! これはメリーナの妄想だ! 私の気を引くための嘘に決まっている!」
「そ、そうですよね! 嘘ですわ!」
リラも必死に同意する。
「だって、メリーナ様ですよ? あの地味で、可愛げのない眼鏡女が、あの素敵な公爵様に愛されるわけないじゃないですかぁ!」
「そうだ! くそっ、どこまでも生意気な女だ!」
ジュリアンは床に散らばった紙片を踏みつけた。
しかし、その場にいた従僕は知っていた。
彼が見てきた光景――煌びやかなドレスを着て、公爵と優雅にティータイムを楽しんでいたメリーナの姿は、紛れもない現実であることを。
そして、アレクセイ公爵が放った『私の婚約者に手を出すな』という殺気もまた、本物であることを。
「で、殿下……」
従僕は、もはや憐れみすら感じる視線で主人を見た。
「あの……同封されていたものが、もう一つございまして」
「まだあるのか! どうせまたふざけた紙屑だろう!」
「いえ……これは、アレクセイ公爵閣下からの、直接のメッセージかと」
従僕は、封筒の底に入っていた、もう一枚の小さなカードを差し出した。
それは、公爵家の最高級の厚紙で作られたカードだった。
ジュリアンはそれをひったくった。
そこには、流麗な筆記体で、こう書かれていた。
『弟よ。お前が捨てた石ころは、磨けばダイヤモンドだったようだ。返品は受け付けない。せいぜい、お前の選んだピンク色の石ころ(リラ)と仲良く破滅することだ。――兄より』
「あ……あ……」
ジュリアンの手から、カードが滑り落ちる。
これは、決定打だった。
兄であるアレクセイが、正式にメリーナを「自分のもの」だと宣言し、さらにジュリアンとリラを「破滅する」と予言したのだ。
「う、嘘だ……兄上が……私を見捨てるなんて……」
ジュリアンは膝から崩れ落ちた。
今まで、どんな失敗をしても、最終的には兄が尻拭いをしてくれた。
メリーナがなんとかしてくれた。
その二つのセーフティーネットが、同時に消滅し、さらに敵に回ったのだ。
「ど、どうしましょうジュリアン様ぁ……」
リラがオロオロとジュリアンの背中をさする。
「お兄様が助けてくれないなら、誰がこの書類を片付けるんですかぁ? 私、もう嫌ですぅ……」
「う、うるさい!」
ジュリアンはリラの手を振り払った。
「黙れ! ……そうだ、父上だ! 国王陛下に言いつけてやる!」
彼は狂ったように立ち上がった。
「父上に言えば、兄上の暴走を止められるはずだ! 『メリーナを私に返せ』と命令してもらえばいい!」
彼は最後の希望(と信じているもの)にすがりついた。
しかし、彼は知らなかった。
その父上(国王陛下)が、すでにアレクセイ公爵からの「請求書」という名の脅迫を受け、メリーナの婚約を認めてしまっていることを。
「行くぞリラ! 父上の元へ!」
「は、はいっ!」
二人はフラフラと部屋を出て行った。
残されたのは、散らばったメモの破片と、静まり返った執務室。
それを見ていた侍従や文官たちは、互いに顔を見合わせ、そして誰からともなく呟いた。
「……転職先、探した方が良さそうだな」
「ああ。俺、実家の農業継ぐわ」
「私、メリーナ様に手紙書いてみようかな……雇ってもらえないかと思って」
王城のスタッフたちの心は、この瞬間、完全に王太子から離れた。
メリーナのたった三行の返信は、王太子のプライドを粉砕しただけでなく、王城の組織崩壊にとどめを刺す「最後の一撃」となったのである。
そこには、奇妙な高揚感が漂っていた。
「そろそろだな、リラ」
ジュリアン王太子は、窓際で腕を組み、ニヤリと笑った。
「はい、ジュリアン様! きっと今頃、メリーナ様は嬉し泣きしながら馬車に乗っているはずですわ!」
リラ男爵令嬢も、新しいドレス(ツケ払いを断られたため、少し古いデザインのもの)を着て、そわそわとしている。
彼らの予想図はこうだ。
メリーナは自分の過ちを悔い改め、感動の涙を流しながら部屋に入ってくる。
そして、『ありがとうございます! また働かせてください!』と足元にすがりつくのだ。
そうすれば、山積みの書類は片付き、美味しい紅茶が出てきて、リラの我儘もすべて叶えられる。
完璧な未来予想図だった。
コンコン。
ドアがノックされる。
「来たか!」
ジュリアンは急いで椅子に座り直し、威厳あるポーズをとった。
「入れ! ……ふん、少しは反省した顔をしているといいがな」
ガチャリ。
扉が開く。
しかし、そこに入ってきたのは、涙目のメリーナでも、菓子折りを持ったメリーナでもなかった。
先ほど使いに出した、一人の従僕だけである。
しかも、その顔色は死人のように青白く、足取りはフラフラとしていた。
「……なんだ? メリーナはどうした?」
ジュリアンが眉をひそめる。
「まさか、嬉しすぎて気絶でもしたか? それとも、身支度に時間がかかっているのか?」
「も、申し訳ございません、殿下……」
従僕は震える手で、銀の盆を差し出した。
そこには、一通の封筒だけが乗っていた。
「メリーナ様は……いらっしゃいません。代わりに、このお手紙を……」
「手紙だと?」
ジュリアンは不満げに鼻を鳴らした。
「ちっ、直接謝罪に来る度胸もないのか。まあいい、まずは文面で許しを乞いたいということだろう」
彼は尊大な態度で封筒を手に取った。
その瞬間。
「……ん?」
彼の目が、封筒の裏面に押された『封蝋』に釘付けになった。
真っ赤な蝋に刻まれているのは、アシュフォード公爵家の紋章ではない。
氷の結晶と、獰猛な獅子を組み合わせた紋章。
この国で、王家の紋章の次に権威があり、そして最も恐れられている印。
『ヴァン・ルーク公爵家』の紋章だった。
「な、なぜ兄上の紋章が……?」
ジュリアンの背筋に、嫌な汗が流れる。
「ま、まさか、兄上が検閲したのか? ……いや、そんなはずはない。兄上は私に甘いはずだ」
彼は震える指で封を開けた。
中に入っていたのは、香水のかかった便箋でも、涙で滲んだ謝罪文でもない。
そこらへんにあったと思われる、安っぽいメモ用紙が一枚。
「……なんだこれは」
ジュリアンは目を疑った。
そこに書かれていたのは、丁寧な挨拶文も、季節の言葉も一切ない。
ただ、事務的かつ破壊的な、たった『三行』の文章だった。
彼はそれを読み上げようとして――喉を詰まらせた。
「じゅ、ジュリアン様? 何が書いてあるんですかぁ?」
待ちきれなくなったリラが、横からメモを覗き込む。
そして、彼女もまた、その内容に絶句した。
そこに書かれていたのは、以下の通りである。
***
1.現状報告:現在、アレクセイ公爵閣下と婚約し、以前の三倍の年俸(+おやつ食べ放題・週休二日)で雇用されています。
2.比較検討:殿下の側仕え(無給・重労働) < 閣下の婚約者(高待遇・定時退社)。よって戻るメリットは皆無です。
3.結論:この手紙は燃えるゴミへ。二度と連絡しないでください(迷惑です)。
***
シーン……。
執務室に、完全なる沈黙が落ちた。
「…………は?」
最初に声を出したのは、リラだった。
「さ、三倍? 週休二日? ……え、どういうことですの?」
彼女の小さな脳みそが、事態を処理しきれずにショートする。
一方、ジュリアンは顔を真っ赤にして、わなわなと震え出した。
「ふ、ふざけるな……ッ!!」
ビリリッ!!
彼はメモ用紙を乱暴に引き裂いた。
「なんだこれは! なんだこのふざけた返事は! 雇用だと!? おやつだと!? 私を愚弄しているのか!!」
彼は怒り狂って叫んだ。
「それに、兄上と婚約!? 嘘だ! あの氷のような兄上が、女に興味を持つはずがない! これはメリーナの妄想だ! 私の気を引くための嘘に決まっている!」
「そ、そうですよね! 嘘ですわ!」
リラも必死に同意する。
「だって、メリーナ様ですよ? あの地味で、可愛げのない眼鏡女が、あの素敵な公爵様に愛されるわけないじゃないですかぁ!」
「そうだ! くそっ、どこまでも生意気な女だ!」
ジュリアンは床に散らばった紙片を踏みつけた。
しかし、その場にいた従僕は知っていた。
彼が見てきた光景――煌びやかなドレスを着て、公爵と優雅にティータイムを楽しんでいたメリーナの姿は、紛れもない現実であることを。
そして、アレクセイ公爵が放った『私の婚約者に手を出すな』という殺気もまた、本物であることを。
「で、殿下……」
従僕は、もはや憐れみすら感じる視線で主人を見た。
「あの……同封されていたものが、もう一つございまして」
「まだあるのか! どうせまたふざけた紙屑だろう!」
「いえ……これは、アレクセイ公爵閣下からの、直接のメッセージかと」
従僕は、封筒の底に入っていた、もう一枚の小さなカードを差し出した。
それは、公爵家の最高級の厚紙で作られたカードだった。
ジュリアンはそれをひったくった。
そこには、流麗な筆記体で、こう書かれていた。
『弟よ。お前が捨てた石ころは、磨けばダイヤモンドだったようだ。返品は受け付けない。せいぜい、お前の選んだピンク色の石ころ(リラ)と仲良く破滅することだ。――兄より』
「あ……あ……」
ジュリアンの手から、カードが滑り落ちる。
これは、決定打だった。
兄であるアレクセイが、正式にメリーナを「自分のもの」だと宣言し、さらにジュリアンとリラを「破滅する」と予言したのだ。
「う、嘘だ……兄上が……私を見捨てるなんて……」
ジュリアンは膝から崩れ落ちた。
今まで、どんな失敗をしても、最終的には兄が尻拭いをしてくれた。
メリーナがなんとかしてくれた。
その二つのセーフティーネットが、同時に消滅し、さらに敵に回ったのだ。
「ど、どうしましょうジュリアン様ぁ……」
リラがオロオロとジュリアンの背中をさする。
「お兄様が助けてくれないなら、誰がこの書類を片付けるんですかぁ? 私、もう嫌ですぅ……」
「う、うるさい!」
ジュリアンはリラの手を振り払った。
「黙れ! ……そうだ、父上だ! 国王陛下に言いつけてやる!」
彼は狂ったように立ち上がった。
「父上に言えば、兄上の暴走を止められるはずだ! 『メリーナを私に返せ』と命令してもらえばいい!」
彼は最後の希望(と信じているもの)にすがりついた。
しかし、彼は知らなかった。
その父上(国王陛下)が、すでにアレクセイ公爵からの「請求書」という名の脅迫を受け、メリーナの婚約を認めてしまっていることを。
「行くぞリラ! 父上の元へ!」
「は、はいっ!」
二人はフラフラと部屋を出て行った。
残されたのは、散らばったメモの破片と、静まり返った執務室。
それを見ていた侍従や文官たちは、互いに顔を見合わせ、そして誰からともなく呟いた。
「……転職先、探した方が良さそうだな」
「ああ。俺、実家の農業継ぐわ」
「私、メリーナ様に手紙書いてみようかな……雇ってもらえないかと思って」
王城のスタッフたちの心は、この瞬間、完全に王太子から離れた。
メリーナのたった三行の返信は、王太子のプライドを粉砕しただけでなく、王城の組織崩壊にとどめを刺す「最後の一撃」となったのである。
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