14 / 28
14
しおりを挟む
「……ほう。ジュリアンが父上に泣きついたか」
夜の帳が下りた公爵邸の執務室。
アレクセイ公爵は、影の部下から報告を受け、面白くなさそうに目を細めた。
私はその横で、夜食のホットミルク(ハチミツ入り)を飲みながら、他人事のように聞いていた。
「懲りないですね、殿下も。国王陛下は私の請求書を見て気絶したばかりでしょうに」
「喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつだ。あいつは都合の悪い記憶を消去する能力だけは天才的だからな」
公爵は部下を下がらせると、指先で机をトントンと叩いた。
「報告によれば、ジュリアンはこう主張しているらしい。『兄上はメリーナを脅して無理やり婚約させた。これは無効だ。メリーナを解放し、王城へ返還せよ』とな」
「……脅して? 無理やり?」
私は首を傾げた。
「脅されてはいませんね。餌付けはされていますが」
「ああ。双方合意の上での『好条件契約』だ。だが、父上は親バカなところがある。ジュリアンが泣いて暴れれば、一時的に判断を誤る可能性もゼロではない」
「えっ」
私はカップを持つ手を止めた。
「つまり……国王命令で、『メリーナを王城へ返せ』と言われる可能性があると?」
「可能性としてはな」
公爵は淡々と答えた。
だが、私の心臓は嫌な音を立てた。
王城へ返還。
それはつまり、あの地獄の日々への逆戻りを意味する。
「……嫌です」
私はカップを強く握りしめた。
「絶対に嫌です。今の生活には、美味しいお菓子も、ふかふかの布団も、そして……」
私はチラリと公爵を見た。
「……私の仕事を正当に評価してくれる、貴方がいます。今さら『やっぱり無給で働いてね』なんて言われても、到底納得できません」
私の言葉に、公爵の動きが止まった。
彼はゆっくりとこちらを向く。
その瞳は、いつもの冷徹な青色ではなく、どこか熱を帯びた、深い藍色をしていた。
「……私が必要か? メリーナ」
「はい。雇用主として、これ以上の優良物件はありません」
私が即答すると、彼はふっと自嘲気味に笑った。
「雇用主として、か。……まあいい」
彼は立ち上がり、私の座っているソファへと歩み寄ってきた。
そして、私の隣にドサリと腰を下ろす。
近い。
肩が触れ合う距離だ。
「メリーナ。安心しろ。私はお前を返すつもりなど毛頭ない」
「で、ですが、国王命令が出たら……」
「王がなんだ。私が『嫌だ』と言えば、父上も無理強いはできん」
彼は私の手から空になったカップを取り上げ、サイドテーブルに置いた。
そして、空いた私の手を、自分の大きな手で包み込む。
「お前は、私のものだ」
「……え?」
「私の秘書であり、私の共犯者であり、私の婚約者だ。誰にも渡さん。例え国王だろうと、あの愚弟だろうと、指一本触れさせるつもりはない」
その声は低く、そして恐ろしいほどに重かった。
いつもは「有能な部下」に向ける視線とは違う。
もっと粘着質で、逃げ場のない、「所有者」としての眼差し。
ゾクッ、と背筋が震える。
恐怖ではない。
むしろ、守られているという絶対的な安心感と、甘い痺れが混ざったような感覚だ。
「……独占欲が強いですね、閣下」
私が軽口で誤魔化そうとすると、彼は私の手を引き寄せ、指先に口づけを落とした。
「ああ、自覚したよ」
「は?」
「最初は、お前の『能力』が惜しいだけだと思っていた。だが、今は違う」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。
「お前がいない執務室など、退屈で耐えられん。お前が美味しそうに菓子を食う顔を見ないと、調子が狂う」
「それ、ただの餌付け中毒では……」
「黙れ。……とにかく、お前はここにいろ。一生だ」
一生。
その言葉の重みに、私は息を呑んだ。
これは、プロポーズだろうか?
いや、文脈的には「終身雇用契約の提示」だ。
でも、なぜだろう。
胸の奥が温かくなり、顔が熱くなるのを止められない。
「……条件次第です」
私は震える声で、精一杯の強がりを言った。
「一生ここに縛り付けるなら、それ相応の対価を要求します。おやつは一日三回に増量。昼寝の時間も確保してください。それから……」
「それから?」
「……たまには、こうして隣に座って、話を聞いてください」
私が上目遣いで言うと、公爵は一瞬目を見開き、そして破顔した。
それは、今まで見たどの笑顔よりも優しく、魅力的なものだった。
「安い御用だ。……契約成立だな」
彼は私の肩を抱き寄せた。
温かい。
王城で孤独に戦っていた時には感じられなかった、絶対的な味方の体温。
「明後日、王家主催のパーティがある」
抱き寄せられたまま、彼が耳元で囁く。
「えっ、パーティ? 私、出席しなきゃダメですか?」
「ああ。そこでジュリアンとリラ、そして父上がお前を待ち構えているだろう」
「うわぁ……行きたくない……」
「安心しろ。私がついている」
彼の腕に力がこもる。
「その場で、全貴族に見せつけてやるのだ。お前が誰のものか、骨の髄まで理解させてやる」
「……見せつけるって、何を?」
「楽しみにしておけ」
彼は悪戯っぽく笑うと、私の額にキスをした。
「さあ、もう遅い。寝室へ送ろう。明日はパーティの準備で忙しくなるぞ」
「ええー……またドレス選びですか?」
「今度はもっと派手にする。ジュリアンが直視できないほど眩しい女にしてやるからな」
私たちは身を寄せ合いながら、部屋を出た。
彼の独占欲は、正直少し重い。
でも、その重さが、今の私には心地よかった。
(一生、か……)
悪くないかもしれない。
カブ畑は作れそうにないけれど、この人と一緒なら、退屈だけはしなさそうだ。
そんなことを考えながら、私は彼のエスコートに身を委ねた。
しかし、明後日のパーティが、単なる「お披露目」ではなく、国中を巻き込んだ「大ざまぁ大会」の開幕戦になるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。
夜の帳が下りた公爵邸の執務室。
アレクセイ公爵は、影の部下から報告を受け、面白くなさそうに目を細めた。
私はその横で、夜食のホットミルク(ハチミツ入り)を飲みながら、他人事のように聞いていた。
「懲りないですね、殿下も。国王陛下は私の請求書を見て気絶したばかりでしょうに」
「喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつだ。あいつは都合の悪い記憶を消去する能力だけは天才的だからな」
公爵は部下を下がらせると、指先で机をトントンと叩いた。
「報告によれば、ジュリアンはこう主張しているらしい。『兄上はメリーナを脅して無理やり婚約させた。これは無効だ。メリーナを解放し、王城へ返還せよ』とな」
「……脅して? 無理やり?」
私は首を傾げた。
「脅されてはいませんね。餌付けはされていますが」
「ああ。双方合意の上での『好条件契約』だ。だが、父上は親バカなところがある。ジュリアンが泣いて暴れれば、一時的に判断を誤る可能性もゼロではない」
「えっ」
私はカップを持つ手を止めた。
「つまり……国王命令で、『メリーナを王城へ返せ』と言われる可能性があると?」
「可能性としてはな」
公爵は淡々と答えた。
だが、私の心臓は嫌な音を立てた。
王城へ返還。
それはつまり、あの地獄の日々への逆戻りを意味する。
「……嫌です」
私はカップを強く握りしめた。
「絶対に嫌です。今の生活には、美味しいお菓子も、ふかふかの布団も、そして……」
私はチラリと公爵を見た。
「……私の仕事を正当に評価してくれる、貴方がいます。今さら『やっぱり無給で働いてね』なんて言われても、到底納得できません」
私の言葉に、公爵の動きが止まった。
彼はゆっくりとこちらを向く。
その瞳は、いつもの冷徹な青色ではなく、どこか熱を帯びた、深い藍色をしていた。
「……私が必要か? メリーナ」
「はい。雇用主として、これ以上の優良物件はありません」
私が即答すると、彼はふっと自嘲気味に笑った。
「雇用主として、か。……まあいい」
彼は立ち上がり、私の座っているソファへと歩み寄ってきた。
そして、私の隣にドサリと腰を下ろす。
近い。
肩が触れ合う距離だ。
「メリーナ。安心しろ。私はお前を返すつもりなど毛頭ない」
「で、ですが、国王命令が出たら……」
「王がなんだ。私が『嫌だ』と言えば、父上も無理強いはできん」
彼は私の手から空になったカップを取り上げ、サイドテーブルに置いた。
そして、空いた私の手を、自分の大きな手で包み込む。
「お前は、私のものだ」
「……え?」
「私の秘書であり、私の共犯者であり、私の婚約者だ。誰にも渡さん。例え国王だろうと、あの愚弟だろうと、指一本触れさせるつもりはない」
その声は低く、そして恐ろしいほどに重かった。
いつもは「有能な部下」に向ける視線とは違う。
もっと粘着質で、逃げ場のない、「所有者」としての眼差し。
ゾクッ、と背筋が震える。
恐怖ではない。
むしろ、守られているという絶対的な安心感と、甘い痺れが混ざったような感覚だ。
「……独占欲が強いですね、閣下」
私が軽口で誤魔化そうとすると、彼は私の手を引き寄せ、指先に口づけを落とした。
「ああ、自覚したよ」
「は?」
「最初は、お前の『能力』が惜しいだけだと思っていた。だが、今は違う」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。
「お前がいない執務室など、退屈で耐えられん。お前が美味しそうに菓子を食う顔を見ないと、調子が狂う」
「それ、ただの餌付け中毒では……」
「黙れ。……とにかく、お前はここにいろ。一生だ」
一生。
その言葉の重みに、私は息を呑んだ。
これは、プロポーズだろうか?
いや、文脈的には「終身雇用契約の提示」だ。
でも、なぜだろう。
胸の奥が温かくなり、顔が熱くなるのを止められない。
「……条件次第です」
私は震える声で、精一杯の強がりを言った。
「一生ここに縛り付けるなら、それ相応の対価を要求します。おやつは一日三回に増量。昼寝の時間も確保してください。それから……」
「それから?」
「……たまには、こうして隣に座って、話を聞いてください」
私が上目遣いで言うと、公爵は一瞬目を見開き、そして破顔した。
それは、今まで見たどの笑顔よりも優しく、魅力的なものだった。
「安い御用だ。……契約成立だな」
彼は私の肩を抱き寄せた。
温かい。
王城で孤独に戦っていた時には感じられなかった、絶対的な味方の体温。
「明後日、王家主催のパーティがある」
抱き寄せられたまま、彼が耳元で囁く。
「えっ、パーティ? 私、出席しなきゃダメですか?」
「ああ。そこでジュリアンとリラ、そして父上がお前を待ち構えているだろう」
「うわぁ……行きたくない……」
「安心しろ。私がついている」
彼の腕に力がこもる。
「その場で、全貴族に見せつけてやるのだ。お前が誰のものか、骨の髄まで理解させてやる」
「……見せつけるって、何を?」
「楽しみにしておけ」
彼は悪戯っぽく笑うと、私の額にキスをした。
「さあ、もう遅い。寝室へ送ろう。明日はパーティの準備で忙しくなるぞ」
「ええー……またドレス選びですか?」
「今度はもっと派手にする。ジュリアンが直視できないほど眩しい女にしてやるからな」
私たちは身を寄せ合いながら、部屋を出た。
彼の独占欲は、正直少し重い。
でも、その重さが、今の私には心地よかった。
(一生、か……)
悪くないかもしれない。
カブ畑は作れそうにないけれど、この人と一緒なら、退屈だけはしなさそうだ。
そんなことを考えながら、私は彼のエスコートに身を委ねた。
しかし、明後日のパーティが、単なる「お披露目」ではなく、国中を巻き込んだ「大ざまぁ大会」の開幕戦になるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。
0
あなたにおすすめの小説
一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。
木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」
結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。
彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。
身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。
こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。
マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。
「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」
一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。
それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。
それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。
夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
【完結】殿下、自由にさせていただきます。
なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」
その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。
アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。
髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。
見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。
私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。
初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?
恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。
しかし、正騎士団は女人禁制。
故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。
晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。
身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。
そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。
これは、私の初恋が終わり。
僕として新たな人生を歩みだした話。
【完結】「お前とは結婚できない」と言われたので出奔したら、なぜか追いかけられています
22時完結
恋愛
「すまない、リディア。お前とは結婚できない」
そう告げたのは、長年婚約者だった王太子エドワード殿下。
理由は、「本当に愛する女性ができたから」――つまり、私以外に好きな人ができたということ。
(まあ、そんな気はしてました)
社交界では目立たない私は、王太子にとってただの「義務」でしかなかったのだろう。
未練もないし、王宮に居続ける理由もない。
だから、婚約破棄されたその日に領地に引きこもるため出奔した。
これからは自由に静かに暮らそう!
そう思っていたのに――
「……なぜ、殿下がここに?」
「お前がいなくなって、ようやく気づいた。リディア、お前が必要だ」
婚約破棄を言い渡した本人が、なぜか私を追いかけてきた!?
さらに、冷酷な王国宰相や腹黒な公爵まで現れて、次々に私を手に入れようとしてくる。
「お前は王妃になるべき女性だ。逃がすわけがない」
「いいや、俺の妻になるべきだろう?」
「……私、ただ田舎で静かに暮らしたいだけなんですけど!!」
記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~
Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。
走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。
【完結】好きでもない私とは婚約解消してください
里音
恋愛
騎士団にいる彼はとても一途で誠実な人物だ。初恋で恋人だった幼なじみが家のために他家へ嫁いで行ってもまだ彼女を思い新たな恋人を作ることをしないと有名だ。私も憧れていた1人だった。
そんな彼との婚約が成立した。それは彼の行動で私が傷を負ったからだ。傷は残らないのに責任感からの婚約ではあるが、彼はプロポーズをしてくれた。その瞬間憧れが好きになっていた。
婚約して6ヶ月、接点のほとんどない2人だが少しずつ距離も縮まり幸せな日々を送っていた。と思っていたのに、彼の元恋人が離婚をして帰ってくる話を聞いて彼が私との婚約を「最悪だ」と後悔しているのを聞いてしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる