婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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「……ほう。ジュリアンが父上に泣きついたか」

夜の帳が下りた公爵邸の執務室。

アレクセイ公爵は、影の部下から報告を受け、面白くなさそうに目を細めた。

私はその横で、夜食のホットミルク(ハチミツ入り)を飲みながら、他人事のように聞いていた。

「懲りないですね、殿下も。国王陛下は私の請求書を見て気絶したばかりでしょうに」

「喉元過ぎれば熱さを忘れる、というやつだ。あいつは都合の悪い記憶を消去する能力だけは天才的だからな」

公爵は部下を下がらせると、指先で机をトントンと叩いた。

「報告によれば、ジュリアンはこう主張しているらしい。『兄上はメリーナを脅して無理やり婚約させた。これは無効だ。メリーナを解放し、王城へ返還せよ』とな」

「……脅して? 無理やり?」

私は首を傾げた。

「脅されてはいませんね。餌付けはされていますが」

「ああ。双方合意の上での『好条件契約』だ。だが、父上は親バカなところがある。ジュリアンが泣いて暴れれば、一時的に判断を誤る可能性もゼロではない」

「えっ」

私はカップを持つ手を止めた。

「つまり……国王命令で、『メリーナを王城へ返せ』と言われる可能性があると?」

「可能性としてはな」

公爵は淡々と答えた。

だが、私の心臓は嫌な音を立てた。

王城へ返還。

それはつまり、あの地獄の日々への逆戻りを意味する。

「……嫌です」

私はカップを強く握りしめた。

「絶対に嫌です。今の生活には、美味しいお菓子も、ふかふかの布団も、そして……」

私はチラリと公爵を見た。

「……私の仕事を正当に評価してくれる、貴方がいます。今さら『やっぱり無給で働いてね』なんて言われても、到底納得できません」

私の言葉に、公爵の動きが止まった。

彼はゆっくりとこちらを向く。

その瞳は、いつもの冷徹な青色ではなく、どこか熱を帯びた、深い藍色をしていた。

「……私が必要か? メリーナ」

「はい。雇用主として、これ以上の優良物件はありません」

私が即答すると、彼はふっと自嘲気味に笑った。

「雇用主として、か。……まあいい」

彼は立ち上がり、私の座っているソファへと歩み寄ってきた。

そして、私の隣にドサリと腰を下ろす。

近い。

肩が触れ合う距離だ。

「メリーナ。安心しろ。私はお前を返すつもりなど毛頭ない」

「で、ですが、国王命令が出たら……」

「王がなんだ。私が『嫌だ』と言えば、父上も無理強いはできん」

彼は私の手から空になったカップを取り上げ、サイドテーブルに置いた。

そして、空いた私の手を、自分の大きな手で包み込む。

「お前は、私のものだ」

「……え?」

「私の秘書であり、私の共犯者であり、私の婚約者だ。誰にも渡さん。例え国王だろうと、あの愚弟だろうと、指一本触れさせるつもりはない」

その声は低く、そして恐ろしいほどに重かった。

いつもは「有能な部下」に向ける視線とは違う。

もっと粘着質で、逃げ場のない、「所有者」としての眼差し。

ゾクッ、と背筋が震える。

恐怖ではない。

むしろ、守られているという絶対的な安心感と、甘い痺れが混ざったような感覚だ。

「……独占欲が強いですね、閣下」

私が軽口で誤魔化そうとすると、彼は私の手を引き寄せ、指先に口づけを落とした。

「ああ、自覚したよ」

「は?」

「最初は、お前の『能力』が惜しいだけだと思っていた。だが、今は違う」

彼は私の目を真っ直ぐに見つめた。

「お前がいない執務室など、退屈で耐えられん。お前が美味しそうに菓子を食う顔を見ないと、調子が狂う」

「それ、ただの餌付け中毒では……」

「黙れ。……とにかく、お前はここにいろ。一生だ」

一生。

その言葉の重みに、私は息を呑んだ。

これは、プロポーズだろうか?

いや、文脈的には「終身雇用契約の提示」だ。

でも、なぜだろう。

胸の奥が温かくなり、顔が熱くなるのを止められない。

「……条件次第です」

私は震える声で、精一杯の強がりを言った。

「一生ここに縛り付けるなら、それ相応の対価を要求します。おやつは一日三回に増量。昼寝の時間も確保してください。それから……」

「それから?」

「……たまには、こうして隣に座って、話を聞いてください」

私が上目遣いで言うと、公爵は一瞬目を見開き、そして破顔した。

それは、今まで見たどの笑顔よりも優しく、魅力的なものだった。

「安い御用だ。……契約成立だな」

彼は私の肩を抱き寄せた。

温かい。

王城で孤独に戦っていた時には感じられなかった、絶対的な味方の体温。

「明後日、王家主催のパーティがある」

抱き寄せられたまま、彼が耳元で囁く。

「えっ、パーティ? 私、出席しなきゃダメですか?」

「ああ。そこでジュリアンとリラ、そして父上がお前を待ち構えているだろう」

「うわぁ……行きたくない……」

「安心しろ。私がついている」

彼の腕に力がこもる。

「その場で、全貴族に見せつけてやるのだ。お前が誰のものか、骨の髄まで理解させてやる」

「……見せつけるって、何を?」

「楽しみにしておけ」

彼は悪戯っぽく笑うと、私の額にキスをした。

「さあ、もう遅い。寝室へ送ろう。明日はパーティの準備で忙しくなるぞ」

「ええー……またドレス選びですか?」

「今度はもっと派手にする。ジュリアンが直視できないほど眩しい女にしてやるからな」

私たちは身を寄せ合いながら、部屋を出た。

彼の独占欲は、正直少し重い。

でも、その重さが、今の私には心地よかった。

(一生、か……)

悪くないかもしれない。

カブ畑は作れそうにないけれど、この人と一緒なら、退屈だけはしなさそうだ。

そんなことを考えながら、私は彼のエスコートに身を委ねた。

しかし、明後日のパーティが、単なる「お披露目」ではなく、国中を巻き込んだ「大ざまぁ大会」の開幕戦になるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。
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