婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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「横領……だと?」

アレクセイ公爵の低い声が、静まり返ったホールに木霊した。

その一言で、会場の温度はさらに五度下がった。

周囲の貴族たちは、関わり合いになるのを恐れて一歩、また一歩と後ずさる。

しかし、当のリラ男爵令嬢は、自分が虎の尾を踏んだことに気づいていない。

彼女は震える指で、私のドレスを指差したまま叫び続けた。

「そ、そうですわ! そんな高そうなドレス、公爵家の予算だけで買えるわけありません! 王家の税金を不正に使ったに決まっています!」

「……」

「だって、私が注文しようとしたドレスは『予算オーバー』で断られたんですもの! 王太子妃になる私でも買えないのに、たかが公爵令嬢が買えるなんておかしいです!」

リラの主張は、あまりにも稚拙で、そして悲しいほどに無知だった。

彼女は知らないのだ。

ヴァン・ルーク公爵家が、数々の鉱山経営と貿易事業で莫大な資産を築いており、その経済力は王家をも凌ぐと言われている事実を。

「……ふっ」

沈黙を破ったのは、アレクセイ公爵の失笑だった。

彼は怒るのを通り越して、憐れむような目でリラを見下ろした。

「おい、ジュリアン。お前の婚約者は、経済の仕組みも理解していないのか?」

「な、なんだと……!」

ジュリアン王太子が顔を赤くして唸る。

公爵は私の肩に回した手に力を込め、悠然と言い放った。

「いいだろう、教えてやる。このドレスに使われている生地は、私が東方との貿易で独占輸入した最高級シルクだ。そして、このダイヤモンドは、我が領地の鉱山で先週採掘されたものだ」

「は……?」

リラがぽかんと口を開ける。

「デザイン料、縫製代、その他諸々を含め、このドレス一着で……そうだな、お前の実家の男爵領の、三年分の税収に相当する」

「さ、三年分!?」

「それを全て、私の『私費』で支払った。領収書を見せてもいいぞ? 税金など一ゴールドたりとも使っていない」

公爵は蔑むように鼻を鳴らした。

「私の婚約者に着せるものだ。王家の予算ごときでは、グレードが低すぎて話にならん」

ぐうの音も出ない完全論破である。

会場からは、「さすが氷の公爵……」「桁が違うわ……」という感嘆の溜息が漏れた。

リラは顔を真っ赤にして俯く。

「うぅ……ずるい……お金持ちなんて……」

「リラを責めるな!」

見かねたジュリアンが、リラを庇うように前に出た。

「兄上は金があるからいいだろう! だが、我々は今、深刻な予算不足に苦しんでいるのだ! それもこれも、メリーナが勝手にいなくなったせいだぞ!」

「……はあ」

私は思わず、大きな溜息をついてしまった。

「殿下。人のせいにしないでください。予算がないのは、殿下が無計画に使い込んだからでしょう?」

私は一歩前に進み出た。

そして、改めて二人を至近距離で観察する。

「それにしても……」

私は二人の周りをゆっくりと一周しながら、まじまじと見つめた。

「随分と、その……『みすぼらしい』お姿になられましたね」

「な、なに!?」

「失礼ですが、事実ですわ」

私は扇子で口元を隠しながら、指摘を開始した。

「まず、殿下。お肌が荒れていますわよ? 目の下のクマも酷い。……もしかして、深夜まで書類仕事に追われて、睡眠不足ですか?」

「うっ……!」

図星らしい。ジュリアンが言葉を詰まらせる。

「それに、その軍服。襟元にシワが寄っていますし、ボタンが一つ掛け違っています。侍従に直してもらわなかったのですか?」

「侍従たちは……ストライキ中だ……」

「あらまあ。それはお気の毒に」

私は次に、リラの方を向いた。

「リラ様も。そのドレス、先日の夜会でも着ていらっしゃいましたよね? 同じドレスを連続で着るなんて、次期王妃候補としてはあり得ないことですが……」

「だ、だって! 新しいのが買えないんですもの!」

「それに髪もパサパサです。専属の侍女に手入れをさせていないのですか?」

「侍女も……逃げちゃって……」

私は同情たっぷりに首を振った。

「可哀想に。お二人とも、まるで『管理者のいない孤児院』のような生活をなさっているのですね」

その言葉は、鋭いナイフのように二人のプライドを抉った。

会場の貴族たちも、改めて二人の惨状に気づき、ひそひそと囁き始める。

「確かに、殿下のやつれ方は異常だわ」
「リラ様のドレス、裾が少し汚れているわよ」
「以前の殿下は、いつも完璧に整っていたのに……」
「やっぱり、全てメリーナ様が管理していたのね」

そう。

これこそが、私が狙っていた「復讐」の一つだ。

私がいた頃、彼らは常に最高の状態で人前に出ていた。

私が予算を管理し、侍従を教育し、健康状態までチェックしていたからだ。

その「土台」を失った今、彼らはただの「生活能力のない子供」に過ぎないことが、誰の目にも明らかになってしまったのである。

「く、くそっ……! 見るな! その目で私を見るな!」

ジュリアンは周囲の視線に耐えきれず、叫んだ。

「メリーナ! 貴様、私がこんなに苦労しているのを見て、心が痛まないのか!?」

「痛みません」

私は即答した。

「なぜなら、今の私はとても幸せだからです」

私はアレクセイ公爵を見上げ、にっこりと微笑んだ。

公爵もまた、甘い瞳で私を見つめ返す。

「見てください、殿下。私の肌艶の良さを。アレクセイ閣下が毎日美味しいお菓子を食べさせてくださり、たっぷりと睡眠時間を確保してくださるおかげで、人生で一番調子が良いのです」

「ぐぬぬ……!」

「私が元気で美しいのは、閣下の愛(と財力)の証明。対して、殿下たちがボロボロなのは……まあ、そういうことです」

愛がないのか、能力がないのか。

どちらにせよ、トップに立つ器ではないと公言しているようなものだ。

「おのれ……! メリーナぁぁッ!!」

ジュリアンが逆上し、私に掴みかかろうと手を伸ばした。

その瞬間。

パシッ!!

乾いた音が響き、ジュリアンの手が空中で止められた。

アレクセイ公爵が、片手で軽々とジュリアンの腕を掴んでいたのだ。

「……触るなと言ったはずだ」

公爵の声は静かだった。

しかし、その瞳には明確な殺意が宿っていた。

「私の大切な婚約者に、その汚れた手で触れるな。……菌が移る」

「き、菌だと!?」

「ああ。その『無能菌』と『貧乏神』がな」

公爵は汚いものを捨てるように、ジュリアンの手を振り払った。

ジュリアンはよろめき、無様に尻餅をつく。

「きゃあッ! ジュリアン様!」

リラが悲鳴を上げて駆け寄る。

床に転がる王太子と、薄汚れたドレスの男爵令嬢。

対して、堂々と見下ろす公爵と、宝石のように輝く私。

その構図は、あまりにも残酷で、そして劇的だった。

「勝負あったな」

アレクセイ公爵は冷ややかに言い放った。

「ジュリアン。お前には王の資格以前に、自分の生活を管理する能力すらない。……恥を知れ」

「う……うぅ……!」

ジュリアンは悔し涙を浮かべながら、私を睨みつけた。

「覚えていろ……! このままでは終わらせん! 父上に言いつけて、貴様らを……!」

まだ言うか。

私は呆れ果てた。

しかし、その時だった。

「静まれぃ!!」

壇上から、威厳ある(震え声の)一喝が飛んだ。

国王陛下だ。

陛下は真っ青な顔で立ち上がり、震える指で私たちを指差した。

「こ、これ以上の騒ぎは許さん! アレクセイ! そしてメリーナ! ……話がある、別室へ来い!」

おっと。

どうやら、最終ボスのお出ましのようだ。

アレクセイ公爵は不敵に笑った。

「望むところだ。父上にも、現実(請求書の続き)を見ていただこうか」

「行きましょう、閣下。デザートの前の一仕事ですね」

私はドレスの裾を翻し、公爵と共に王の元へと向かった。

背後で、床に這いつくばったままの元婚約者たちが、惨めな視線を送っているのを感じながら。

(さあ、次は国王陛下との対決ね。……絶対に定時までに終わらせてやるわ!)
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