婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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ステージを降りた私たちは、再び「モーゼの十戒」のごとく開かれた道を歩いていた。

目指すは、壁際に並べられたビュッフェ台。

私の頭の中は、先ほどのキスの衝撃(と追加報酬の金貨八枚)の計算で忙しかったが、胃袋の方は正直に「お腹が空いた」と訴えていたのだ。

「閣下、あそこのローストビーフを狙いましょう」

「了解した。……だが、その前に片付けねばならないゴミがあるようだな」

アレクセイ公爵が足を止める。

視線の先には、フラフラと立ち上がり、鬼のような形相でこちらを睨むジュリアン王太子の姿があった。

彼は髪を振り乱し、充血した目で叫んだ。

「待てッ!! 待てと言っているんだ、アレクセイ!!」

会場が再び静まり返る。

ジュリアンはズカズカと私たちに歩み寄り、私の手首を掴もうとした――が、公爵の冷たい視線に射抜かれ、寸前で手を引っ込めた。

「……何だ、ジュリアン。まだ何か用か?」

「用か、だと!? 白々しいぞ兄上!」

ジュリアンは唾を飛ばしながら喚き散らした。

「奪ったな!? 貴様、私のメリーナを奪ったな!?」

「奪った?」

公爵は片眉を跳ね上げた。

「人聞きの悪い。私は正当な手続きを経て、彼女と契約――いや、婚約したのだ」

「嘘だ! 騙されんぞ!」

ジュリアンは地団駄を踏んだ。

「お前はずっと前からメリーナを狙っていたんだろう! だから私が婚約破棄をするように仕向け、その隙に彼女を掠め取ったんだ! 卑怯だぞ!」

……すごい。

被害妄想もここまでくると才能だ。

自分が浮気をして、リラに入れ込み、一方的に私を断罪した過去が、彼の脳内では「兄上の陰謀」に書き換えられているらしい。

「殿下」

私はため息交じりに口を挟んだ。

「妄想は寝室だけにしてください。私が婚約破棄されたのは、殿下が『真実の愛』とやらでリラ様を選んだからでしょう?」

「そ、それは……! 一時の気の迷いだ!」

ジュリアンは顔を赤くして叫んだ。

「そうだ、気の迷いだ! リラが可愛いからちょっと遊んだだけだ! 本命はお前だったんだ、メリーナ!」

「ひどいです、ジュリアン様ぁ!」

背後でリラが悲鳴を上げるが、ジュリアンは無視して私に縋り付こうとする。

「なあ、メリーナ。お前だって、本当は私のところに戻りたいんだろう? 兄上のような冷徹な男より、情熱的な私の方がいいはずだ!」

「……」

私は無言で、アレクセイ公爵を見上げた。

公爵は無言で、私を見下ろした。

そして、二人同時に肩をすくめた。

「……だ、そうですけど。閣下」

「判断力だけでなく、聴力も落ちたようだな」

公爵は一歩前に出ると、ジュリアンと私の間に割って入った。

壁のように立ちはだかるその背中は、頼もしいことこの上ない。

「ジュリアン。聞き苦しいぞ」

公爵の声は、氷点下の刃のように鋭かった。

「お前は言ったな。『奪った』と」

「そうだ! 返せ! メリーナは私の所有物だ!」

「勘違いするな」

公爵は吐き捨てるように言った。

「お前は、彼女を『捨てた』のだ」

「っ……!」

「衆人環視の中で、無実の罪を着せ、嘲笑い、ゴミのように捨てた。……違うか?」

「そ、それは……教育的指導というか……」

「お前が捨てたゴミを、私が拾った。ただそれだけのことだ」

公爵は冷徹な瞳でジュリアンを射抜く。

「だが、私が拾い上げ、泥を払い、正当な評価(と十分な栄養)を与えて磨き上げたらどうだ? 彼女は国一番の宝石になった」

公爵は私の肩を抱き寄せ、誇らしげに見せつけた。

「お前は今、その輝きを見て『惜しいことをした』と地団駄を踏んでいるだけだ。……実に浅ましい」

「ぐっ……!」

「一度捨てたものを、価値が出たからといって返せと言う。それは子供の癇癪以下だ。王族として恥ずかしくないのか?」

正論の連打。

ジュリアンは言葉を失い、パクパクと口を開閉させている。

周囲の貴族たちからも、「まったくその通りだ」「見苦しいな……」という嘲笑が漏れ聞こえてくる。

しかし、ジュリアンはまだ諦めなかった。

追い詰められた彼は、最も言ってはいけない「負け惜しみ」を口にしたのだ。

「だ、だから何だ! どうせ中身はあの陰気なメリーナだろう!」

彼は指を突きつけて叫んだ。

「宝石だなんだと言っているが、その女は可愛げのない、仕事中毒の鉄仮面だ! 兄上だって、すぐに飽きるに決まっている!」

「……」

「そんな女、くれてやるよ! どうせベッドの上でも書類の話しかしないような、色気のない女だ!」

会場が凍りついた。

公爵令嬢に対する、最低の侮辱。

私が口を開こうとした、その時だった。

「……訂正しろ」

アレクセイ公爵の声が、地を這うように響いた。

彼は今まで見せたことのない、激しい怒りの表情を浮かべていた。

「今すぐ、その言葉を訂正し、謝罪しろ。ジュリアン」

「は、はん! 図星だから怒ったのか?」

「違う」

公爵は一歩、踏み出した。

その殺気に、ジュリアンが悲鳴を上げて腰を抜かす。

公爵はジュリアンを見下ろし、静かに、しかし熱のこもった声で告げた。

「彼女は、陰気ではない。誰よりも思慮深く、冷静なだけだ」

「……っ」

「彼女は可愛げがないわけではない。美味しいものを食べた時に見せる笑顔は、誰よりも愛らしい」

公爵の言葉に、私の胸がドキンと跳ねる。

「そして、色気がないだと? ……お前は節穴か?」

公爵は私の腰を引き寄せ、挑発するようにニヤリと笑った。

「私の腕の中で、恥じらいながら頬を染める彼女の表情を知らないとは。……お前こそ、婚約者として何も見ていなかった証拠だな」

「な……な、なにぃ……!?」

(ちょ、ちょっと閣下!? 語弊があります! それは演技指導の時の話ですよね!?)

私は心の中でツッコミを入れたが、周囲の貴族たちは「まあ素敵……」「夜の公爵様は情熱的なのね……」と勝手に解釈して顔を赤らめている。

ジュリアンは顔を真っ赤にして、涙目になった。

「う、嘘だ……。僕の知ってるメリーナじゃない……」

「ああ、そうだ。お前の知っているメリーナは、お前に酷使されて疲弊していた姿だ」

公爵はトドメの一撃を放った。

「彼女を『陰気な女』にしたのは、他でもない、お前自身の無能さだ」

「――ッ!!」

ジュリアンは喉の奥から変な音を出して、崩れ落ちた。

完全敗北。

精神的にも、論理的にも、そして男としての器の大きさでも、彼は完膚なきまでに叩きのめされたのだ。

「分かったら失せろ。私の視界に入るな」

公爵は冷たく言い放つと、私の手を取った。

「行くぞ、メリーナ。空気が悪い。あっちで口直しにケーキでも食べよう」

「は、はい。閣下」

私は呆然とするジュリアンを一瞥し、公爵と共にその場を去った。

背後から、リラの「ジュリアン様! しっかりしてください!」という金切り声が聞こえるが、もはや誰も彼らに同情する者はいなかった。

ビュッフェ台に到着した私は、小さく息を吐いた。

「……閣下。言い過ぎでは?」

「事実を言ったまでだ」

彼は皿にローストビーフを取り分けながら、平然と答えた。

「それに、あそこまで言っておけば、二度とお前に『戻ってこい』とは言えまい」

「それはそうですが……あの『腕の中で恥じらう』等の発言は、営業妨害レベルのデマですよ」

「デマではない。事実にする予定だ」

「はい?」

「……なんでもない。さあ、食え」

彼は私の口に、強引に肉を押し込んだ。

もぐもぐ。

美味しい。

肉汁が口いっぱいに広がる。

「(……まあ、いいか)」

私は肉の旨味に負け、思考を放棄した。

ジュリアンは撃退した。

美味しいご飯もある。

これ以上の幸せがあるだろうか。

だが、私たちは忘れていた。

まだ一人、爆発していない爆弾が残っていることを。

ジュリアンが完全に沈黙した今、行き場を失ったリラの感情が、暴走寸前まで膨れ上がっていることを。

次の瞬間。

会場に、硝子が割れるようなリラの絶叫が響き渡ることになる。
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