婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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ヴァン・ルーク公爵邸。

夜会から戻った私は、与えられた最高級の客室(という名の軟禁部屋)で、ベッドの上に正座していた。

「……冷静になろう」

私は自分に言い聞かせた。

数時間前。

私は、アレクセイ殿下(公爵から昇格)の甘い言葉と、国王陛下の「離宮(カブ畑付き)」という餌に釣られ、うっかり「王太子妃」になることを承諾してしまった。

世界中のスイーツ。

定時退社。

週休二日。

その条件は、確かに魅力的だった。

悪魔的と言っていいほどに。

しかし。

夜風に当たり、冷静になった今の私の脳内では、別の計算式が成り立っていた。

『王太子妃の業務量 = 王妃教育 × 10 + 外交 × 5 + 社交界のボス猿対応 × ∞』

「……死ぬわ」

私は顔を覆った。

甘い。

私は甘すぎた。

アレクセイ殿下がいくら「守る」と言っても、彼はこれから王太子として国政を担うのだ。

当然、多忙を極める。

そんな彼を、元・社畜の私が黙って見ていられるだろうか?

『あら、殿下。その書類の処理、効率が悪いですわね。貸してください』

絶対にこう言う。

間違いなく言う。

そして気づけば、私は二人の執務机を並べ、深夜まで残業し、「おやつが美味しいから幸せ!」などと自分を洗脳しながら働くことになるのだ。

「……嫌だ」

私は震えた。

「私はスローライフがしたいの! カブを育てて、日がな一日空を眺めていたいの!」

スイーツは魅力的だが、過労死しては味が分からない。

私はガバッと立ち上がった。

「逃げよう」

決断は早い方がいい。

今ならまだ、正式な婚約書類にサインはしていない(口約束だけだ)。

今夜中に姿を消し、隣国へ亡命し、そこで名前を変えて農家になろう。

「ごめんなさい、アレクセイ様。貴方のことは嫌いじゃないけれど、私は『労働』という概念の方がもっと嫌いなんです」

私は素早くドレスを脱ぎ捨て、クローゼットの奥にあった「庭いじり用の作業着(なぜか用意されていた)」に着替えた。

荷物は最小限。

財布と、身分証と、非常食のクッキー缶。

「よし」

私は窓を開けた。

ここは二階だ。

しかし、以前「業務改善」の一環として、庭師に命じて窓の下にふかふかの腐葉土を積ませておいたのだ。

自分の有能さに感謝しつつ、私は窓枠に足をかけた。

「さようなら、次期王妃の座。さようなら、イケメン公爵様」

私は闇夜に飛び降りた。

ドサッ。

着地成功。

腐葉土の柔らかい感触を確認し、私は庭の植え込みに身を隠した。

周囲を見渡す。

警備兵の巡回ルートは、私が先日見直して効率化したばかりだ。

つまり、今の私は「警備の穴」を誰よりも熟知している。

「(あそこの角を曲がって、東の通用門へ。あそこは夜間、食材搬入のために鍵が開いているはず……)」

私は猫のように音もなく移動した。

月明かりが庭園を照らす。

静かだ。

あまりにも静かすぎる。

「(……おかしい)」

私は違和感を覚えた。

ヴァン・ルーク公爵邸の警備は、鉄壁のはずだ。

いくら私がルートを知っているとはいえ、ここまで誰にも会わないことがあるだろうか?

まるで、私を誘い出しているような……。

「いや、考えすぎね。私の隠密スキルが上がっただけよ」

私は首を振り、東の通用門へと走った。

見えた。

鉄格子の通用門。

予想通り、わずかに開いている。

「(勝った……!)」

私は心の中でガッツポーズをした。

北門での失敗から学び、今回はより慎重に、より迅速に行動した。

これで自由だ。

今度こそ、本当の自由が手に入る。

私は通用門の隙間を抜け、外の街道へと足を踏み出そうとした。

その時。

チャリ……。

足元で、金属音がした。

「え?」

見ると、私の足首に、いつの間にか極細のワイヤーが絡みついていた。

そして、そのワイヤーの先には、可愛らしい鈴がついていた。

チリン、チリン。

鈴の音が、静寂な夜に響き渡る。

「……あ」

私は凍りついた。

これは、獣用の罠?

いや、違う。

これは――。

「やはり、ここを通ったか」

背後から。

闇夜に溶け込むような、低く、楽しげな声が聞こえた。

心臓が止まるかと思った。

恐る恐る振り返る。

そこには、月光を背に浴びて立つ、アレクセイ殿下の姿があった。

彼は夜会服のまま、腕を組み、仁王立ちで私を見下ろしている。

その顔には、「予想通りすぎて笑える」と書いてあった。

「……こんばんは、殿下。奇遇ですね。月が綺麗だったので散歩を……」

「白々しいぞ、メリーナ」

彼は一歩、近づいてきた。

「その格好。その荷物。そして、私の屋敷の警備網をかいくぐる手際の良さ。……完全に『逃亡』の現行犯だ」

「ご、誤解です! これは『夜間警備の実地訓練』です!」

「ほう? 訓練にしては、随分と遠くへ行こうとしていたようだが?」

彼は私の足元のワイヤーを指差した。

「それは私が仕掛けておいた。『メリーナなら、効率を考えてここを通るだろう』と予測してな」

「……読んでいたのですか」

「お前の思考回路など、手に取るように分かる」

彼はニヤリと笑った。

「『王太子妃=激務』の方程式に気づき、青ざめて逃げ出すことまで含めて、全て想定内だ」

「……悪魔ですね」

「よく言われる」

彼は私の目の前まで来ると、逃げられないように両手を門柱についた。

いわゆる「壁ドン」ならぬ「門ドン」である。

「メリーナ。お前は私との契約を破棄するつもりか?」

至近距離で、青い瞳が私を射抜く。

「……契約違反ではありません。まだサインしていませんから」

「口約束も契約だ。それに」

彼の顔が近づく。

「私は言ったはずだ。『一生離さない』と」

「うっ……」

「お前が逃げれば、私は地の果てまでも追いかける。そして、連れ戻すたびに、お前の『足枷』を増やしていくぞ」

「足枷って……何ですか」

「そうだな。とりあえず、おやつのランクを一つ下げる」

「それは困ります!!」

「なら、大人しく戻れ」

彼は私の頬に触れた。

その手は熱く、そして甘い香りがした。

「逃げるな、メリーナ。お前は私と共犯者になる運命なのだ。……諦めて、私の愛(と執務)を受け入れろ」

「……ううぅ」

私は涙目で彼を見上げた。

勝てない。

この男には、どうしても勝てない。

知力、武力、財力、そして私の弱点の把握力。

全てにおいて、彼の方が一枚上手なのだ。

「……分かりました。降参です」

私は両手を上げた。

「ですが、条件があります」

「なんだ?」

「捕まったショックでカロリーを消費しました。……夜食に特製プリンをつけてください」

「くくっ……」

彼は吹き出し、そして優しく私の頭を撫でた。

「いいだろう。ダブルサイズにしてやる」

「……ちょろいのは私ですね」

私はため息をつき、彼の手を取った。

こうして。

私の「二度目の逃亡劇」は、またしても失敗に終わり、より強固な(そして甘い)檻の中へと連れ戻されることになったのである。

そして翌日。

いよいよアレクセイ殿下が本気を出して、私を外堀から埋める「本気のプロポーズ」を開始するのだが――それはまた、別のお話。
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