婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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ヴァン・ルーク公爵邸のプライベート・サロン。

深夜一時。

私の目の前には、約束通り「ダブルサイズ」の特製プリンが鎮座していた。

プルプルと揺れる黄金色の山。

たっぷりのカラメルソースと、ホイップクリームの雪化粧。

本来なら小躍りして飛びつくところだが、今の私は、スプーンを持ったまま硬直していた。

なぜなら。

「……食べないのか?」

対面のソファで、アレクセイ殿下が獲物を観察するライオンのような目で、じっと私を見つめているからだ。

「……視線が強すぎて、喉を通りそうにありません」

「気にせず食え。逃亡未遂の事情聴取は、その後だ」

「うっ……」

事情聴取。

その単語の重さに胃がキリキリする。

しかし、プリンに罪はない。

私は覚悟を決め、スプーンを差し込んだ。

一口食べると、濃厚な卵の風味とバニラの香りが口いっぱいに広がる。

(……美味しい)

悔しいけれど、絶品だ。

王城のパサパサな焼き菓子とは天と地ほどの差がある。

私が無言でプリンを平らげると、殿下は満足げに頷き、そしてスッと表情を引き締めた。

「さて、メリーナ」

彼は立ち上がり、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってきた。

私は反射的にソファの背もたれに体を押し付ける。

「逃げようとした理由は聞いた。『激務が嫌だ』『スローライフがしたい』……だったな?」

「は、はい。その通りです」

「だが、お前は賢い女だ。私が提示した『好条件』と、王城での『激務』を天秤にかけ、どちらが利益になるか計算できたはずだ」

彼は私の目の前で足を止めた。

「それでも逃げた。……なぜだ?」

「それは……」

私は目を逸らした。

確かに、計算上はここに残る方が得だ。

でも、怖かったのだ。

これ以上、彼に依存してしまうことが。

彼なしでは生きていけない体(胃袋含む)にされてしまうことが。

「答えろ」

ドンッ!!

逃げ場のないソファの背もたれに、彼の手がつかれた。

いわゆる「壁ドン」ならぬ「ソファドン」だ。

至近距離。

整いすぎた彼の顔が、私の視界を埋め尽くす。

「……私のことが、嫌いか?」

低く、わずかに震える声。

その問いかけに、私は驚いて顔を上げた。

彼の瞳は、いつもの自信満々な色ではなく、どこか不安げな色を宿していた。

「もし、お前が私個人を『生理的に無理だ』と言うのなら……私も考えを改める。無理強いをして、お前の心を壊したくはない」

「……」

「仕事が嫌なら減らそう。王妃が嫌なら、私が王位を捨てて公爵のままでもいい。……だが、お前が『私のそばにいること』自体が苦痛なら、私は……」

彼が言葉を詰まらせる。

あの「氷の公爵」が、傷つくのを恐れる子供のような顔をしている。

ズキン、と胸が痛んだ。

違う。

そんなわけがない。

私は慌てて首を振った。

「ち、違います! 嫌いじゃありません!」

「……本当か?」

「はい! むしろ……その、顔は国宝級に好みですし、仕事ができるところは尊敬していますし、おやつのセンスも最高ですし……」

「つまり、好きということか?」

「えっ? いや、そこまでは言って……」

「嫌いではない=好き、だ。私の辞書ではそうなっている」

「辞書を改訂してください!」

私が抗議すると、彼はふっと表情を緩め、安堵の溜息をついた。

「よかった。……お前に嫌われていたら、立ち直れないところだった」

彼は私の頬に手を添え、親指で唇の端についたカラメルを拭った。

「嫌いじゃないなら、なぜ逃げる? 私と一緒にいるのは嫌か?」

「……嫌じゃ、ないですけど」

私はモジモジと視線を下げた。

「自信がないんです。私はただの『便利屋』ですから。いつか殿下が、もっと素敵な、お飾りの王妃様を見つけたら、私は用済みになるんじゃないかって……」

そこまで言って、ハッとした。

これではまるで、私が彼に「愛されたい」と言っているみたいではないか。

恥ずかしさで顔から火が出そうになる。

しかし、殿下は私の言葉を聞いて、きょとんとし、それからまた楽しそうに笑い出した。

「くく……ははは! なんだ、そんなことか」

「笑わないでください! 切実な悩みなんです!」

「すまん。だが、あまりにも予想外だった」

彼は私の顎をくい、と持ち上げた。

「メリーナ。お前は自分の価値を分かっていない」

「価値?」

「『便利屋』? とんでもない。お前は私の『心臓』だ」

「……心臓?」

「ああ。お前がいなくなったら、私の生活は回らない。公務も、食事も、精神安定も、全てお前がいなければ機能不全に陥る」

彼は真剣な眼差しで私を見つめた。

「用済みになることなど、未来永劫あり得ない。私はお前なしでは生きていけない体(主に精神面で)にされてしまったのだからな」

「……責任転嫁ですね」

「そうだ。責任を取ってもらおう」

彼は私の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。

「再交渉だ、メリーナ」

「……はい」

「条件1。お前は私のそばから離れない。その代わり、私はお前を世界一甘やかす」

「……世界一、ですか?」

「ああ。仕事は定時まで。それ以外の時間は、全て私がお前を愛でる時間とする」

「それはそれで疲れませんか?」

「慣れろ。条件2。私以外の男に隙を見せない。ジュリアンはもちろん、他の貴族にもだ」

「誰も私なんかに興味ありませんよ」

「ある。私が独占したくなるほどの女だぞ? 自覚を持て」

彼は私の唇に、チュッ、と音を立ててキスをした。

「……っ!?」

「条件3。……毎日、一度は『好き』と言うこと」

「はぁ!?」

私は素っ頓狂な声を上げた。

「そ、それは業務内容に含まれません! オプション料金が発生します!」

「構わん。いくらだ?」

「き、金貨百枚!」

「安いな。前払いしよう」

彼は私の後頭部に手を回し、今度は深く、情熱的な口づけを落とした。

甘い。

プリンの味よりも、もっと甘くて、とろけるような感覚。

思考が溶けていく。

抵抗しようとした手は、いつの間にか彼の背中に回っていた。

長いキスの後、彼は少し荒い息で私の耳元に囁いた。

「……これで、契約成立だな?」

「……詐欺です」

私は赤い顔で呟いた。

「こんなの、断れないじゃないですか……」

「逃がさんと言っただろう。お前はもう、私のものだ」

彼は満足げに私を抱きしめた。

その腕の中は、悔しいけれど、とても温かくて安心できた。

カブ畑でのスローライフも魅力的だった。

でも、この少し強引で、不器用なほど私を求めてくれるこの人と一緒にいるのも、悪くないかもしれない。

「……分かりました。観念します」

私は彼の胸に顔を埋めた。

「その代わり、明日の朝食はパンケーキがいいです。三段重ねの」

「四段にしてやろう」

「……好きです」

「なんだ、聞こえんぞ」

「言いませんよ! 今のはパンケーキへの愛です!」

私たちは笑い合った。

こうして、「逃亡未遂事件」は幕を閉じ、私たちの関係は「雇用主と従業員」から、「共犯者」そして「恋人(仮)」へと、大きくステップアップしたのである。

だが、私たちが甘い夜を過ごしている間。

王城から追放されたジュリアンとリラの方では、甘さのかけらもない「泥沼の現実」が待ち受けていた。
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