婚約破棄されたので全力で『やったー!』と叫んだら、餌付けされています。 

桃瀬ももな

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ガタンッ!!

激しい衝撃と共に、お尻に鋭い痛みが走る。

「いっ……!!」

「きゃあぁッ!!」

狭く、薄汚れた木造の馬車の中。

かつて王太子だった男――ジュリアンと、かつて男爵令嬢だった女――リラは、煎餅布団のように薄い座席の上で跳ね上がった。

「お、おい御者! 運転が乱暴だぞ! 私は誰だと思っている!」

ジュリアンが小窓に向かって怒鳴り散らす。

しかし、返ってきたのは、護送を担当する騎士の冷ややかな声だけだった。

「静かにしろ。お前はもう殿下ではない。ただの開拓民のジュリアンだ」

「ぐぬぬ……! 不敬だぞ! 父上に言いつけてやる!」

「その父上からの命令で、お前たちを北の果てに運んでいるんだがな」

騎士は鼻で笑い、ピシャリと小窓を閉めた。

再び、ガタゴトと車輪が軋む音が響く。

彼らが乗せられているのは、王家の紋章が入った豪華な馬車ではない。

家畜や資材を運ぶための、サスペンションなど存在しないボロ馬車だ。

目的地は、王都から遥か北にある未開拓地。

そこは冬になれば雪に閉ざされ、夏は害虫が飛び交う、過酷な辺境の地である。

「うぅ……気持ち悪い……」

リラが青ざめた顔で口元を押さえる。

彼女の自慢だったピンク色の髪は、数日間の移動で埃にまみれ、艶を失ってボサボサになっていた。

ドレスも、あのパーティの日に着ていたものを着たきりだ。

裾は泥で汚れ、レースは破れ、かつての華やかさは見る影もない。

「ねえ、ジュリアン様ぁ……。まだ着かないのぉ? 私、お風呂に入りたい……。フワフワのベッドで寝たい……」

「僕だってそうしたいさ!」

ジュリアンが苛立ちを隠さずに叫んだ。

「喉が渇いた! 最高級のアールグレイを持ってこい! なんで水筒の温い水しかないんだ!」

「私に言わないでよ! ジュリアン様が何とかしてよ!」

「なんだその口の利き方は! 僕は王太子だぞ!」

「『元』でしょ!? 今はただの無職じゃない!」

車内の空気は最悪だった。

「真実の愛」で結ばれていたはずの二人は今、互いに責任を押し付け合い、罵り合っていた。

金も、地位も、快適な環境もなくなった時、彼らの間に残ったのは「愛」ではなく、「不満」だけだったのだ。



数時間後。

馬車は峠道に差し掛かった。

折悪く、空からは冷たい雨が降り始めていた。

ぬかるんだ道に車輪が取られ、馬車が大きく傾く。

ズズズッ……。

嫌な音と共に、馬車が完全に停止した。

「おい、降りろ」

騎士が扉を開け、無慈悲に告げた。

「車輪が泥にハマった。馬だけじゃ動かん。お前たちも降りて押せ」

「はぁ!? 私が!? こんな泥の中を!?」

リラが金切り声を上げる。

「嫌よ! 私の靴が汚れちゃうじゃない!」

「僕もだ! こんな重労働、王族の手ですることではない!」

二人が拒否すると、騎士は剣の柄に手をかけ、低い声で言った。

「働かざるもの食うべからず。……押さないなら、ここに置いていくぞ。この辺りは夜になると狼が出るがな」

「ヒィッ……!」

狼という単語に怯え、二人はしぶしぶ馬車から降りた。

外は土砂降りだ。

一瞬で全身が濡れそぼり、足元は田んぼのような泥沼になっている。

「つめたっ! 汚いっ!」

リラが悲鳴を上げながら泥に足を踏み入れる。

「くそっ、なんで僕がこんな……!」

ジュリアンも文句を言いながら、馬車の後ろに回った。

「せーの、で押せよ!」

騎士の号令に合わせて、二人は馬車を押した。

「ふんぬっ!」

「重いぃぃぃ!」

しかし、馬車はビクともしない。

それどころか、力を入れた拍子に、リラの足がツルリと滑った。

「あ」

バシャーン!!

盛大な音を立てて、リラが泥水の中に顔からダイブした。

「ぶべっ!!」

「リ、リラ!?」

ジュリアンが驚いて手を離した瞬間、馬車が少しバックし、跳ね上がった泥がジュリアンの顔面を直撃した。

バシャッ!

「ぐわぁッ!! 目が、目がぁぁ!」

二人は泥まみれになり、無様に地面に這いつくばった。

リラがゆっくりと顔を上げる。

その顔は泥パックをしたように真っ黒で、目だけがギョロリと光っていた。

「……あんたのせいよ」

「は、はあ?」

「あんたが! 手を抜くから! 私が転んだんじゃない!」

リラが泥を投げつけた。

「うわっ! 何をするんだ!」

「うるさい! この役立たず! 甲斐性なし! メリーナ様を捨てて私を選んだくせに、ちっとも幸せにしてくれないじゃない!」

リラの中で、何かがプツンと切れた。

彼女は泣き叫びながら、ジュリアンに掴みかかった。

「返してよ! 私のキラキラした青春を返してよ! なんで開拓村なのよ! なんで泥まみれなのよ!」

「痛い! やめろ! 暴力反対!」

ジュリアンも応戦する。

「お前こそ! 『慰めてあげる』とか言っておきながら、ちっとも役に立たないじゃないか! メリーナなら、こんな時もっと効率的に馬車を動かしたはずだ!」

「またメリーナ様! だったらメリーナ様と結婚すればよかったでしょ!」

「そうしたかったさ! でも僕を唆したのはお前だろ! 『私の方が可愛い』って!」

「可愛いでしょ! 泥まみれでも可愛いって言いなさいよ!」

「言えるか! 泥人形にしか見えんわ!」

泥沼の喧嘩。

文字通り、泥の中で取っ組み合いを始めた元王太子と元男爵令嬢。

その姿は、あまりにも滑稽で、そして悲惨だった。

護送の騎士たちは、呆れてため息をついた。

「……おい、見てみろあれ」

「ああ。これがあの『真実の愛』の成れの果てか」

「メリーナ様が逃げて正解だったな」

騎士たちは冷ややかな目で見守る中、二人は体力が尽きるまで罵り合い、泥水を掛け合った。



数日後。

ボロボロになった二人は、ようやく北の開拓村に到着した。

そこは、想像以上に何もない場所だった。

崩れかけた小屋。

痩せた土地。

そして、無愛想な村人たち。

「ここが……僕たちの家……?」

ジュリアンは絶句した。

「無理よ……。こんなところじゃ、お茶会も開けないわ……」

リラがその場に崩れ落ちる。

村長らしき初老の男が近づいてきて、二人に鍬(くわ)と鎌を投げ渡した。

「お前らが新しい流人か。……ここでは身分なんざ関係ねえ。働いた分しか食わせねえからな」

「は、働くって……何を?」

「畑を耕すんだよ。日が昇ったら起きて、日が沈むまで土を掘る。簡単な仕事だろ?」

簡単ではない。

今までペンより重いものを持ったことがない二人にとって、それは地獄の宣告だった。

「嫌だ……僕は王族だぞ……」

「私の爪が割れちゃう……」

二人が拒否しようとした時、村長の後ろから、一人の老婆が現れた。

彼女は二人の顔をじっくりと見て、ニヤリと笑った。

「あらあら、随分と軟弱な手をしてるねぇ。……噂によると、あんたたち、あの『聖女メリーナ様』を追い出した大馬鹿者らしいじゃないか」

「せ、聖女……?」

「ああ。メリーナ様が送ってくれた『農業改革マニュアル』と『品種改良された種』のおかげで、この村は去年、飢饉を乗り越えられたんだよ」

老婆は空を拝んだ。

「あのお方は、我々の命の恩人さ。……それに比べて、あんたたちは何ができるんだい?」

「……っ」

二人は言葉を失った。

ここでも。

こんな辺境の地でも、メリーナの功績が輝いていたのだ。

彼女は王城にいながら、国の隅々まで目を配り、民を救っていた。

その事実を、二人は今さらながら思い知らされた。

「さあ、働け! メリーナ様の恩に報いるために、死ぬ気で働け!」

村長の怒鳴り声が響く。

「ひぃっ! や、やります!」

「ごめんなさいぃぃ!」

ジュリアンとリラは、泣きながら鍬を握った。

泥にまみれ、汗を流し、筋肉痛に悲鳴を上げながら。

かつて彼らが嘲笑っていた「労働」という現実に、一生縛り付けられる日々が始まったのである。

リラは泣きながら土を掘り、思った。

(メリーナ様……貴女、すごかったんですね……)

ジュリアンは腰をさすりながら、空を見上げた。

(兄上……メリーナ……。僕が間違っていた……。でも、もう遅いんだな……)

遠い王都の空の下。

今頃、メリーナは美味しいお菓子を食べているのだろうか。

二人は後悔の涙を流したが、その涙を拭ってくれるハンカチすら、今の彼らは持っていなかった。

「おいリラ! 手を休めるな! 僕の分まで掘れ!」

「自分でやってよ! この役立たず!」

「なんだと!?」

畑の真ん中で、再び始まる喧嘩。

しかし、もう誰も止めない。

彼らの「ざまぁ」な日常は、この先数十年、死ぬまで続くのである。

(完……全敗北)
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