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2月
7*
しおりを挟む翌朝。
玄関のチャイムが鳴って、松井がよろよろとインターフォンを覗くと、そこにはパリッとメイクをした奈々が立っていた。
「…フロア長…え?」
『おはようございまーす、引っ越しのご挨拶です♡』
「え、え?」
松井は昨夜帰ったままの格好で玄関まで出ると、作業着を着た奈々がゴミ袋と台所用洗剤を入れたポリ袋を手にしてニッコリと笑う。
「何軒か見て回ったんだけど、ここが一番希望に沿ってたの。これから荷物入れるから、下の階に響くと思って。内階段だししばらくうるさくするわ。昼には終わると思うから、ごめんだけど我慢してね♡隣も御在宅かしら?行ってくるわ、じゃあね」
「今日だったんだ…はぁ、」
袋を受け取った松井は奈々が隣室へ挨拶する声を扉の内側で聞き、引っ越しトラックから積荷が下されるのをバルコニーの手摺りに肘をついてしばらく眺めた。
「本当に引っ越して来た…」
10世帯以上は入居している横に長い集合住宅、その真上に上司が引っ越してくるとは。
フランクな奈々だからまだマシだが、軽はずみな斡旋などするものではないな、と松井はため息をつく。
昨日の気持ちを引きずった松井は、休日だというのに仕事モードに片足突っ込んでしまったのが癪なのであった。
・
「ありがとうございましたー」
ベッドや机などの大きい物が設置されてからは特に音も気にならず、トラックが帰る時に配送員に飲み物を持たせて手を振る奈々の姿を見届けてからカーテンを閉める。
「片付けるか…」
昨夜は食事もせずに寝てしまった。
シワシワになったワイシャツとスラックスを脱いでシャワーを浴び、だらしなく弛んだ腹を見下ろしてガックリ項垂れる。
「あー…だるい」
週に1回はジムに通っているがそれ以上に摂取カロリーが多いのだろうか、なかなか引き締まらない。
30代になってから簡単に肉が付くようになった。
忙しい日は店内移動だけでも1万歩はカウントするのに、それでも痩せないのは体質なのか贅沢をし過ぎなのか。
風呂から上がってクローゼットを開ければ持っている私服も20代の頃の物がほとんど、段々と年齢と体型に合わなくなってきている。
なんだか何もかも変えてしまいたい、捨ててしまいたい、彼は貰ったものの着ていなかった長袖Tシャツを被り、ジーンズに脚を通した。
『♪~♪~』
「ん、」
リビングに置いていたスマートフォンが鳴り出てみると、
『松井くん、これから仕事かな?ちょっとごめん、助けて欲しいんだけど…』
と奈々の困った声が聞こえてくる。
「今日は休みです、行きますよ」
松井は玄関を出てすぐ隣のドアの前に立ち、チャイムを鳴らした。
「ごめんねェ、上がって上がって」
玄関ドアの先に階段がある内階段2階の部屋、松井は解錠してくれた奈々の後を付いて上がる。
「何があったんですか?」
「いや、ちょっとね…クローゼットの扉の下にゴミか何か落ちて滑らなくなっちゃって…持ち上げて外したら、ドアがハマらなくなっちゃって…力貸して欲しいのよ」
「はァ、」
なんだそれくらい、松井は通された部屋のクローゼットを確認、軽々ではないが持ち上げてかっちりはめてやった。
「これで元通りですよ」
「ありがとう、さすが男の人ね。助かっちゃった…」
「他にも何かしましょうか?」
大物は運び込まれているし段ボールを開封して私物など見るわけにはいかない。
松井は「なら帰ります」を繰り出すために奈々へ尋ねる。
「え、いいの?ここの箱の中、全部本なんだけど、開けて本棚に並べてくれない?」
「あ、はい…」
社交辞令など言うものではない。
しかし松井は暇だったので指示されるままに数箱開けて書籍を整頓した。
「んでその後そっちの箱ね、調理器具だから。ね、お昼一緒しない?だめ?」
「いいですよ、何か…作るか買うかしましょう」
「冷蔵庫はぼちぼち冷え始めるかな、ふふっ…本当助かっちゃうな…」
衣類をざっくりと片付けた奈々は、下着などが入った箱を持って洗面所へ移動する。
「(引き出しが1列多い…シンクも大きいな…)」
部屋数は同じだが少しずつ広い、松井は自分の部屋との違いを数えながら台所も整えた。
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