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第18話 ココアと夜
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窓から夜の闇が忍び込んで来るころ、昼間に燃え上がった怒りも少し落ち着いてクリストフはランプの灯り越しに見える夜空を眺めていた。
あれから、むかむかとした気持ちを忘れるように新しい魔道具の考案に没頭した。ポーションペンは小さな怪我を治りやすくするためのものだから、もっと大きな怪我に効くものを作ろう。汚れた傷口をどこでも清潔にすることができる魔道具はどうか。それとも、痛みを緩和できるような魔道具はどうだろうか。いずれは、母のように失われた体の一部を復活させるとまではいかなくとも、それを補うような魔道具を作りたい。
クリストフには母の治療で忘れられない光景がある。
クリストフの暮らしていた娼館には、世にも恐ろしい娼館から逃げ出して来た娼婦達が何人もいた。彼女達は娼婦としての仕事をする中で、その身体に凄惨な暴力を受けていたのだ。命からがら逃げてきた娼婦の一人は、なんと右腕を失っていた。そんな彼女の患部に母が手をかざすと銀色の光が迸り、やがて彼女の肩から透明な腕が生えてきて、ついにはその形をしっかり取り戻したということがあった。
額に汗を浮かべながら、疲労した自分の体も気にせず懸命に魔法を行使する母の姿。恐怖と絶望から涙すら失ったと思われた女性の目に一筋の雫を見たあの瞬間。きっとクリストフも同じことができるのだろう。だが、同じことができるだけでは駄目だ。母の願いは、力を持つ者が失われても救われる人々が少しでも多くなる世界。クリストフはそれを実現しなければならない。
貴族はいい。お金があるから何とかなるだろう。自分が助けたいのはそんな恵まれた人間などではない。ハーマン子爵家のように困っている家はまた別だが。窓の外の闇がもたらす静寂がクリストフの思考を静かに包む。
ふと、それを破ってドアが小さくノックされた。大方、クリストフの侍女エレナかローゼン公爵だろう。クリストフは昼間のローゼン公爵の顔を思い出した。左眉を上げながら冷たくクリストフを見たあの目。どうしてローゼン公爵に大事な試作品を見せたいなどと考えたのか、今となっては分からなかった。
箱に入れたままの試作品にそっと触れる。これはシモーナ商会のウーゴや、研究所でクリストフに魔法技術学を教えてくれている灰色頭に見せることにしよう。そう決めてクリストフはノックの音を無視した。
しかしまた、ドアが二度三度叩かれる。
「殿下」
ローゼン公爵の声だ。絶対にドアを開けない。クリストフは自分自身に固く誓ってローゼン公爵の呼びかけに応えなかった。
「殿下」
ローゼン公爵はまたクリストフを呼んだ。しつこい男だ。クリストフを利用しようとした輩に応えてやる義理などないのだ。
「殿下、ココアをお持ちしました」
「ココア?」
クリストフは椅子から立ち上がった。思わず返事をしてしまい、はっとして腰を下ろす。このドアは開けない。ローゼン公爵は卑怯だ。これはクリストフを懐柔する手段なのだ。賄賂を受け取らないなどと清廉さを装っているくせにクリストフにココアを持ってくるなんて。もう返事だってしてやるものか。
クリストフが黙ったままでいると何かがドアの外に置かれる音がして、それから静寂が戻ってきた。恐る恐るドアに近寄り、昼間のように耳を当てクリストフは外の様子を窺った。
何も聞こえて来ない。卑怯者は立ち去ったに違いない。クリストフはそっとドアを開けた。廊下は真っ暗だ。その暗闇の間を縫って甘い香りが漂ってくる。開けたドアの隙間から、トレーに乗せられて廊下に置かれたカップが見えた。
ココアだ。
暗闇の中に人の気配はない。昼間の慰謝料だ。ココアぐらいもらってやろう。ローゼン公爵も少しは頭が冷え、クリストフに詫びる気になったのかもしれない。クリストフはにこにことしてカップに手を伸ばした。そして、自分の迂闊さに気がついた。
カップに手が届きそうになった瞬間、暗闇に白い人影が浮かび上がる。クリストフは慌ててドアを閉めようとしたが遅かった。ローゼン公爵は素早くドアを開け、クリストフの部屋に体を滑り込ませた。そして、恐ろしい顔でクリストフを見下ろしてきたのだ。
「婚約者の呼びかけにも応じぬくせに、このような物に釣られるとは」
薄い唇が歪められた。いつものあの顔だ。ローゼン公爵は口端を持ち上げてクリストフを嘲笑った。ココアの乗ったトレーをゆっくりと持ち上げて、カップを手に取り甘い匂いを味わうような仕草を見せる。それはクリストフのココアのはずだ。それなのに、ローゼン公爵は勝手にココアを一口飲んだ。
「ずるいよ!」
クリストフは批難の声を上げた。
「婚約者を騙すなんて卑怯だろ!」
「私がいつ貴方様を騙しましたか?」
「それは俺のココアでしょ!」
「さて? どうでしょう」
ローゼン公爵はもう一口ココアを飲んだ。ほぅと息を吐き、甘さを堪能しているようだった。クリストフは地団駄を踏んだ。
「俺のココアだよ!」
「それではどうぞ」
「いらないよ! あんたが飲んだものなんて!」
「それは残念です」
これみよがしに眉を下げて見せ、ローゼン公爵は立ち去ろうとした。
「ココアは!?」
「いらないと仰ったので片付けます」
「新しくいれてきてよ!」
「ご自分のことは、ご自分でやられるのでは?」
「じゃあココアはどこなんだよ!」
「さぁ?」
いつまで経っても埒が明かない。クリストフは苛立ってローゼン公爵の手からカップを取り上げた。
「おや、私が飲んだものなど飲めないのでは」
「知らない!」
久々に見たそれは、記憶にあるココアの色とは違うように感じた。しかし匂いは確かにココアだ。クリストフが怪しんでその香りを何度も確かめていると呆れ顔のローゼン公爵が教えてくれた。
「毒など入っておりませんよ」
「でも色が」
「何ですか?」
「母さんがいれてくれたのと違うよ」
「それは……取り扱う商会も違いますでしょうし。ミルクも入っておりますので」
そういえば、ミルクは母とクリストフには少し高価なものだった。母はなるべくクリストフに飲ませてやろうとしていたが、少量しか買えないこともあり、そんな時はクリストフが魔法で出した水を混ぜていたものだ。
クリストフはローゼン公爵を睨みつけながら久しぶりの好物を口にした。よく分からないがきっと高級なミルクと混ぜられたのだ。コクのある優しい甘味がじんわりと舌を包み込み、ゆっくりと脳内へ浸透していく。
「お口に合いましたか?」
ローゼン公爵の問いかけにクリストフは渋々頷いた。美味しいものは美味しい。意地を張ったらもう次はないかもしれない。ほんの少し子どもじみた打算が働いた。
「それでは、理由をご説明して頂けますね?」
「理由って?」
「殿下がまるでご成人されているとは思えない態度を取った理由です」
耳に痛いことを言われてクリストフは返す言葉もなくカップの中に視線を落とした。ローゼン公爵はそんなクリストフを静かに待っている。言ってやればいい、勝手なことはするなと。そう思う反面、どうしてあらかじめ言葉にして伝えておかなかったのか、自分の落ち度も目についた。
「……お掛けになっては」
椅子に座るよう促され、言われるままにクリストフは腰を下ろした。ローゼン公爵自身は立ったまま、夜着の上に羽織ったガウンの前を合わせるように腕を組んだ。首元に巻かれている紫紺の布には銀の糸でほどこされた刺繍が見える。細い月明かりにその糸がきらりと光った。廊下から春の夜のぬるい冷気が這ってきて、クリストフの足元に纏わりつく。
「……どうして、俺が魔道具を作ってるってことを、勝手に人に話したりしたの?」
クリストフはぼそぼそと小さな声でローゼン公爵の行動を批難した。ローゼン公爵は左眉を持ち上げた。
「お嫌でしたか」
「うん……」
「何故です。道具は使われなければ意味がない」
「だって俺の魔道具は、困ってる人のために作ってるんだよ。貴族は困っていないでしょ」
「なるほど」
「お金があるもの」
温かいココアの熱が、カップを通してクリストフの手に伝わってきた。ローゼン公爵は黙っていた。クリストフはもう一度甘いココアを口に含み、ローゼン公爵の答えを待った。闇のような瞳がクリストフをじっと見つめている。
「貴方様のお考えは間違っています」
クリストフは顔を上げた。
「困り事のない貴族がいるとすればただの馬鹿だ」
ローゼン公爵はきっぱりと言い切った。
「どうして?」
「貴族のお金はどこから出たお金ですか」
クリストフは答えようとして僅かに口を開いた。それに構わずローゼン公爵は続けた。
「えぇ、そうです。領民が収めた税金です。そしてその税金を使える立場にいるのは何故です? それは我々が、領民の困り事を解決するのが仕事だからだ。貴方様が言う困っている人とやらは何故困っているのか。それは問題を解決するべき人間が動いていないからだ」
クリストフはローゼン公爵の言葉に耳を傾けた。
「先日殿下にお目にかかった淑女の講師フランティエ侯爵夫人の御夫君であるフランティエ侯爵は我が国を守る軍において、兵士達や騎士達の生活を守る部門を統括しております。彼が力を入れて取り組んでいるのは、負傷して職務につけなくなった者達の退役後の生活を守ることです。傷のために新しい職を探すことが難しい者もいる。これは彼の困り事です。そして殿下は、困っている彼を少しでも助けることができます。分かりますね?」
まるで審判の場にでも立つがのごとく、クリストフはその身を動かすことができなくなった。
「本日お会いしたルーマン侯爵夫人は王立学院の平民枠を作るために尽力された御方です。今後はいかに貧しい者でも金銭の心配なく学ぶことができるよう、新たな学校を作ろうと奔走されていらっしゃいます。ブレンドル伯爵夫人は先月自領の孤児院の不正を見つけ、その手法を広く知らしめ、不正に警鐘を鳴らされた御方だ。コルマフ子爵夫人は御夫君と共に薬草の研究をされていらっしゃいます。亡くなられたお嬢様と同じ病を持つ子ども達を助けるためです」
素晴らしいお志。ルーマン侯爵夫人はそう声をかけてくれた。だが果たしてそうなのか。クリストフの母は苦しい生活の中、それでも周囲を助けていた。今のクリストフはどうか。
こんなに満たされた生活をしているくせに、作っている魔道具は実際に人の役に立つまでには至っていない。ただの手遊びの段階だ。それに比べて、今日会った女性達はすでに行動し、誰かを助けている。母の願いを叶えるためだと息巻いていたクリストフなどは、大言壮語もいいところだ。
クリストフは顔に熱が集まるのを感じた。恥ずかしくてどうしようもなかった。こんな自分の姿を母は残念に思うかもしれない。ローゼン公爵もきっとがっかりしたに違いない。カップを握り締める手に力が籠もった。ココアは冷めてしまっていた。陶器の冷たさが手の平から心の臓にまで伝わった。
「……ごっ、ご、ごめ」
クリストフが震える声で謝罪の言葉を絞り出そうとしたとき、鼻先をふわりと風がくすぐった。視線を上げるとローゼン公爵の顔が間近にある。彼はクリストフの前に跪いていた。
「殿下、私にお任せ下さい」
戸惑いに揺れる赤い瞳を闇が捉える。
「貴方様がお作りになられたものを、暴利を貪る者共に利用させはいたしません。貴方様が届けたい人々へ届くよう尽力いたします。貴方様が道を迷われているのは、お母上を苦しめた貴族の同類をどう見分ければよいのかが分からないためだ。それは私にお任せ下さればよいのです。私は貴方様の妻になるのですから。貴方様は――」
ローゼン公爵は言葉を切って、冷たくなったカップを持つクリストフの手をローゼン公爵の手で上から包み込んだ。そして、カップを取り上げた。
「貴方様は今まで通りお勉強をして、お好きな物を作っていらっしゃればいいのです」
どうして、とクリストフは問いたかった。こんな自分を責めないのは何故なのか。こんな独りよがりで、幼稚な自分を。眉尻を下げ、離れていく黒い瞳を縋るように追いかける。
「がっかりしないの?」
今にもこの場を去ろうと背を向けかけたローゼン公爵は振り向いた。
「それでは、私をがっかりさせないようにして下さい」
唇に薄っすらと笑みを浮かべローゼン公爵は言い放った。その方法も教えてくれないのに、このままクリストフの前からいなくなってしまおうとするなんて。「妻は夫に寄り添うもの」ローゼン公爵が言っていた言葉を頼りにその背をじっと見つめると、半分ほど部屋から出かかったところで、今度は少し甘い声がクリストフの耳をくすぐった。
「今夜は頑張りましたね、殿下。ご自身の誤りを認めることは辛く、苦しいことだ。ご褒美です。もう一杯ココアをいれて差し上げましょう」
閉じられたドアの向こうで足音が遠ざかっていく。急に肩の力が抜けて、クリストフは立ち上がるとよろよろとベッドに倒れ込んだ。耳の奥で、初めて聞く柔らかい声が「ご褒美」だと繰り返す。
白い天井を見上げながら思い出したのは、やはり母のことだった。眠りにつく前にココアを飲みながら母と色々な話をしたあのひと時。温かいココアと母の優しい声の心地よさ。それは遠い記憶となってしまったが、新しい生活の新しい夜に聞かされたあの声は、これからまた自分に向けられることはあるのだろうか。
クリストフは次第に全身が気だるさに包まれていくのを感じた。静かな足音が戻って来て、甘く優しい匂いが再び部屋を満たし始めたころ、クリストフはすっかり眠ってしまっていた。
「やれやれ」
ローゼン公爵は着の身着のままベッドに転がっているクリストフを眺めた。ココアのカップを机に置いて、クリストフの靴を脱がせ、上掛けをしっかりかけてベッドの中で暖かく眠れるようにしてやった。目的を失ってしまったココアは静かに湯気をたてている。
「ふむ」と呟いて一口、また一口、クリストフが欲した甘さをローゼン公爵が味わった。部屋の灯りを消すと、夜にくるまれてすやすやと眠るだいぶ年の離れた婚約者の顔に月の光が落ちている。それをしばし見つめ、それからカップを片手に部屋を出て静かにドアを閉めた。
残された甘い香りは暗い部屋に漂って、やがて消えてなくなるまでクリストフの周囲を彷徨い続けた。
あれから、むかむかとした気持ちを忘れるように新しい魔道具の考案に没頭した。ポーションペンは小さな怪我を治りやすくするためのものだから、もっと大きな怪我に効くものを作ろう。汚れた傷口をどこでも清潔にすることができる魔道具はどうか。それとも、痛みを緩和できるような魔道具はどうだろうか。いずれは、母のように失われた体の一部を復活させるとまではいかなくとも、それを補うような魔道具を作りたい。
クリストフには母の治療で忘れられない光景がある。
クリストフの暮らしていた娼館には、世にも恐ろしい娼館から逃げ出して来た娼婦達が何人もいた。彼女達は娼婦としての仕事をする中で、その身体に凄惨な暴力を受けていたのだ。命からがら逃げてきた娼婦の一人は、なんと右腕を失っていた。そんな彼女の患部に母が手をかざすと銀色の光が迸り、やがて彼女の肩から透明な腕が生えてきて、ついにはその形をしっかり取り戻したということがあった。
額に汗を浮かべながら、疲労した自分の体も気にせず懸命に魔法を行使する母の姿。恐怖と絶望から涙すら失ったと思われた女性の目に一筋の雫を見たあの瞬間。きっとクリストフも同じことができるのだろう。だが、同じことができるだけでは駄目だ。母の願いは、力を持つ者が失われても救われる人々が少しでも多くなる世界。クリストフはそれを実現しなければならない。
貴族はいい。お金があるから何とかなるだろう。自分が助けたいのはそんな恵まれた人間などではない。ハーマン子爵家のように困っている家はまた別だが。窓の外の闇がもたらす静寂がクリストフの思考を静かに包む。
ふと、それを破ってドアが小さくノックされた。大方、クリストフの侍女エレナかローゼン公爵だろう。クリストフは昼間のローゼン公爵の顔を思い出した。左眉を上げながら冷たくクリストフを見たあの目。どうしてローゼン公爵に大事な試作品を見せたいなどと考えたのか、今となっては分からなかった。
箱に入れたままの試作品にそっと触れる。これはシモーナ商会のウーゴや、研究所でクリストフに魔法技術学を教えてくれている灰色頭に見せることにしよう。そう決めてクリストフはノックの音を無視した。
しかしまた、ドアが二度三度叩かれる。
「殿下」
ローゼン公爵の声だ。絶対にドアを開けない。クリストフは自分自身に固く誓ってローゼン公爵の呼びかけに応えなかった。
「殿下」
ローゼン公爵はまたクリストフを呼んだ。しつこい男だ。クリストフを利用しようとした輩に応えてやる義理などないのだ。
「殿下、ココアをお持ちしました」
「ココア?」
クリストフは椅子から立ち上がった。思わず返事をしてしまい、はっとして腰を下ろす。このドアは開けない。ローゼン公爵は卑怯だ。これはクリストフを懐柔する手段なのだ。賄賂を受け取らないなどと清廉さを装っているくせにクリストフにココアを持ってくるなんて。もう返事だってしてやるものか。
クリストフが黙ったままでいると何かがドアの外に置かれる音がして、それから静寂が戻ってきた。恐る恐るドアに近寄り、昼間のように耳を当てクリストフは外の様子を窺った。
何も聞こえて来ない。卑怯者は立ち去ったに違いない。クリストフはそっとドアを開けた。廊下は真っ暗だ。その暗闇の間を縫って甘い香りが漂ってくる。開けたドアの隙間から、トレーに乗せられて廊下に置かれたカップが見えた。
ココアだ。
暗闇の中に人の気配はない。昼間の慰謝料だ。ココアぐらいもらってやろう。ローゼン公爵も少しは頭が冷え、クリストフに詫びる気になったのかもしれない。クリストフはにこにことしてカップに手を伸ばした。そして、自分の迂闊さに気がついた。
カップに手が届きそうになった瞬間、暗闇に白い人影が浮かび上がる。クリストフは慌ててドアを閉めようとしたが遅かった。ローゼン公爵は素早くドアを開け、クリストフの部屋に体を滑り込ませた。そして、恐ろしい顔でクリストフを見下ろしてきたのだ。
「婚約者の呼びかけにも応じぬくせに、このような物に釣られるとは」
薄い唇が歪められた。いつものあの顔だ。ローゼン公爵は口端を持ち上げてクリストフを嘲笑った。ココアの乗ったトレーをゆっくりと持ち上げて、カップを手に取り甘い匂いを味わうような仕草を見せる。それはクリストフのココアのはずだ。それなのに、ローゼン公爵は勝手にココアを一口飲んだ。
「ずるいよ!」
クリストフは批難の声を上げた。
「婚約者を騙すなんて卑怯だろ!」
「私がいつ貴方様を騙しましたか?」
「それは俺のココアでしょ!」
「さて? どうでしょう」
ローゼン公爵はもう一口ココアを飲んだ。ほぅと息を吐き、甘さを堪能しているようだった。クリストフは地団駄を踏んだ。
「俺のココアだよ!」
「それではどうぞ」
「いらないよ! あんたが飲んだものなんて!」
「それは残念です」
これみよがしに眉を下げて見せ、ローゼン公爵は立ち去ろうとした。
「ココアは!?」
「いらないと仰ったので片付けます」
「新しくいれてきてよ!」
「ご自分のことは、ご自分でやられるのでは?」
「じゃあココアはどこなんだよ!」
「さぁ?」
いつまで経っても埒が明かない。クリストフは苛立ってローゼン公爵の手からカップを取り上げた。
「おや、私が飲んだものなど飲めないのでは」
「知らない!」
久々に見たそれは、記憶にあるココアの色とは違うように感じた。しかし匂いは確かにココアだ。クリストフが怪しんでその香りを何度も確かめていると呆れ顔のローゼン公爵が教えてくれた。
「毒など入っておりませんよ」
「でも色が」
「何ですか?」
「母さんがいれてくれたのと違うよ」
「それは……取り扱う商会も違いますでしょうし。ミルクも入っておりますので」
そういえば、ミルクは母とクリストフには少し高価なものだった。母はなるべくクリストフに飲ませてやろうとしていたが、少量しか買えないこともあり、そんな時はクリストフが魔法で出した水を混ぜていたものだ。
クリストフはローゼン公爵を睨みつけながら久しぶりの好物を口にした。よく分からないがきっと高級なミルクと混ぜられたのだ。コクのある優しい甘味がじんわりと舌を包み込み、ゆっくりと脳内へ浸透していく。
「お口に合いましたか?」
ローゼン公爵の問いかけにクリストフは渋々頷いた。美味しいものは美味しい。意地を張ったらもう次はないかもしれない。ほんの少し子どもじみた打算が働いた。
「それでは、理由をご説明して頂けますね?」
「理由って?」
「殿下がまるでご成人されているとは思えない態度を取った理由です」
耳に痛いことを言われてクリストフは返す言葉もなくカップの中に視線を落とした。ローゼン公爵はそんなクリストフを静かに待っている。言ってやればいい、勝手なことはするなと。そう思う反面、どうしてあらかじめ言葉にして伝えておかなかったのか、自分の落ち度も目についた。
「……お掛けになっては」
椅子に座るよう促され、言われるままにクリストフは腰を下ろした。ローゼン公爵自身は立ったまま、夜着の上に羽織ったガウンの前を合わせるように腕を組んだ。首元に巻かれている紫紺の布には銀の糸でほどこされた刺繍が見える。細い月明かりにその糸がきらりと光った。廊下から春の夜のぬるい冷気が這ってきて、クリストフの足元に纏わりつく。
「……どうして、俺が魔道具を作ってるってことを、勝手に人に話したりしたの?」
クリストフはぼそぼそと小さな声でローゼン公爵の行動を批難した。ローゼン公爵は左眉を持ち上げた。
「お嫌でしたか」
「うん……」
「何故です。道具は使われなければ意味がない」
「だって俺の魔道具は、困ってる人のために作ってるんだよ。貴族は困っていないでしょ」
「なるほど」
「お金があるもの」
温かいココアの熱が、カップを通してクリストフの手に伝わってきた。ローゼン公爵は黙っていた。クリストフはもう一度甘いココアを口に含み、ローゼン公爵の答えを待った。闇のような瞳がクリストフをじっと見つめている。
「貴方様のお考えは間違っています」
クリストフは顔を上げた。
「困り事のない貴族がいるとすればただの馬鹿だ」
ローゼン公爵はきっぱりと言い切った。
「どうして?」
「貴族のお金はどこから出たお金ですか」
クリストフは答えようとして僅かに口を開いた。それに構わずローゼン公爵は続けた。
「えぇ、そうです。領民が収めた税金です。そしてその税金を使える立場にいるのは何故です? それは我々が、領民の困り事を解決するのが仕事だからだ。貴方様が言う困っている人とやらは何故困っているのか。それは問題を解決するべき人間が動いていないからだ」
クリストフはローゼン公爵の言葉に耳を傾けた。
「先日殿下にお目にかかった淑女の講師フランティエ侯爵夫人の御夫君であるフランティエ侯爵は我が国を守る軍において、兵士達や騎士達の生活を守る部門を統括しております。彼が力を入れて取り組んでいるのは、負傷して職務につけなくなった者達の退役後の生活を守ることです。傷のために新しい職を探すことが難しい者もいる。これは彼の困り事です。そして殿下は、困っている彼を少しでも助けることができます。分かりますね?」
まるで審判の場にでも立つがのごとく、クリストフはその身を動かすことができなくなった。
「本日お会いしたルーマン侯爵夫人は王立学院の平民枠を作るために尽力された御方です。今後はいかに貧しい者でも金銭の心配なく学ぶことができるよう、新たな学校を作ろうと奔走されていらっしゃいます。ブレンドル伯爵夫人は先月自領の孤児院の不正を見つけ、その手法を広く知らしめ、不正に警鐘を鳴らされた御方だ。コルマフ子爵夫人は御夫君と共に薬草の研究をされていらっしゃいます。亡くなられたお嬢様と同じ病を持つ子ども達を助けるためです」
素晴らしいお志。ルーマン侯爵夫人はそう声をかけてくれた。だが果たしてそうなのか。クリストフの母は苦しい生活の中、それでも周囲を助けていた。今のクリストフはどうか。
こんなに満たされた生活をしているくせに、作っている魔道具は実際に人の役に立つまでには至っていない。ただの手遊びの段階だ。それに比べて、今日会った女性達はすでに行動し、誰かを助けている。母の願いを叶えるためだと息巻いていたクリストフなどは、大言壮語もいいところだ。
クリストフは顔に熱が集まるのを感じた。恥ずかしくてどうしようもなかった。こんな自分の姿を母は残念に思うかもしれない。ローゼン公爵もきっとがっかりしたに違いない。カップを握り締める手に力が籠もった。ココアは冷めてしまっていた。陶器の冷たさが手の平から心の臓にまで伝わった。
「……ごっ、ご、ごめ」
クリストフが震える声で謝罪の言葉を絞り出そうとしたとき、鼻先をふわりと風がくすぐった。視線を上げるとローゼン公爵の顔が間近にある。彼はクリストフの前に跪いていた。
「殿下、私にお任せ下さい」
戸惑いに揺れる赤い瞳を闇が捉える。
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ローゼン公爵は言葉を切って、冷たくなったカップを持つクリストフの手をローゼン公爵の手で上から包み込んだ。そして、カップを取り上げた。
「貴方様は今まで通りお勉強をして、お好きな物を作っていらっしゃればいいのです」
どうして、とクリストフは問いたかった。こんな自分を責めないのは何故なのか。こんな独りよがりで、幼稚な自分を。眉尻を下げ、離れていく黒い瞳を縋るように追いかける。
「がっかりしないの?」
今にもこの場を去ろうと背を向けかけたローゼン公爵は振り向いた。
「それでは、私をがっかりさせないようにして下さい」
唇に薄っすらと笑みを浮かべローゼン公爵は言い放った。その方法も教えてくれないのに、このままクリストフの前からいなくなってしまおうとするなんて。「妻は夫に寄り添うもの」ローゼン公爵が言っていた言葉を頼りにその背をじっと見つめると、半分ほど部屋から出かかったところで、今度は少し甘い声がクリストフの耳をくすぐった。
「今夜は頑張りましたね、殿下。ご自身の誤りを認めることは辛く、苦しいことだ。ご褒美です。もう一杯ココアをいれて差し上げましょう」
閉じられたドアの向こうで足音が遠ざかっていく。急に肩の力が抜けて、クリストフは立ち上がるとよろよろとベッドに倒れ込んだ。耳の奥で、初めて聞く柔らかい声が「ご褒美」だと繰り返す。
白い天井を見上げながら思い出したのは、やはり母のことだった。眠りにつく前にココアを飲みながら母と色々な話をしたあのひと時。温かいココアと母の優しい声の心地よさ。それは遠い記憶となってしまったが、新しい生活の新しい夜に聞かされたあの声は、これからまた自分に向けられることはあるのだろうか。
クリストフは次第に全身が気だるさに包まれていくのを感じた。静かな足音が戻って来て、甘く優しい匂いが再び部屋を満たし始めたころ、クリストフはすっかり眠ってしまっていた。
「やれやれ」
ローゼン公爵は着の身着のままベッドに転がっているクリストフを眺めた。ココアのカップを机に置いて、クリストフの靴を脱がせ、上掛けをしっかりかけてベッドの中で暖かく眠れるようにしてやった。目的を失ってしまったココアは静かに湯気をたてている。
「ふむ」と呟いて一口、また一口、クリストフが欲した甘さをローゼン公爵が味わった。部屋の灯りを消すと、夜にくるまれてすやすやと眠るだいぶ年の離れた婚約者の顔に月の光が落ちている。それをしばし見つめ、それからカップを片手に部屋を出て静かにドアを閉めた。
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若くして王となった幼馴染のリューラと公爵令息として生まれた頃からチヤホヤされ、神童とも言われて調子に乗っていたサライド。
昔は泣き虫で気弱だったリューラだが、いつの間にか顔も性格も身体つきも政治手腕も剣の腕も……何もかも完璧で、手の届かない眩しい存在になっていた。
年下でもあるリューラに何一つ敵わず、不貞腐れていたサライド。
リューラが国民から愛され、称賛される度にサライドは少し憎らしく思っていた。
忠犬だったはずの後輩が、独占欲を隠さなくなった
ちとせ
BL
後輩(男前イケメン)×先輩(無自覚美人)
「俺がやめるのも、先輩にとってはどうでもいいことなんですね…」
退職する直前に爪痕を残していった元後輩ワンコは、再会後独占欲を隠さなくて…
商社で働く雨宮 叶斗(あめみや かなと)は冷たい印象を与えてしまうほど整った美貌を持つ。
そんな彼には指導係だった時からずっと付き従ってくる後輩がいた。
その後輩、村瀬 樹(むらせ いつき)はある日突然叶斗に退職することを告げた。
2年後、戻ってきた村瀬は自分の欲望を我慢することをせず…
後半甘々です。
すれ違いもありますが、結局攻めは最初から最後まで受け大好きで、受けは終始振り回されてます。
冷徹勇猛な竜将アルファは純粋無垢な王子オメガに甘えたいのだ! ~だけど殿下は僕に、癒ししか求めてくれないのかな……~
大波小波
BL
フェリックス・エディン・ラヴィゲールは、ネイトステフ王国の第三王子だ。
端正だが、どこか猛禽類の鋭さを思わせる面立ち。
鋭い長剣を振るう、引き締まった体。
第二性がアルファだからというだけではない、自らを鍛え抜いた武人だった。
彼は『竜将』と呼ばれる称号と共に、内戦に苦しむ隣国へと派遣されていた。
軍閥のクーデターにより内戦の起きた、テミスアーリン王国。
そこでは、国王の第二夫人が亡命の準備を急いでいた。
王は戦闘で命を落とし、彼の正妻である王妃は早々と我が子を連れて逃げている。
仮王として指揮をとる第二夫人の長男は、近隣諸国へ支援を求めて欲しいと、彼女に亡命を勧めた。
仮王の弟である、アルネ・エドゥアルド・クラルは、兄の力になれない歯がゆさを感じていた。
瑞々しい、均整の取れた体。
絹のような栗色の髪に、白い肌。
美しい面立ちだが、茶目っ気も覗くつぶらな瞳。
第二性はオメガだが、彼は利発で優しい少年だった。
そんなアルネは兄から聞いた、隣国の支援部隊を指揮する『竜将』の名を呟く。
「フェリックス・エディン・ラヴィゲール殿下……」
不思議と、勇気が湧いてくる。
「長い、お名前。まるで、呪文みたい」
その名が、恋の呪文となる日が近いことを、アルネはまだ知らなかった。
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