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第1章 今世の無慈悲な婚約者
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「……あ、あの……イクセル様?」
狼狽えながらイクセルの名を呼べば、彼はまるで頭痛に堪えるようにこめかみを揉んだ。
「はぁー……貴女は頭がいいけれど、鈍感だというのがよくわかりました」
「それは、どうも」
「今回は褒めてないですよ」
イクセルは、馬鹿な子を見る目になっている。
木々の隙間から陽が差し込み、鳥がピッチピチと美しい音色を奏でている。絵画のようなこの光景を目にしながら、どうして自分はこんな扱いを受けなければならないのだろうとフェリシアは理不尽に思う。
だが実際、イクセルを前にして馬鹿な真似ばかりしているのは事実である。
フェリシアは気持ちを落ち着かせるために、ティーカップを持ち上げ茶をすする。
「美味しい……ねぇ、イクセル様。この茶葉、お気に召しまして?」
「ええ、とても。さて話を元に戻しますが、先ほどの貴女の発言についてですが、本気でそう思っておられるのですか?」
テーブル越しに詰め寄るイクセルに、フェリシアは目を泳がす。
「その態度……どうやら、本気の発言だったようですね」
「い、一般的な基準で申し上げただけでございますわっ」
フェリシアが知るイクセルは、貪欲に権力を欲する男ではない。
しかし社交界では男性は権力や出世の話となると、例外なく目がバキバキになる。そんな光景を幾度も見てしまうと、貴族男性と出世欲は切っても切れないものだと認識してしまうのは仕方がない。
そんな理由も付け加えてみたが、イクセルがまとう怒りオーラは消えてくれない。
「なら逆に訊きますが、イクセル様が公爵家当主になりたい理由はなんでしょう?」
勇気を振り絞って問うてみたが、自分で考えろという薄い笑みが返ってきた。
「王女との婚姻を望まないということは……もしかして好いた人がいる……とか?」
「正解です」
「どなたとお伺いしても?」
「貴女には教えたくありません」
あ、そう。冷たい声で拒否され、フェリシアの中で”イクセルが好きな女性は自分”という可能性は消えた。
ただここで、フェリシアは純粋な疑問を持つ。
「でしたら、どうしてわたくしとお見合いをする気になったのでしょうか?」
お見合いを望んだのはセーデル家だが、格上のアベンス家は理由もなく断れる。なのに、彼はお見合いに臨んだ。
それだけじゃない。逃げ出した自分を追って、別荘まで来た。
(この人、何が目的なの?)
アベンス家の裏事情まで語ったことも、鈍感だと罵ったことも、何か意図があってしているはずだ。
「イクセル様、今の質問にはお答えいただかなくても結構です。ですが、わたくしに何を要求したいのかだけは教えていただけますでしょうか?」
結婚願望が消えた今、イクセルの矛盾を指摘してスッキリしたいわけじゃない。
どんな理由があれ、お見合いの席で格上相手の顔に泥を塗ってしまった行為は、貴族社会では許されることではない。
それをチャラにしたいがために、フェリシアはイクセルに取引を持ちかけたのだ。
「やはり貴女は鈍感だけれど、頭はキレるようですね」
褒めているのか、けなしているのかわからない台詞を吐いたイクセルは、ニヤリと笑った。
「では本題に入りましょう」
え!? とフェリシアは目を丸くする。これまでの長い長いやり取りは、本題ではなく前座だったようだ。
「イクセル様……明日にしませんこと?」
陽は西に傾き、風が涼しくなっている。まだ夕方ではないけれど、勤務中である彼にとったら十分過ぎるほどの長居だ。
未婚の女性と過ごしているという点でも、もうそろそろ暇を告げるべき時間である……という理由から、今回に限っては常識的な判断で提案したというのに、イクセルは首を横に振った。
「いえ、ここまで来たら残りの話は大して時間はかかりませんから、続けさせてもらいます。よろしいですよね?」
「え……ええ」
嫌とは言えない雰囲気に気圧されてフェリシアが頷けば、イクセルは長い足を組むとピンっと人差し指を立てた。
「貴女には私の婚約者になってもらいます。そうですね……期間は貴女がこの別荘に滞在している間、ということで」
「こ、こんやく?」
「そうです。ああ、言い忘れてましたが、しばらくの間、私は任務でスセルの砦に滞在することになりまして」
「は、はぁ。ですが、わたくしと期間限定の婚約をなさっても、貴方はお見合いで女性に逃げられた男という汚名は払拭できるかもしれませんが、それ以外に得るものがあるとは思えません」
それに期間限定とはいえ他の女と婚約するなんて、本命の女性に対して不誠実な行為でもある。
そんなお節介を含んだフェリシアの懸念は、イクセルにとっては些末なことのようだった。
「得るものはあります。貴女が私の婚約者になってくれたら、王女との婚姻を進めることはできませんし、余計な縁談話に時間を割く必要もありません。私としてはこのスセルの砦にいる間に、諸々片づけたいことがありまして──」
「つまり貴方は、お見合いをする時点でわたくしを利用するつもりだったと。でもわたくしはお見合いから逃げてしまった。計画が台無しになった貴方は、わざわざわたくしを追って、ここまで来た。わたくしを貴方にとってちょうどいい隠れ蓑にするために」
「さようです」
あっさり首肯したイクセルの瞳に、罪悪感など欠片もなかった。
狼狽えながらイクセルの名を呼べば、彼はまるで頭痛に堪えるようにこめかみを揉んだ。
「はぁー……貴女は頭がいいけれど、鈍感だというのがよくわかりました」
「それは、どうも」
「今回は褒めてないですよ」
イクセルは、馬鹿な子を見る目になっている。
木々の隙間から陽が差し込み、鳥がピッチピチと美しい音色を奏でている。絵画のようなこの光景を目にしながら、どうして自分はこんな扱いを受けなければならないのだろうとフェリシアは理不尽に思う。
だが実際、イクセルを前にして馬鹿な真似ばかりしているのは事実である。
フェリシアは気持ちを落ち着かせるために、ティーカップを持ち上げ茶をすする。
「美味しい……ねぇ、イクセル様。この茶葉、お気に召しまして?」
「ええ、とても。さて話を元に戻しますが、先ほどの貴女の発言についてですが、本気でそう思っておられるのですか?」
テーブル越しに詰め寄るイクセルに、フェリシアは目を泳がす。
「その態度……どうやら、本気の発言だったようですね」
「い、一般的な基準で申し上げただけでございますわっ」
フェリシアが知るイクセルは、貪欲に権力を欲する男ではない。
しかし社交界では男性は権力や出世の話となると、例外なく目がバキバキになる。そんな光景を幾度も見てしまうと、貴族男性と出世欲は切っても切れないものだと認識してしまうのは仕方がない。
そんな理由も付け加えてみたが、イクセルがまとう怒りオーラは消えてくれない。
「なら逆に訊きますが、イクセル様が公爵家当主になりたい理由はなんでしょう?」
勇気を振り絞って問うてみたが、自分で考えろという薄い笑みが返ってきた。
「王女との婚姻を望まないということは……もしかして好いた人がいる……とか?」
「正解です」
「どなたとお伺いしても?」
「貴女には教えたくありません」
あ、そう。冷たい声で拒否され、フェリシアの中で”イクセルが好きな女性は自分”という可能性は消えた。
ただここで、フェリシアは純粋な疑問を持つ。
「でしたら、どうしてわたくしとお見合いをする気になったのでしょうか?」
お見合いを望んだのはセーデル家だが、格上のアベンス家は理由もなく断れる。なのに、彼はお見合いに臨んだ。
それだけじゃない。逃げ出した自分を追って、別荘まで来た。
(この人、何が目的なの?)
アベンス家の裏事情まで語ったことも、鈍感だと罵ったことも、何か意図があってしているはずだ。
「イクセル様、今の質問にはお答えいただかなくても結構です。ですが、わたくしに何を要求したいのかだけは教えていただけますでしょうか?」
結婚願望が消えた今、イクセルの矛盾を指摘してスッキリしたいわけじゃない。
どんな理由があれ、お見合いの席で格上相手の顔に泥を塗ってしまった行為は、貴族社会では許されることではない。
それをチャラにしたいがために、フェリシアはイクセルに取引を持ちかけたのだ。
「やはり貴女は鈍感だけれど、頭はキレるようですね」
褒めているのか、けなしているのかわからない台詞を吐いたイクセルは、ニヤリと笑った。
「では本題に入りましょう」
え!? とフェリシアは目を丸くする。これまでの長い長いやり取りは、本題ではなく前座だったようだ。
「イクセル様……明日にしませんこと?」
陽は西に傾き、風が涼しくなっている。まだ夕方ではないけれど、勤務中である彼にとったら十分過ぎるほどの長居だ。
未婚の女性と過ごしているという点でも、もうそろそろ暇を告げるべき時間である……という理由から、今回に限っては常識的な判断で提案したというのに、イクセルは首を横に振った。
「いえ、ここまで来たら残りの話は大して時間はかかりませんから、続けさせてもらいます。よろしいですよね?」
「え……ええ」
嫌とは言えない雰囲気に気圧されてフェリシアが頷けば、イクセルは長い足を組むとピンっと人差し指を立てた。
「貴女には私の婚約者になってもらいます。そうですね……期間は貴女がこの別荘に滞在している間、ということで」
「こ、こんやく?」
「そうです。ああ、言い忘れてましたが、しばらくの間、私は任務でスセルの砦に滞在することになりまして」
「は、はぁ。ですが、わたくしと期間限定の婚約をなさっても、貴方はお見合いで女性に逃げられた男という汚名は払拭できるかもしれませんが、それ以外に得るものがあるとは思えません」
それに期間限定とはいえ他の女と婚約するなんて、本命の女性に対して不誠実な行為でもある。
そんなお節介を含んだフェリシアの懸念は、イクセルにとっては些末なことのようだった。
「得るものはあります。貴女が私の婚約者になってくれたら、王女との婚姻を進めることはできませんし、余計な縁談話に時間を割く必要もありません。私としてはこのスセルの砦にいる間に、諸々片づけたいことがありまして──」
「つまり貴方は、お見合いをする時点でわたくしを利用するつもりだったと。でもわたくしはお見合いから逃げてしまった。計画が台無しになった貴方は、わざわざわたくしを追って、ここまで来た。わたくしを貴方にとってちょうどいい隠れ蓑にするために」
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