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しおりを挟む私は泣いた。泣いた私を、イーダとミーチャはたぶん、慰めるつもりで撫で擦った。私があまりの事態に混乱して泣いていると思っているのだ。でも違う。そこではなかった。イーダの言ったことは真実かもしれないが、私への評価は間違っている。
私は、安くて身勝手な度量の狭い女だ。殿下のためにできるのは、せいぜい、足をひらくとか、上にのるとか、目の前で踊って見せるくらいしかない。一緒にいれば楽しいかもしれないが、殿下の命を右から左へ動かすほど特別じゃない。そんなことはしたくない。
悲しかった。私は、弱い。殿下の愛を信じるのも、うけとめるのも、怖い。
そんなちっぽけな私が、癇癪で殿下を苛めたのだ。最低だった。
泣きながら謝ると、ミーチャとイーダが私を宥めすかし始めた。殿下だけは私に触らなかった。それはそうだ。さっきばっさり切り捨てたのはこっちで、しょうもない女だということもやっと理解しただろう。身体の相性がいいから、手放したくはないと思っているかもしれない。この期に及んでそれしか考えられない私は、殿下に相応しくない。
「あなた、先にお帰りなさい」
殿下がそう言うのも尤もだった。殿下の判断は正しかった。私は本当に、価値のない女だった。殿下の真実を伏せられていたと怒り、明かされたとたん怖気づいたのだ。
ミーチャの操縦するヘリコプターで日本に帰った。だいたい、4時間弱くらいで着いたと思う。日本語の堪能なアリョーシャが付き添ってくれた。しきりに私の気をほぐそうとしてくれた。私は社交辞令のひとつも口にできなかった。
馬鹿でかいコンドミニアムの屋上で下ろされ、ミーチャとはエレベーターで別れた。二人はとんぼ返りで、私は飛び立つヘリコプターを見えなくなるまでずっと目で追っていた。
たぶん、殿下はもう二度と、私に会いにこないだろう。その方がいい。
私も怖い思いをしなくて済む。
たまらない淋しさに心を食い破られそうだ。
北海道から更に北へ向かう航路だったから、たいした時差はなく夕方だった。あまりに普通の、東京の午後5時。タクシーで最寄り駅に向かい、電車を乗り継いで帰った。きっと3日くらい無断欠勤になっているだろう。こういうときは、インフルエンザに限る。とりあえず生きて帰ったことを考えると、どうにでもなるような気がした。
私は食器棚に安置しておいたカップ麺を半分食べて、水を飲み、シャワーを浴びた。とりあえず寝よう。
あれだけ怖い思いをしておいて、私は、殿下のぬくもりが失われた事実に、布団の中でさんざん泣いた。もう頭の中がぐちゃぐちゃだ。もし殿下が会いに来たらどうするだろうと想像して、結局、会いたくてたまらない自分に幻滅しながら眠りに落ちた。
翌朝、パジャマのまましょぼくれて階段を下りていた私は、階下から聞こえる声に足を止めた。息も止めた。恐怖で一気に目が覚め、噴出した汗とどこまでも速度を上げる心臓を持て余した。手すりを掴み段に腰掛けて、耳鳴りと眩暈が治まるのを待つ。
よく耳をすますと、なんてことはない、牧辺の声だった。たぶん最近の私を心配して、朝から会いに来てくれたのだ。夕方から深夜にかけて忙しく働いている牧辺が、朝から。馴染み深い、私の、私だけの現実がここにあった。
ほっとする気持ちを薄情だと感じつつも、階段を下りる。相手が牧辺だとわかると、顔を洗う必要はないがトイレに行く余裕ができた。
8畳の居間に顔を出すと、そこには一晩働いてそのまま来たらしいくたびれた牧辺と、年甲斐もなく胸の見えるシャツとミニスカートで横座りになっている女がいた。こんな疲れを引きずった朝に会いたくない女だ。大きな眼に、笑い皺の激しい口元、ゆるいパーマをかけた茶色い髪。
「お、はよ」
戸惑いながら声をかける。
母さんは、なぜか憤慨して声を荒げた。
「何よ。あんた生きてたの!?」
まあ、不可解でなかったことも、不愉快でなかったこともない唯一の肉親だ。それでも今の一言は強烈だった。頬をはられたようなショックを隠しつつ、二人を左右に見る位置に座った。
「生きてちゃ悪い?」
「話が違うわよー。やっと売れると思ったのに」
「……う、売れる? なに、を?」
いくら連絡を取らない間柄とは言え、娘が生きていてここまで残念がる母親も酷い。
「てか、家でなにやってんの?」
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