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16 これは恋文じゃないから
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令息の友人二人が去ったフォンタニエ伯爵家は、はるか昔の氷の彫刻のように、何か秘密を含んだ無機質さを湛えながらぴしりと凍り付いた。
「なんか、牢屋みたいな空気だね」
廊下で偶然すれ違ったダーガも、私と同じ事を感じたみたいだ。
安全で、美しく、上品で、綺麗。
牢獄とは似ても似つかない場所のはずなのに。
墓地のような悲哀や安らぎは微塵もない。
囚人の気持ち。
解放を待ち望み耐えている空気。
「奥様」
誰よりもその色が濃いのは、やはりフォンタニエ伯爵夫人クラリッサだ。
決められた時間に部屋を訪ねると、少し困ったように眉尻を下げ、穏やかな微笑みで私を迎えた。
それでも、数日経つと、夫人は急に生気を獲得した。誰もが孫の誕生を待ち望んでいるのだと誤解しているようだった。
私は、知っていた。
「イリス。マルクリー子爵から御手紙が届いたわ」
「ありがとうございます、クラリッサ様」
夫人の友人と偽って、女の名前で送られて来る手紙。
ルーカスは、本当に私に手紙をよこした。
*
あなたへ
いかがお過ごしでしょうか。
私のほうはと言うと、あなたのアドバイス通り新しい事を模索し始めました。
まだ形になりませんが、いつかまたお会いできたら、私の夢を聞いてください。
そういえば、もうすぐ嵐の季節ですね。
あなたは遠乗りを恐がっていたから、きっと気が気ではないでしょう。
以前、温室は恐いと仰っていましたね。
西の塔は特に雷鳴が篭り、恐ろしい怪物が目覚めたようだと。
大丈夫ですよ。
あなたのお部屋、それにベッドは、安全であるはずです。
もし恐い夜が訪れたなら、私の事を思い出してください。
私はあなたの永遠の友であり、あなたの無事を祈っていると。
愛を込めて
マーリン・リンドストレーム
*
「妹に書かせたのかしら……そんなわけないわよね」
友人のふりを続けて復讐を企てていて、その協力者が現れて、それが女だからお前が俺のふりして手紙を書け……なんて、あの人が言うとは思えない。
それに所々の暗喩がわかりにくい。
指示があるなら、もっと明確に示唆してほしい。
手紙は一通だけではなかった。
それから数日後、また届いた。
「どうしたの……?」
なにか、問題が?
*
あなたへ
嵐は恐くありませんでしたか?
あなたの部屋がどの辺りだったか忘れてしまったので、心配になりました。
こちらはそちらほどお天気が乱れないので、あなたがいたら驚くでしょうね。
(ただし年中霧がたちこめますが)
あなたに自由な旅が許されたら、ぜひ遊びにきてください。
あなたの友マーリン・リンドストレームより、愛を込めて
*
「……なんなの?」
私が忘れないように?
私が、ただの夫人のお気に入りではなく、自分の共犯者だと言う事を、思い知らせるため?
こんな些細な内容のために悪天候を走らせられるほうは、たまったもんじゃないわね。
*
あなたへ
嵐が過ぎ去るのを待たなければいけませんでした。
お元気ですか?
お変わりないといいですが。
でも大変なのはこれからですね。
そちらは、嵐の後でぐっと暑くなるという事なので、毎年心配になります。
体に気をつけて。
またお会いできる日まで、どうかお元気で。
あなたに押し花と香水を贈ります。
枕に垂らしてみてください。気持ちよく眠れます。
少しでも慰めになるといいですが……
いつもあなたの事を祈っています。
お会いしたいです。
あなたのマーリン・リンドストレームより
*
「……」
押し花と、香水?
押し花は綺麗でいいとして、香水のほうは毒だったりしない?
それとも……私を従順な共犯者に留めておくための、餌付けみたいなものなの?
「わからないわ」
「熱心な恋文だね。たった2ヶ月だっていうのに」
「は……?」
ダーガがひょいと香水を取り上げて、部屋の隅に噴射した。
「ダーガ!」
「うわぁ。いい匂い」
「ちょ、ちょっと……! もし毒だったらどうするの!?」
「んー」
ダーガが香水を噴射した部屋の隅にしゃがみ込んで、鼻で深呼吸を繰り返す。
「あ……」
ヒヤヒヤした。
「甘いけど爽やかで、綺麗な匂いだよ? あんたみたい」
「……え?」
戸惑う私をよそに、ダーガが香水の小瓶を衣装棚にしまう。
「何日かして、ちゃんと私が元気だったらさ、使いなよ」
「ダーガ……」
「なんだかんだ言ってカロン伯爵令息のほうは音沙汰ないし。マルクリー子爵のほうが有望じゃない? えぇーっと、なんだっけ……後にタールなんちゃら伯爵になるわけだし。結婚しちゃえば?」
「……」
「楽しみだね」
違うと思う。
ダーガ、そうじゃないと思うの。
でも……
綺麗な押し花。
これがただの恋文だったら……
「いえ、違う」
「?」
夏までに冷静になると決めたのに、こんな事でどうするの。
しっかりしなくては。
「おやすみ、マルタ」
「おやすみなさい、ダーガ」
私は押し花を枕の下に滑り込ませ、横になった。
次の日の夜、香水を枕にかけてみた。
とても優しくて、でも甘すぎない、透き通るようないい匂いに包まれて、私は眠りに落ちた。
彼を思い出して、悔しかった。
「なんか、牢屋みたいな空気だね」
廊下で偶然すれ違ったダーガも、私と同じ事を感じたみたいだ。
安全で、美しく、上品で、綺麗。
牢獄とは似ても似つかない場所のはずなのに。
墓地のような悲哀や安らぎは微塵もない。
囚人の気持ち。
解放を待ち望み耐えている空気。
「奥様」
誰よりもその色が濃いのは、やはりフォンタニエ伯爵夫人クラリッサだ。
決められた時間に部屋を訪ねると、少し困ったように眉尻を下げ、穏やかな微笑みで私を迎えた。
それでも、数日経つと、夫人は急に生気を獲得した。誰もが孫の誕生を待ち望んでいるのだと誤解しているようだった。
私は、知っていた。
「イリス。マルクリー子爵から御手紙が届いたわ」
「ありがとうございます、クラリッサ様」
夫人の友人と偽って、女の名前で送られて来る手紙。
ルーカスは、本当に私に手紙をよこした。
*
あなたへ
いかがお過ごしでしょうか。
私のほうはと言うと、あなたのアドバイス通り新しい事を模索し始めました。
まだ形になりませんが、いつかまたお会いできたら、私の夢を聞いてください。
そういえば、もうすぐ嵐の季節ですね。
あなたは遠乗りを恐がっていたから、きっと気が気ではないでしょう。
以前、温室は恐いと仰っていましたね。
西の塔は特に雷鳴が篭り、恐ろしい怪物が目覚めたようだと。
大丈夫ですよ。
あなたのお部屋、それにベッドは、安全であるはずです。
もし恐い夜が訪れたなら、私の事を思い出してください。
私はあなたの永遠の友であり、あなたの無事を祈っていると。
愛を込めて
マーリン・リンドストレーム
*
「妹に書かせたのかしら……そんなわけないわよね」
友人のふりを続けて復讐を企てていて、その協力者が現れて、それが女だからお前が俺のふりして手紙を書け……なんて、あの人が言うとは思えない。
それに所々の暗喩がわかりにくい。
指示があるなら、もっと明確に示唆してほしい。
手紙は一通だけではなかった。
それから数日後、また届いた。
「どうしたの……?」
なにか、問題が?
*
あなたへ
嵐は恐くありませんでしたか?
あなたの部屋がどの辺りだったか忘れてしまったので、心配になりました。
こちらはそちらほどお天気が乱れないので、あなたがいたら驚くでしょうね。
(ただし年中霧がたちこめますが)
あなたに自由な旅が許されたら、ぜひ遊びにきてください。
あなたの友マーリン・リンドストレームより、愛を込めて
*
「……なんなの?」
私が忘れないように?
私が、ただの夫人のお気に入りではなく、自分の共犯者だと言う事を、思い知らせるため?
こんな些細な内容のために悪天候を走らせられるほうは、たまったもんじゃないわね。
*
あなたへ
嵐が過ぎ去るのを待たなければいけませんでした。
お元気ですか?
お変わりないといいですが。
でも大変なのはこれからですね。
そちらは、嵐の後でぐっと暑くなるという事なので、毎年心配になります。
体に気をつけて。
またお会いできる日まで、どうかお元気で。
あなたに押し花と香水を贈ります。
枕に垂らしてみてください。気持ちよく眠れます。
少しでも慰めになるといいですが……
いつもあなたの事を祈っています。
お会いしたいです。
あなたのマーリン・リンドストレームより
*
「……」
押し花と、香水?
押し花は綺麗でいいとして、香水のほうは毒だったりしない?
それとも……私を従順な共犯者に留めておくための、餌付けみたいなものなの?
「わからないわ」
「熱心な恋文だね。たった2ヶ月だっていうのに」
「は……?」
ダーガがひょいと香水を取り上げて、部屋の隅に噴射した。
「ダーガ!」
「うわぁ。いい匂い」
「ちょ、ちょっと……! もし毒だったらどうするの!?」
「んー」
ダーガが香水を噴射した部屋の隅にしゃがみ込んで、鼻で深呼吸を繰り返す。
「あ……」
ヒヤヒヤした。
「甘いけど爽やかで、綺麗な匂いだよ? あんたみたい」
「……え?」
戸惑う私をよそに、ダーガが香水の小瓶を衣装棚にしまう。
「何日かして、ちゃんと私が元気だったらさ、使いなよ」
「ダーガ……」
「なんだかんだ言ってカロン伯爵令息のほうは音沙汰ないし。マルクリー子爵のほうが有望じゃない? えぇーっと、なんだっけ……後にタールなんちゃら伯爵になるわけだし。結婚しちゃえば?」
「……」
「楽しみだね」
違うと思う。
ダーガ、そうじゃないと思うの。
でも……
綺麗な押し花。
これがただの恋文だったら……
「いえ、違う」
「?」
夏までに冷静になると決めたのに、こんな事でどうするの。
しっかりしなくては。
「おやすみ、マルタ」
「おやすみなさい、ダーガ」
私は押し花を枕の下に滑り込ませ、横になった。
次の日の夜、香水を枕にかけてみた。
とても優しくて、でも甘すぎない、透き通るようないい匂いに包まれて、私は眠りに落ちた。
彼を思い出して、悔しかった。
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