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 彼の復帰は、私にとって、希望だ。

 私はあの場に立会い、ひとりの絶望を前に、身動きがとれなかった。収録のあとのにぎやかな楽屋が、テレビの緊急速報で凍りついたのは、昨年の秋。
 釧路からロシアへ向かう中規模な客船が座礁し、すでに一夜あけ、甲板が焼かれ蛻の殻となっている映像が映し出された。そこで読みあげられた日本人乗客のなかに、彼の名があった。報道が遅れたのは、ロシアの小さな観光企業から、本国の軍と政府を経由し、やっと乗客人名簿の情報が渡ってきたためだ。

 けたたましく、楽屋にあったほとんどの携帯電話が鳴った。
 彼は首にまいたタオルを握り、立ち上がり電話に出た。

「会見。今すぐだ」

 彼の判断は正しかったと思う。速報が流れた3分後には、その日使われていなかったスタジオでの記者会見が始まった。テーブルも椅子も、寄せ集めだった。彼は椅子に座らず、用意されたテーブルの前で手を握りしめて立っていた。間違いなく死亡しただろうと言われる日本人男性“秋月玲央あきづきれお”は、歌手“秋月レオ”ではない。その速報は、一握りとは言えない熱烈なファンの後追い自殺を防いだ。

 ただ彼は言い添えた。

「兄です。婚約者と一緒でした」

 私は一度、そのふたりに会ったことがある。一昨年の冬のツアー《Doragonia》で、本当の秋月玲央は恋人とふたりで彼の楽屋を訪れた。少し背の高いおっとりした感じの女性は、私と同じくらいの年齢に見えた。とても仲がよさそうで、彼も、ふたりを大切に思っているのがよくわかった。

 あのふたりが、亡くなった。
 かける言葉もなかった。

 数日後、彼は、芸名に実兄の名を使った理由をうちあけ、無期限の活動休止を発表した。私は、アパートの小さなテーブルで遅い朝食をとりながら、正式な記者会見の映像を見ていた。


 ──もう、兄の名前では歌えない。


 その一言にこめられたさまざまな思いに、胸が苦しくなって、私は泣いた。
 彼は、過去に恋人を亡くしている。彼のバラードは、真実を示す小石のように、甘く淫らな王子様の雰囲気を引き締めていた。彼は痛みを知る、誠実なひとだった。彼の孤独を思うと胸が痛んだけれど、私にできることはなかった。
 私は、一介のスタイリスト。彼の人生に立ち入るチケットはない。

 けれど、彼が去り私の人生は激変した。

 それまで友達だと思っていた仕事仲間や専門学校の同期が、手のひらを返したように冷たくなった。
 この業界では珍しくない。私は私の仕事を続けた。
 敵はそれだけではなかった。現場を移るごとに、女優や女性歌手の風当たりが厳しくなっていった。私は何度か、彼とのあらぬ噂を立てられたことがある。彼を守る力が、同時に私を守っていたのだ。その壁がなくなり、私は、求められないどころか疎まれる存在となった。

 決定的だったのは、年末の歌番組。私が担当した演歌歌手の帯締めがなくなった。中堅どころの女性歌手で、彼女自身私への悪意はなかったけれど、芸の世界へ支障を来した私の人間関係を責めた。私に罪を着せるために誰かが仕組んだことだと、彼女は納得ずくで私を叱った。
 よくある話だから、認めるのは簡単だ。私は、職場のイジメに屈した。

 初詣の足で事務所へ行き、年始の挨拶と辞職の旨を伝えた。専門生時代からお世話になっていた社長だけは、最後まで私の味方だった。そして、業界の痛みから逃げる背中を追うのは、無駄だと知っている人だった。

 私は受け入れた。夢が破れたのは、これが初めてではなかった。

 二月の頭、社長から着信があった。二十代半ばで定職にも就けず、両親のもとにも帰れない私はアルバイトを探していた。長くても2年の間に、働きながら資格をとり専門職に就いて生活を安定させたかった。英検一級だけでは就職の売りにはならない。いつ再発するともわからない病気のことを思えば貯金は崩せず、飲食業やサービス業では身体がもたないかもしれないという不安から、いちばん募集の豊富などの接客業にも踏み切れなかった。

 結局私は、都内で通信販売化粧品を扱う製薬会社の電話オペレーターの面接を受け、採用された。その初日だったために、心配して電話をくれたのだろうと思いつつ、社長に折り返す余裕はなかった。

 翌朝の、七時。前触れもなく、社長がアパートのドアを叩いた。
 変な勧誘だと思って、メイクをしながら居留守を装うと、まりちゃん、とあたたかい声が私を呼んだ。
 ドアを開けると、社長は白い息を吐きながら、私の顔を見て安心したように笑った。

 そして──

「彼、復帰するのよ。あなたを専属で雇いたいって」
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