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しおりを挟むこの嫉妬は間違いだとわかっていた。
だから私は、みんなよりずっと遅れてポルトノフ氏の姿を目におさめた。お門違いだけれど、ポルトノフ氏さえ恨めしい。日高と握手を交わしている。
生まれて初めて、片眼鏡をかけた人を見た。きっと不便なのにコンタクトを使わないのは、あれが氏のお洒落だからだろう。面長で彫りが深く、涼しい目元と薄い唇がとことん冷たい印象を与える。でも、とても紳士的に微笑んでいた。片眼鏡と耳をつなぐ銀の鎖が、顔の動きにあわせて頬でゆれる。物珍しさと容貌に、またダンサーの女の子たちが沸く。40歳前後くらい。金髪に、黒いコート。
挨拶を交わしながら、ポルトノフ氏は部屋の中心に向かって歩いた。すでに窓辺からはなれていた二人が、恋人のように寄り添って氏を待っている。彼の手が、長谷の肩に、いつまでも……そんなこと考えても仕方ないのに。
氏はまず、マクシモーヴィッチを見つめた。
「──はじめまして」
マイクでの通訳を、男性がやめる。
彼の緊張に満ちた一日を知っているから、みんな興奮をおさえ静かに見守っているようだった。ただならぬ雰囲気に日高のカメラスタッフが二人を収める。ポルトノフ氏は長身で、紳士的な雰囲気でありながら目の高さはマクシモーヴィッチとほとんど変わらない。
じわり、じわりと、彼は笑みを刻んだ。いつもの可愛らしさは欠片もない。鋭い顔立ちによく合う好戦的な表情は、どこか怖れを隠しきれていないけれど、敵と対峙する若い獣そのものだ。
体の中で熱が渦を巻いた。たとえ、彼の手が長谷にふれているとしても関係なかった。
私は、見ているだけでいい。
このくらいで充分。
簡潔な二人の自己紹介は訳されず、握手がかわされた。
そのとき。
「アヘッ」
変な声に、空気が変わる。
まさに全員が彼女を見つめ、凍りついた。
「イヒッ、ひハハハハ」
「……」
──長谷さん、なぜ……笑うの?
「ひ、しゃ、は」
こともあろうに、彼女は力なくおなかをおさえ、もう片方の手でポルトノフ氏を指差して笑っている。
「ハクシャクみたいなの、来た」
あまりのことに思考が追いつかない。だいぶ遅れて、彼女の態度はとても失礼だと気づいた。たいへん。国際問題だ。スタッフの何人かは蒼ざめ、何人かは凝然と成り行きを見守っている。
──ぶち壊す気?
ポルトノフ氏が怒って帰ってしまったらどうするのか。
公演自体、白紙に戻されてしまったらどうするのか。
不安は現実になった。ポルトノフ氏は紳士的な笑みを消し去り、静かに、どこまでも冷たい眼差しで彼女を見据えた。緊張でおかしくなってしまったのだとしても、ひどい。長谷はまだ笑っている。目尻をふいて、涙まで流して。
日高の舞台が、台無しになる。
体が冷えた、瞬間。ポルトノフ氏が叫んだ。
「アァグネーッス!」
びくっと飛びあがったのは私だけじゃないはずだ。ぽかんと口まで開けてしまった。
ポルトノフ氏は怒っていなかった。マクシモーヴィッチを押しのけ、長谷の手をとり、背中に手を回して、劇中歌をハミングしながら踊り始めた。宙をすべるように、なめらかなワルツ。とても美しいワルツを。
長谷は、ひゃぁ、とか、ほっ、とか、およそ艶のない声をあげて、それでも立派についていく。
驚きと安心がざわめきを生んだ。
「……また?」
誰かが囁く。
どこまでも、どこまでも彼女は特別だった。ポルトノフ氏と踊る彼女を、みんなが見つめている。
カメラも、日高も、彼も。
やがてポルトノフ氏は彼女を抱きしめ、悦に入った笑みで頬ずりをした。可愛い私のアグネス、と、なぜか通訳まで入る。けれどキスはなかった。さすがにそこまでは。
嫌な緊張を引きずりつつ、彼らはポルトノフ氏にダンスパートを披露し、ハードな一日を終えた。きっと、悶々とした気持ちのままで。でも明日を待ち遠しく思っているはずだった。
ポルトノフ氏の訪れは、物語の幕開けに他ならなかった。
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