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しおりを挟むそれから、長い休憩になった。
ポルトノフ氏を汗だくで迎えるわけにもいかないというスタッフのこだわりがあり、全員がシャワーで汗を流し、私もメイクのフォローに回った。緊張がほぐれたのか、マクシモーヴィッチもフォローに奔走しはじめる。今日はごめんね。言葉は通じなくてもそんな感じなので、みんな笑顔で励まして応えた。ただ日高と見つめあうときだけは、ふたりとも凍てついていた。長谷は、熱い抱擁。
ポルトノフ氏を迎えるため、稽古場にはバルトロメア役の加納やコーラス、全スタッフが次々と集まってくる。場の空気は、ピリピリからそわそわに変わった。
安心。これですべて、正しい方を向いた。あとは流れに身を任せればいい。
一仕事終えた気持ちで稽古場の隅に佇み、室内を眺める。活気、期待、不安、それから情熱。欲しくても得られなかった。けれど、いちばん近くで見続けることを許された私の夢。
この仕事が、愛しい。
熱い気持ちがこみあげ、息が詰まる。泣きそうになったのは一瞬で、すべては日高への感謝に変わった。
ポルトノフ氏が空港に降り立ったと報せを受け、いよいよ落ち着きがなくなる。撮影スタッフは、ポルトノフ氏の初登場と日高との握手を最高の画として残すべく、入念な機材チェックを始めた。ダンサーは緊張をほぐすため各々で体を動かしている。
長谷の鼻を叩かなきゃ。
私はパウダーを手に彼女を探した。いつものダンスウェアの上にてろんとしたワンピースを着て、窓にはりついている。
「……」
陽が落ちた窓に、子どものように無邪気な顔が映った。笑っている。それから、しきりに外を眺め回し、目とは全く違う方向へ控えめに手をふった。
おかしい。緊張のせい?
空想の世界に浸るのが彼女なりの緊張をとく習慣なら、邪魔するべきではない。もしかしたら、挨拶の練習をしているのかもしれない。そういい方に考えていたら、彼女に日高が寄り添うように立ち、同じく窓の外を眺めた。長谷の手が体の脇に垂れる。何か短く言葉を交わした。雲田も日高に並ぶ。
主演の3人が窓辺に立ち、ふいに近寄りがたい空気になった。
いい緊張かどうかは、わからない。ただ、結束は強い。
私は、通訳の男性を交えスタッフと話しているマクシモーヴィッチを盗み見た。彼はやっぱり、窓の3人を話題にしているようだった。
──嘘。
彼は長谷を、焼き尽くすように熱く、見つめていた。
「着きました!」
下からの連絡を受けて、スタッフが携帯電話を耳にあて、告げる。本番だ。
緊張と期待に満ちた表情で、みんなが扉の方に集まってくる。加納さえ嬉しそうに頬を染めて扉を見つめ、雲田の手を握った。雲田は驚いてから笑って、大先輩である加納を宥めた。
日高はスタッフと通訳の男性に付き添われ、扉に近い位置で待機している。看板として申し分ない、爽やかで色気のある、精悍な青年。やっぱり、彼は本名で歌うと決めて、明らかに変わった。とても素敵だ。
そうそう。長谷の鼻。
私は窓辺に立つ彼女の方へ小走りに向かう。ヒロインなのに、群れから離れて、扉から遠いところで拳を握っている。緊張なんてものではなく、彼女はまるっきり怖気づいていた。叱られるのが怖くて逃げる子どものような顔だった。
でも、完璧なヒロインでいてもらわなくては、困る。
「長谷さん」
呼ぶと、目があった。けれど私をとらえた大きな瞳は、すぐに脇に逸れる。
体の脇を、風が通り抜けた。
一瞬だ。
マクシモーヴィッチが長谷を抱きしめ、顔を寄せる。
私は凍りついた。
それは、キスに、見えた。
扉がひらき、喝采があがる。
マクシモーヴィッチが弾かれたように振り返り、身を開く。片手はまだ長谷の頬を包んだまま。長谷はうつむき、目をしばしばさせている。
「こんばんは皆さん。やっと会えました。あなた方は私の大切な家族です」
棒読みの通訳を聞きながら、ふたりから目を引き剥がした。
キスはしていなかった。マクシモーヴィッチの手には、何の変哲もない目薬の入れ物。彼はそれをさっとポケットにしまった。感動の初対面を演出したかったのなら姑息だ。けれど、それはどうでもよかった。私が思うのは、目薬をさしてあげるくらいなら、キスくらいできるということ。
長谷はずるい。
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