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しおりを挟む4時過ぎに着くと、ちょうどキスシーンの稽古をしていた。アグネスが火刑された丘を上手奥の背景にして、センターでは横たわるディーノの傍でコルネリオが膝をついている。ボスを殺された組織とマフィアの両方が、アグネスも焼死したと思い込んでいる今、二人を目の敵にしている。
「なんで。もう子どもじゃないんだ。守ってくれなんて、俺は」
日高がふるえる指でそっと、頬にふれる。雲田はぴくりとも動かない。
「言ってないのに」
絞り出した声が、悔しそうに翳んだ。
私の印象では、コルネリオに恋愛感情はない。ただ信頼を抱き始めている。記憶はないけれど、子ども時代の話を聞き、アグネスとの相互関係も理解したコルネリオにとって、ディーノはたったひとりの味方だ。
迷いながら体を折り、額に唇を寄せていく。覆い被さるような姿勢で、実際にキスをしているわけではない。感謝か、贖罪。コルネリオにとって、精一杯のお別れだった。
雲田が跳ね起きる。
「おい!」
騙されて、日高が吠えた。
「なんだ、もっと泣くと思ったのに」
「おまえ」
「ま、これくらいで満足するよ」
おどけた調子で余裕綽々と立ち上がり、雲田は懐から銃を取り出した。弾を確かめ日高に投げる。目から笑いが消えた。
「時間ならたっぷり、あるからな」
カルミネの復讐で不死の体になってしまったコルネリオに、この一言は重い。
いつものように煙草を吸い始める雲田を見あげ、日高はきつい表情を浮かべる。恐れと、覚悟。ふいに辺りを見渡す。
「変な臭いがする」
「憎悪。殺意だ。俺たちを狙ってる。とりあえず、地球の裏側にでも逃げてみるか」
これが、歌劇《アグネス・コード》最後の台詞だった。
充分な間をとり、ポルトノフ氏が呟いた。現実に返る。
細かな修正を二人は真剣に聞いていた。
「コルネリオはもっと依存してもいい」
淡々とした通訳が告げる。私は咄嗟に日高の顔色を覗った。彼のコルネリオは、劇中でただひとり健全な精神を持ち続ける。お調子者に見えるディーノでさえ、不死と、コルネリオへの執愛を秘めているのだ。アグネスがカルミネと結ばれて蘇るなら、観客はコルネリオを通してしか物語に馴染めない。体だけでなく心まで染まってしまったら、舞台の上と下で、世界は遮断されてしまう。
それも、有りだとは思う。好きなひとは好きだ。ただ一般受けしないだろう。
日高は真摯に受けとめているように見えた。なぜか長谷がいちばん険しい顔をしている。彼女は下手側のベンチの下で胡坐をかいていた。
「5時まで休憩です」
きりのいいときに来たらしい。通訳の男性が彼自身の言葉で送る、数少ない合図だ。
ポルトノフ氏の隣、彼が、勢いよく立ち上がった。一目散に部屋を出て行く。またお酒を呑むのかと思うと、気持ちが沈んだ。私は、長谷の身代わりにされたキスを、ひきずっている。
稽古場におかしな空気が満ちた。みんな、そわそわしている。いつもならうるさいくらいベタベタしてくる長谷も、遠くからニコニコ手をふっているだけだ。雲田はにやにや、日高はいらいら。ポルトノフ氏や、何人かのダンサーも訝しげな表情を浮かべている。
私はいつもの位置に荷物を下ろし、日高付きのスタッフと時間の確認をしようと手帳を開いた。
鏡越しに、彼が見えた。もう戻ってきたのだ。お酒を呑んでいたわけではないとわかって、ほっとした。手をお尻のほうに回して、用心深く稽古場を見回している。なにか、隠しているの?
いい。私には、関係ない。
もう身代わりはうんざりだった。
とたん、居心地の悪さを覚える。好奇心いっぱいの目で見られているのは、私だ。何が起こるのだろうと身構えたとき、うしろから声がした。
「まりたん」
少し絡んだ、低い、掠れ声。胸がよじれる。苦しい。
頬が熱くなる。私は、必死で無関心を装った。
「はい」
そっけなく返事をしてふり向く。
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