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しおりを挟むたぶん、忘れ物として管理されているだろう。でも、もし、置きっぱなしだったら。誰かに病気を知られるかもしれないと思うと、悪寒が走った。
うつりはしない。けれど、ひとは、うつらないとは信じないものだ。身に沁みている。まして私の仕事は、ひとの肌に手を加えるものなのだ。タクシーを拾い、劇場へ向かった。
通用口脇の防災センターでIDを提示し忘れ物をしたと言うと、身分証が必要だったけれど、警備員は丁寧に対応してくれて手帳も無事戻ってきた。遺失物の管理表に受け取りのサインをするとき、拾って届けてくれたのが清掃員の女性だとわかり、少し安心できた。
早く帰って、明日に備えないと。
私は通用口から表に回らず、駅に近い路地へ入ろうとした。突然腕をとられ、頭に強い衝撃を受ける。建物に打ちつけられたと気づいたけれど、痛みと恐怖で身体が動かず、抵抗できない。声も出せなかった。薄暗く、必死にあけた目には涙もたまり、よく見えない。ただ、私を押さえつける腕は二本で、手首と顎に食い込む痛みは細く鋭い。女性だ。それでも、何をされるかわからず、恐怖は膨らむ。私は、妬まれる仕事をしている自覚があった。
「あんたばっかり」
聞いたことのある、声。
「調子にのんじゃねーよ、ブス」
咲良だ。いい加減にしてほしい。頭に来て、恐怖は急速に萎んでいく。
「……は、な、してッ」
顔を押さえつけてくる手をはがそうともがくと、咲良は呆気ないほど簡単に身を引いた。恐怖は消えても、身体が驚いたままで動かない。膝ががくがくする。頭も痛かった。次に襲われたら、もう、死ぬ気でやり返すしかない。
暗いけれど、遠くの街灯で輪郭くらいはわかる。咲良はファーのついたジャンパー姿でフードをかぶっていた。今夜は仕事がないらしい。すると、ここで、私を待ち伏せていたのだろうか。どうして私の周りには、こういうひとばかり集まるのだろう。芸事に携わる志のひとつも持ち合わせていない。資格のない、我侭な女ばかり。
調子になんてのってない。努力して、我慢しただけ。
「言いたい事は、それだけ?」
息があがっていたけれど、平静を努めた。防災センターもすぐそこだし、次に掴みかかられたら大声を出そう。ただの酔っ払いと言えばいい。友達でも、知り合いでもない。咲良の目が暗闇でぎらぎらと光り、私を睨む。その静けさがひどく不気味で、私は牽制する意味で問いかけた。
「警察呼ぶ?」
「はぁ!?」
笑い声に似た高い声をあげる咲良に、なにか不吉なものを感じた。酔っているだけかもしれないけれど、ちょっとおかしい。
逃げよう。
突然走り出して転んだりしたら意味がない。私は、なるべく早く加速するつもりで踏み出した。けれどニ三歩ですでに咲良が動いた。走ろうとするけれど、後ろから抱きつかれ、口を塞がれた。
「んっ、ンゥッ!?」
同じ女性とは思えない力だった。しかも、声を出せないようにするためのはずなのに、親指を使って鼻まで押し潰してくる。痛いよりもまず、息ができない。本当に、吸うことも、吐くこともできない。咲良は私のお腹にも腕を回していたけれど、もうどうでもよかった。必死で息を塞ぐてに爪をたてた。
「ん、く……っ、ン」
耳元で咲良が笑っている。自分が何をしているか、わかっているのだろうか。悪い冗談のつもり?
私は、どうなるのだろう。まさか、死ぬ?
冗談じゃない。
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