62 / 127
061
しおりを挟むつないだてのひらは大きくて、少し冷たい。躊躇って足を止めた。夜空を纏うように聳え立つ豪奢なデザイナーズマンションの自動ドアは、外気を拒むエントランスとの間にセキュリティールームを設けていた。大理石製のATMに見える機械に鍵を差し込み、彼は少し迷って暗証番号を押した。ゆっくり、ひとさし指だけで。探り探りだった。
彼は、ここの住人ではない。
それなら私は? 警報は、鳴らなくていいの?
労わるような暖かな眼差しで、彼が肩越しに私を見おろす。それだけで、どうでもよくなってしまう。
携帯電話を放り投げた彼は、財布から名刺を取り出した。私には名刺に見えた。硬いプラスチックで、カタカナで彼の名前、その下には住所が刻印されていた。あれは、泣き落としだった。拙い日本語で、一緒に来て欲しいと何度も囁かれて、頷くしかなかった。淋しくて、誰かが必要なら。私に、傍にいて欲しいと言うなら。たとえ今夜だけだとしても、私のすべてを彼にあげたい。どんな形でもかまわない。
結局、彼は自分で携帯電話を拾い、“かばん”とくり返しながら私の家に引き返した。簡単な荷造りを身振りで指示する数分、彼は踊っている時と同じくらい鋭く研ぎ澄まされていた。甘えん坊の彼が消えてしまって、興奮しているのか、恐れているのか、自分がわからず、戸惑った。彼のその様子はタクシーの中まで続き、電話を切ると同時に終わった。
驚くほど、彼が近い。
緊張をごまかすために、話しかける。
「すごい。こんなエレベーター乗るの初めてよ。扉がキラキラして……」
赤い絨毯は弾力も毛並みも新品としか思えないし、壁が柔らかく手すりまで着いている。住居というより、オペラハウスや格式高い劇場の設備みたい。奥が鏡張りになっている。壁伝いに回りかけた私を彼が止めた。壊れ物を扱うような、悲しいくらいに優しい手つきで、彼は私の肩にふれて隣に立たせる。
覚えがある。父が、同じだった。娘を病気にしたのは自分たちだと、両親は深い悲しみにとりつかれている。保因者同士から生まれた子どもしか発症しない難病だから、ある部分は事実だ。でも、私は、憎しみを覚える前にふたりを愛していた。思春期には怒りを持て余したけれど、受験勉強で紛らわしているうちに自然とおさまった。強かったのは、母の方だ。先に生を終える娘を手元に置く事もできた。父はそう望んだ。けれど母は、私がやりたいことを全力で応援してくれた。だから今、私は、最高のステージを作り上げる部品の一つとして、輝いていられる。
彼を見あげる。父とは違う。彫の深さや、逞しさ、何より背が大きい。きれいな鼻の穴まで覗ける。彼は傷ついている。私に対して、何かを恐れ、傍に置いておいたほうが安心だと思い込んでいる。そこにはもう、長谷さんの影は感じられない。
彼と私は、ふたりきり。
「ミーチャ」
呼びかけると、彼ははっとして私の顔をのぞき込んだ。いつも力強かった赤褐色の瞳が、不安にゆれている。つないだ手に、反対のてのひらを重ねた。
「大丈夫よ。私は、大丈夫」
高い音が鳴った。
「あなたが好きよ」
扉が開き、細い腕に引き離される。あまりに唐突で抵抗できず、私は柔らかな壁にそっと背をあてた。そっと? 影が下りる。みつあみにされた綺麗なプラチナブロンドが鼻先をくすぐる。おおきな胸。それに、ああ。
お腹。
とても美しい白人女性が、はり出したお腹を庇いながら、私を壁際に追いやっている。頭が真っ白になった。彼は、彼には、もう約束したひとがいる。彼の命が、紡がれている。頭の奥がツンと痺れた。
「そんな」
目の前の女性が、たしかに、日本語でそうもらした。息を詰め、ショックを受けている。そうね、恋人が別の女を連れてきたら、それは大変な悲劇だ。悲しいのは、私じゃない。
ああ、絶望的。なんて身の程知らずなの。
「?」
でも、日本語?
彼の小さな呻き声が聞こえた。女性の影から顔を出すと、見たこともない男性が彼の首元を締め上げ、私と同じように壁際へ追いやっていた。彼と比べると、小柄だ。
「Ты с ней уже спал? Отсюда?」
まるでわからない。男性がそう罵ると、彼と彼女が息を呑んだ。次の瞬間、彼が目を剥いて怒鳴った。
「Заткинись!」
私は、悲しいくらい、見惚れた。
彼の瞳が、金色に輝いている。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
55
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる