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しおりを挟む瞼をあけ、起きあがる。手の重みに気づいたのはそのあとだ。彼がきゅっと握る力を強めた。ベッドに顎をのせ、床に座っている。赤褐色の瞳が私を見あげ、細くなると、目尻にくしゃりと皺ができた。
「おはよう、まりえ」
言葉をなくし、口をあけたまま見つめる。
「夢じゃないよ」
彼は言って、私の手を離した。そのままのそりと立ちあがり、腰に手をあて、ゆるく唸りながら身体をほぐし始める。こんなの、夢でないほうがおかしいのに。
「あなた、寝てないの?」
「まりえを見てた」
「えっ」
くしゃくしゃの笑顔が可愛い。少し眠そうにも見えるけれど、いつものこと。私は耳の横の髪を扱いて照れを誤魔化した。とても現実とは思えない、けれど私の想像力を遥かに超えた出来事が思い出される。浮かれてばかりはいられない。この世界は、彼の悲しみで埋めつくされている。
「ぺこん? 僕マロージェナエ食べる。まりえ、チャイ?」
日本語とドイツ語とロシア語をごちゃまぜにされ、くすりと笑いがもれた。見あげると、彼はしげしげと私の顔をのぞきこみ、そのために深く身体を折っていた。返事を待っている。
「ナイン」
「えー? じゃあ僕ひとり? 淋しいよ」
「支度しないと」
「うん。そばでしてね。行こう。起きる起きる」
あっと思ったときには彼の手が脇に入り、ふわりと身体が浮いた。小さな子どものように持ちあげられて焦る。頬が熱い。悲鳴をあげながら、私は、抵抗しない道を選んだ。
「だ、大丈夫よ。ひとりで」
そう言ってみたけれど、嬉しくないわけがない。そっと床に下ろされ、手を引かれる。口から心臓が飛び出しそうなほどの胸の高鳴りは、ファーストキスのときよりも激しい。中学2年生だった。卒業間近の先輩と、図書室の書架に隠れて。いけないことをしている高揚感と、ひとつでも多く恋を経験したいというなげやりな気持ちが混在していた。今思うと、あれは恋ではなかった。未経験のまま死んでしまうのが嫌だったのだ。
リビングに出て、私はもう一度叫んだ。
「こんな時間なの!?」
置時計が8時を回ろうとしている。たいへん。いつもなら、電車に乗る時間だ。
「嘘でしょ。日高さん来ちゃう」
「タツオ?」
ミーチャが不満そうな声で唸った。彼は、私が日高さんの名前を口に出すたびに、少しむくれる。構ってほしがりなのは稽古中から知っていたことだけれど、いまはそれどころではない。
「そんな顔してもだめよ。どうしよう、もう行かないと。やだ、なんでこんなに寝てたの。起こしてよ」
独り言は、彼にはわからない。振りほどこうとしているのに、ミーチャは私の手を握ったままのんびりキッチンへ向かっている。
「離して、ミーチャ。もう行かなきゃ。マロージェナエは無しよ」
「ぺこん」
「“ぺこん”じゃないの! なによ。アイスなんかお腹にたまらないでしょ」
「タツオのために働くの嫌だ」
「なっ……」
あまりのことに、息が止まる。足を踏ん張って留まり、手を引き抜いた。
「仕事なのよ、わがまま言わないで!」
「わぁ」
緩慢な動きで両手を顔の横に広げ、ミーチャが肩を竦める。
「まりえ怒った。元気、元気」
「ええ元気よ。ありがとう」
「どういたしまして」
満足そうに頷く彼を置いて、大急ぎで支度を始めた。慣れない部屋で、そしてとにかく広いので使い勝手以前に移動に時間がかかった。彼は大きいスプーンでアイスを食べながら私を見てにこにこ笑っていた。
「まりえ速い。きれいだよ」
そうでなくては困る。プロなのだ。
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