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 最低限のメイクを済ませ、ニットとデニムに着替えて荷物をかかえると、彼がキッチンの脇でバスケットを下げて待っていてくれた。もう片方の手には皮のコートをかけていて、バスケットは私の名前を呼ぶのにあわせそこへ移った。

「忘れ物ないね?」
「ええ。急がないと」
「間にあうよ」

 彼は当然のように、私の荷物をすいと奪った。
 コンドミニアムの前に送迎のハイヤーが待ち構えていて、驚いた。でも、これなら間にあうかもしれない。乗り込むと、彼はバスケットをあけて食事を始めた。昨夜の残りで、パイやトルティーヤなど手で食べられる物と果物がミネラルウォーターのボトルと並んで思いのほか丁寧に詰められていた。

「まりえ、あーん」

 嘘……と思いながらも、勢いにおされて彼の手から少し食べる。
 劇場にはいつもより少し遅れて着いたけれど、問題のない時間だった。空が暗く、冷たい雨が降り始める。今日は2公演だけれど、足元が悪くても客席は埋め尽くされるだろう。どんな秘密があろうと、この興行は人を集める。忙しさ、慌しさが、私に現実を思い出させてくれる。
 
 夢では、ないのかもしれない。

 日高からポルトノフ氏の不在を聞いた。表向き急性胃腸炎だけれど実際は長谷が追い返したのだそうだ。演出家不在のために、物語のほぼ7割を占めるダンスパートの監督を勤めるミーチャが責任者として扱われた。
 ほかにも、通訳がいつもの男性から長谷のご主人に変わっている。通訳の野辺は急性胃腸炎のポルトノフ氏に付き添い病院へ行っていることになっているけれど、完璧な別行動だということはわかっていた。なぜなら、野辺は昨夜、運送業者の恰好をして彼の荷物を運んできたから。助っ人で現れた新たな通訳に、ダンサーの女の子たちが色めき立っている。長谷のご主人でありミーチャのお兄さんでもある人物だから、身近に感じるのだろう。何より、ハリウッドスター顔負けの美貌が、彼を通訳以上の存在に押しあげていた。長谷がおかしなあだ名で呼ぶのも、頷ける。

 すべて、日高のスタッフが手配したことになっていた。これまで知らなかった彼の背景に踏み込む勇気が、私にはまだなかった。
 忙しく開演準備が進むなか、雲田と短く言葉を交わした。ただの挨拶なのに、押しつけがましいわけでもなく、それでいて私の体調を気遣ってくれる優しさに、私はひとときの安堵を覚えた。彼は現実であり、その意味で心強い拠り所でもあった。

「どうしたんですか?」

 腰に下げたポーチを探りながら、目で雲田の鼻辺りを示す。にきびを潰してしまったような小さな傷があったのだ。髭剃りの痕という感じでもない。とにかく、ドウランを塗る前に保護しないと。
 雲田は、気まずそうに肩をすくめて笑った。

「言わすのか?」
「別にいいけど」

 何気なく笑いながら、ハーブ配合のクリームを取り出す。男性は髭剃りで肌を傷めている事が少なくない。殺菌効果も高く清涼感もあって評判がよく、仕事では必ず持ち歩いていた。

「嘘だろ、塗ってくれる?」
「仕事」

 私が塗ったあとを指でなぞり、雲田は声をひそめた。

「寝ぼけて歯ブラシ刺した」
「えっ。しっかりして」

 それが最後だった。
 雲田は、私の現実を粉々に打ち砕いた。
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