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 客席がにぎわい、係員による場内アナウンスが流れる。早く席につき、携帯電話の電源を切り、非常扉の位置を確認し、通路に荷物を置かないように。マフィアの追っ手を勤めるダンサーの数人がお客さんに紛れ込んでいく。間もなく開演だ。私は長い休憩に入る。基本的に自由だ。いつもは、楽しい観劇の時間だった。

 けれど私は控え室に向かった。昨夜から、薬を飲んでいない。今朝とあわせて2回も抜いているのだ。こんなことは未だかつてなかった。それなのに体調がいいというのも、本当ならありえない。私は、本来の自分にすがりたい気持ちがあったのかもしれない。
 通路を曲がったとき、彼を見た。ほんの一瞬。私と反対の角を曲がる、広い背中、黒いコートの裾。いるはずなかった。彼はもう舞台袖でスタンバイしているはずだ。けれど、雲田だった。

 忘れ物ね。私も、同じだもの。
 そう自分を納得させて、目的通りに薬を飲み、客席に向かおうとした。
 足が止まる。

それぞれの楽屋と控え室に設置されたモニターから、劇場内の音が洩れ聞こえる。洒落た、ピアノの前奏。開演を告げる日高のアナウンス。客席に紛れ込んだマフィアの追手組が、駆け落ちしたふたりを探し、徘徊している頃だ。コルネリオとアグネスは、既に人気のなくなったロビーで待機し、照明が落ちメロディーが盛り上がると同時に、中央の客席扉から舞台までを駆け抜ける。胸躍る冒頭のシーン。
 だから、雲田はいるはずがない。
 いるべきではない。

 ぞわりと、胸に嫌な靄が広がる。小道具の紛失という罪を捏造された経験が、これは非常事態だと告げてくる。動悸があがり、汗が湧き出て、私は雲田の楽屋へ急いだ。個室を使っているのは大御所である加納と、日高、長谷、雲田の4人だ。メルキオッレとジャンルイージ役のふたりは相部屋で、あとはダンサーが男女で大部屋に別れ、子役たちは女性ダンサーと一緒にいる。

 雲田の荷物を、あさった。モニターから軽快なメロディーが流れる。役紹介を兼ねた逃亡のダンスシーン。ディーノは間違いなく、舞台上にいる。
 誰も来ない。
 誰にも、見られる心配はない。

 ライダーズジャケットとブーツの間に、それはあった。手に持って、見つめ、動けなくなる。なぜ、これを隠す必要があるの。
 私は走った。どんなに足音が響こうと気にしなかった。上手の舞台袖に続く細い通路を駆け抜け、重い防火扉を開け身を滑らせ、舞台スタッフの怪訝な視線を浴びながら突き進んだ。コルネリオが歌っている。最期のキスが場末のバーかと嘆いている。
 ディーノは、下手から、せりあがった舞台中央で睦みあうふたりを見あげているはずだ。煙草を咥え、平気な顔で仲間を殺し、ふたりの逃亡を助けようと一歩踏み出して、銃声。番狂わせが始まる。カルミネが、コルネリオを撃ったのだ。
 ちょうど戻ってきた。次の出番まで上手待機のメルキオッレが、息を整える。不自然な緊張感が漂っている。やっぱりそうだ。触れると、風船がわれたように、彼はふるえた。私がいることに気づかなかったのもそうだけれど、彼にとってみれば、私こそいるべきではない人物だ。驚いている。

「入れ違ったみたいなんです」

 音響で聞こえるはずないとわかっていて、言った。銃を差し出す。彼は目を見開いてから屈み、私の顔に耳を寄せた。

「備品と、入れ違いの、事故です」

 一言ごとはっきりと区切り、断言する。同時に顔を離すと、彼は舞台からの照明をうけて安堵したように笑っていた。懐から、銃を抜く。私たちはそれを交換した。

「ありがとう。恩にきる」

 てのひらを垂直に立てて、メルキオッレらしくない朗らかな笑みが向けられる。私も笑った。すぐに取って返す。部外者は潔く去るべきだ。
 重い。ずっしりと重くて、怖い。預かった銃を両手で握り締め、急いだ。
 これは、本物だ。
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