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そうだとしても、私にはわからない。雲田が、なぜ、彼らを試さなければならないのか。それが敵意であるとは、思えなかった。思いたくなかった。
楽しく過ごしていた日々は、見せかけだったというの?
ミーチャが私の両腕をさする。覗き込んでくる眼差しは真剣だけれど、管制室の薄い灯りでなぜこうはっきり見えるのか不思議だった。その謎は、舌に梅の味が広がるにつれて、闇にとけた。
「もう怖くないよ」
息がふるえ、涙があふれた。
私は、自分が怖がっていたことにすら、気づいていなかった。
一度泣き出すと、感情はあとから威力を増して、おおげさなほど私の身体をふるわせた。ミーチャが膝をついたまま椅子ごと私を抱きしめ、ぽんぽんと腕を叩いてあやす。しゃくりあげるごとに飴を呑み込んでしまいそうで、私は左の頬におさめた。
「薬をのみに行ったの。そうしたら、彼が……」
「大丈夫だよ」
「彼は、何をしようとしたの? どうしてあなたたちを試すの? 彼は」
「まりえは気にしなくていいよ」
「彼は、どういうひとなの?」
「いいんだよ、まりえ」
《それより、腹が減らないか?》
軽快な口調は、普段の雲田より少し大人びている。
舞台は滞りなく進んでいる。
「セルゲイの不在に、何を仕掛ける。イズル・クモダ」
お兄さんの呟きに、私ははっと息を呑んだ。
終わっていないのだ。彼は、銃をすり替え何かを試そうとしただけではない。先がある。少なくとも、そうであろうという覚悟を持たなければならない。
そこまでして、続ける必要があるのだろうか。この興行はそもそもおかしい。娯楽として楽しみに来ている何百人もの部外者を巻き込んでまで、ポルトノフ氏は何を伝えたかったのだろう。そしてなぜ、放り出してしまったのだろう。
雲田は、壊してしまうつもりなの?
「幕を、下ろした方が……」
なぜなら、銃があった。誰かが、命を落としてしまうかもしれなかった。あと2時間、こんな危険に脅かされるなんてひどい話だ。だれひとりとして、本当の悲劇を望んで足を運んだわけではない。
けれど、お兄さんは静かに返した。
「いいえ」
断固とした口調に、不安を覚える。
一度も、ふり返らない。
愛するひとを危険にさらしているとわかっているからこそ。それなのに。なぜ。
「たとえ悪魔の黙示録であるとしても、人々は魅了されなければならない」
私は凝然と広い背中を見つめた。お兄さんは、私に話しかけている。ミーチャには通じていない。私の視線を追って、ミーチャは首を巡らせた。
「他者の悪夢であるからこそ、群集は酔い痴れる。その昇華はかならず賞賛を呼ぶ。私たちは幕を下ろすわけにはいかないのですよ、毬依さん。彼らの輝かしい未来を守るためにもね。彼らは、もはや昼の空を照らすだけではいられない。闇を裂く閃光でなければ許されない」
なにを、言っているの?
恐ろしかった。別の世界を生きる、違う価値観を持ったひとだった。何百というひとの命を犠牲にしてまで名声を得る。そういう話だと思った。けれど。
「───とは言ってもね。いざというときはあなた、停電ですよ。暗闇の内にすべて片付けてみせます。それはもう穏便にね。心得ていますとも。安全第一、基本です」
「……」
欠落していると感じた概念“安全”の二文字に、“第一”と“基本”までつけられ、わからなくなってしまう。怖いひとだと思ったけれど、極悪非道というわけではなさそう。
そのとき、ミーチャがくるんとこちらを向いて、内緒話のように声を絞った。
「すごーく怒ってる」
確かに、そうかもしれない。
「すばるの晴れ舞台にケチをつけられたくないんだよ」
楽しく過ごしていた日々は、見せかけだったというの?
ミーチャが私の両腕をさする。覗き込んでくる眼差しは真剣だけれど、管制室の薄い灯りでなぜこうはっきり見えるのか不思議だった。その謎は、舌に梅の味が広がるにつれて、闇にとけた。
「もう怖くないよ」
息がふるえ、涙があふれた。
私は、自分が怖がっていたことにすら、気づいていなかった。
一度泣き出すと、感情はあとから威力を増して、おおげさなほど私の身体をふるわせた。ミーチャが膝をついたまま椅子ごと私を抱きしめ、ぽんぽんと腕を叩いてあやす。しゃくりあげるごとに飴を呑み込んでしまいそうで、私は左の頬におさめた。
「薬をのみに行ったの。そうしたら、彼が……」
「大丈夫だよ」
「彼は、何をしようとしたの? どうしてあなたたちを試すの? 彼は」
「まりえは気にしなくていいよ」
「彼は、どういうひとなの?」
「いいんだよ、まりえ」
《それより、腹が減らないか?》
軽快な口調は、普段の雲田より少し大人びている。
舞台は滞りなく進んでいる。
「セルゲイの不在に、何を仕掛ける。イズル・クモダ」
お兄さんの呟きに、私ははっと息を呑んだ。
終わっていないのだ。彼は、銃をすり替え何かを試そうとしただけではない。先がある。少なくとも、そうであろうという覚悟を持たなければならない。
そこまでして、続ける必要があるのだろうか。この興行はそもそもおかしい。娯楽として楽しみに来ている何百人もの部外者を巻き込んでまで、ポルトノフ氏は何を伝えたかったのだろう。そしてなぜ、放り出してしまったのだろう。
雲田は、壊してしまうつもりなの?
「幕を、下ろした方が……」
なぜなら、銃があった。誰かが、命を落としてしまうかもしれなかった。あと2時間、こんな危険に脅かされるなんてひどい話だ。だれひとりとして、本当の悲劇を望んで足を運んだわけではない。
けれど、お兄さんは静かに返した。
「いいえ」
断固とした口調に、不安を覚える。
一度も、ふり返らない。
愛するひとを危険にさらしているとわかっているからこそ。それなのに。なぜ。
「たとえ悪魔の黙示録であるとしても、人々は魅了されなければならない」
私は凝然と広い背中を見つめた。お兄さんは、私に話しかけている。ミーチャには通じていない。私の視線を追って、ミーチャは首を巡らせた。
「他者の悪夢であるからこそ、群集は酔い痴れる。その昇華はかならず賞賛を呼ぶ。私たちは幕を下ろすわけにはいかないのですよ、毬依さん。彼らの輝かしい未来を守るためにもね。彼らは、もはや昼の空を照らすだけではいられない。闇を裂く閃光でなければ許されない」
なにを、言っているの?
恐ろしかった。別の世界を生きる、違う価値観を持ったひとだった。何百というひとの命を犠牲にしてまで名声を得る。そういう話だと思った。けれど。
「───とは言ってもね。いざというときはあなた、停電ですよ。暗闇の内にすべて片付けてみせます。それはもう穏便にね。心得ていますとも。安全第一、基本です」
「……」
欠落していると感じた概念“安全”の二文字に、“第一”と“基本”までつけられ、わからなくなってしまう。怖いひとだと思ったけれど、極悪非道というわけではなさそう。
そのとき、ミーチャがくるんとこちらを向いて、内緒話のように声を絞った。
「すごーく怒ってる」
確かに、そうかもしれない。
「すばるの晴れ舞台にケチをつけられたくないんだよ」
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