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しおりを挟む「そんなこと言ってる場合じゃ……」
わずかな灯りのなか、ミーチャが微笑んだ。
「イズルは強かだ。上演中に誰か殺しても、得るものはないよ」
「だから平気だって言うの?」
「復讐や暴動を企てる奴は、あんなに冷静でいられない。イズルの目的は破壊じゃないよ。たぶん、銃のことは、何人気づくか、誰が気づくか、確かめたかったんだと思う」
「私が気づいたわ。彼は、私を、どうしたいと思うの?」
「大丈夫だよ、まりえ。僕がそばにいるから。怖くないよ」
「私に、声をかけたの。あれは嘘ね。でも私から得るものもないでしょう?」
ふしぎと、胸が張り裂ける。彼に抱いていたのは、好意だった。信頼だった。友情だと思っていた。けれど彼の気持ちが純粋なものではなかったとわかったとたん、私は、深く傷ついていた。
変なの。
約束を、拒んだのに。
ミーチャが手を伸ばし、私の頬を包んだ。
「ハラハラしたよ。まりえが口説かれてるのを見てた」
「っ!」
さっき、胸が張り裂けたと思ったけれど、気のせいね。
想いを寄せる相手に、別の男性との場面を見られていたなんて。羞恥と、後悔と、悲しみと淋しさに呑み込まれる。私はとても、ずるかった。好意は受け取らないけれど、好意を抱いてくれる雲田との空気を心地よく感じた。それは、彼の真意とまったく関係のないことだ。私の、人間性の問題だった。
何も言えなくなった私に、ミーチャは優しかった。彼は私の髪を撫で、頬をつつみ、微笑を崩さず、のぞき込むように首を傾げた。
「まりえ、怖くない。僕が、傷つけさせないよ。大丈夫」
やっぱり、夢でないほうがおかしい。
まるで、映画のヒロインみたい。この私が。まさか。
喜びは恐れを多い隠してしまう。私は、洟をすすりながら、微笑んで頷いていた。でも、夢にしては物事が細かく、時系列は整いすぎているし、長い。それに、彼を疑いたくなかった。私は、彼に、信じると誓った。
「あなたを信じてる」
この夢から覚めて心を打ち砕かれようと、それがなんだというの。
ミーチャが私のうなじを包み、引き寄せる。前屈みになると、こつんと額があわせられた。子犬がじゃれているようで、とても優しい。
再び、静寂が包まれる。影のカルミネを勤めるダンサーが、仮面で顔を隠し、メルキオッレを暗殺するシーンだ。銃声に怯えると、お兄さんが、間違いなくお芝居の小道具だと請け負ってくれた。ミーチャは背中を叩いてあやしてくれる。カルミネはロザリオを奪い返し、アグネスを迎えに行く。
雲田は、何がほしいのだろう。
何を、取り戻したいのだろう。
ふとそんなことを思った。
レストランでの食事のシーンが始まる。ホテルの従業員たちが上品な群舞を見せ、直前の復讐を忘れさせる。ディーノは、コルネリオとアグネスを育てた孤児院の牧師だ。この食事の最中も、彼はおどけながらときおり父性を垣間見せる。
コルネリオも、観客も、この時点では騙されている。ディーノはアグネスを愛している。だから駆け落ちに手を貸している。もしかすると、コルネリオからアグネスを奪おうと企んでいるかもしれない。そう思わされる。
けれど違う。
アグネスとの“過去”はすべて嘘だ。ランジェリー風の衣装で仮面をつけて踊る長谷は、セクシーだけれどやはり道化で、馴れ初めを聞いたコルネリオはすっかり騙され、いじけ、酔い潰れていく。
ディーノが歌い上げる軽快なジャズのナンバーに乗せダンスがすむと、アグネスは仮面をウェイターに預け、すとんと席についた。
《お前なんかに、わかってたまるか》
お酒に淀む、低い声。コルネリオが、ディーノにからむ。
《俺は、ぜんぶ棄てたんだ。アグネスのために。アグネスと生きるために》
哀愁をさそう前奏にあわせコルネリオが立ちあがり、熱い眼差しが過去をなぞる。観客は気づき始める。アグネスは、コルネリオを愛していない。逃げるための道具でしかない。その証拠に、アグネスは酔ったコルネリオを置いてさっさと部屋へ引きあげてしまう。歌の後半、ダンスの相手はディーノに変わっている。
完璧にディーノを演じるあなたは、いま、何を思っているの?
応援ありがとうございます!
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