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一幕が終わり休憩に入る。客席があかるくなると同時に、ざわめきと、歓声が沸きあがった。日高のファンは何公演でも見に来るし、開幕以前から高水準なダンスシーンが話題になっていたこともあって、リピーターが多い。だから、今日はディーノが主役だと気づいたのだ。それは、何も知らない彼女たちにとってみれば、サプライズだった。
荒い足音が聞こえた。勢いよくあいた扉からアグネスが飛び込んでくる。走ってきたのだとしても、早い。
「ああ、コシュカ」
両手を広げたご主人の胸に、彼女は突進した。衝突するような抱擁を見つめる。長谷の恐怖が伝わってきた。いつも明るい彼女の怯えた様子に、私は息を呑んだ。
「よく頑張りましたね」
「お、おもしろかった?」
「ええ、とても。ほら、見て御覧なさい。ニ幕を待ち望み、興奮している。あなたが守った人々ですよ」
低く嗄れた声で、優しく窓の下を示す。
「あなたのことは私が守ります。必ずね。だから安心して」
私の指をからめとりながら、彼が立ちあがる。傘を持つような、買い物袋を提げるような中途半端な角度で腕をあげ、少し戸惑った。見あげると、真剣な眼差しで長谷に何か言っている。
「雲田と話してる」
余裕がないのか、彼女は日本語で答えた。ご主人がそれを訳し、隣で、彼が頷いた。
兄弟は矢継ぎ早に言葉を交わし、何度か頷き合った。声がそっくりだと思っていたけれど、こうして同じ言語で会話しているのを聞くと、口調がまったく違うと気づく。
「昴さん」
唐突な呼びかけが、話し合い終了の合図だった。
「すべての非常扉に人員をあて避難経路を確保します。何か起きても、誰にも、傷ひとつ負わせません。いいですね。日高辰生にもそう伝えて」
「わかった」
「いってらっしゃい、コシュカ」
深い口付けをうける長谷は、アグネスの恰好のせいか、とびきりヒロインらしく見える。まるで、映画のラブシーンに立ち会っているような気持ちにさせられた。うっとり、夢見心地を味わうくらい。けれど彼女は小さくガッツポーズを決めると、小刻みに頷きながらご主人から離れ、私の前に立った。
「べったりくっついてるんだよ? わかった?」
キスのあとの熱っぽい表情で、私に指を突きたてる。
「え、ええ。わかったわ」
驚いて、手を繋いでいる気恥ずかしさも吹き飛んだ。彼女はまた何度も頷いて、身体の脇で拳をふるわせた。
「……行ってくる」
「ええ」
「また、あとで」
「ええ。あとで」
「よし」
来た時と同じ勢いで、彼女は管制室を出て行った。わずかの沈黙をはさみ、ご主人が深い溜め息をつく。色めき立つ客席を見おろした紫色の瞳が、すいと私を捕えた。わずかに目を伏せた憂いを帯びた表情は扇情的で、思わずどきりとする。
「あなたに、お任せしてよいですか?」
「えっ」
私が驚くと、隣でミーチャがそわそわと身じろぎし、繋いでいた手にもう片方のてのひらをかぶせた。
「あなたほどの優れた語学力がなければ、弟の指示はスタッフに伝わらない。お願いです、毬依さん。私を行かせてください」
当然だと思った。このひとは、長谷を愛している。守ると約束した。だからもう、ここから眺めているわけにはいかない。私は見つめあったまま立ちあがり、頷いた。
「はい。できます」
「ありがとう」
一瞬で私の頬にキスをすると、彼もまた、小さな管制室から姿を消した。
荒い足音が聞こえた。勢いよくあいた扉からアグネスが飛び込んでくる。走ってきたのだとしても、早い。
「ああ、コシュカ」
両手を広げたご主人の胸に、彼女は突進した。衝突するような抱擁を見つめる。長谷の恐怖が伝わってきた。いつも明るい彼女の怯えた様子に、私は息を呑んだ。
「よく頑張りましたね」
「お、おもしろかった?」
「ええ、とても。ほら、見て御覧なさい。ニ幕を待ち望み、興奮している。あなたが守った人々ですよ」
低く嗄れた声で、優しく窓の下を示す。
「あなたのことは私が守ります。必ずね。だから安心して」
私の指をからめとりながら、彼が立ちあがる。傘を持つような、買い物袋を提げるような中途半端な角度で腕をあげ、少し戸惑った。見あげると、真剣な眼差しで長谷に何か言っている。
「雲田と話してる」
余裕がないのか、彼女は日本語で答えた。ご主人がそれを訳し、隣で、彼が頷いた。
兄弟は矢継ぎ早に言葉を交わし、何度か頷き合った。声がそっくりだと思っていたけれど、こうして同じ言語で会話しているのを聞くと、口調がまったく違うと気づく。
「昴さん」
唐突な呼びかけが、話し合い終了の合図だった。
「すべての非常扉に人員をあて避難経路を確保します。何か起きても、誰にも、傷ひとつ負わせません。いいですね。日高辰生にもそう伝えて」
「わかった」
「いってらっしゃい、コシュカ」
深い口付けをうける長谷は、アグネスの恰好のせいか、とびきりヒロインらしく見える。まるで、映画のラブシーンに立ち会っているような気持ちにさせられた。うっとり、夢見心地を味わうくらい。けれど彼女は小さくガッツポーズを決めると、小刻みに頷きながらご主人から離れ、私の前に立った。
「べったりくっついてるんだよ? わかった?」
キスのあとの熱っぽい表情で、私に指を突きたてる。
「え、ええ。わかったわ」
驚いて、手を繋いでいる気恥ずかしさも吹き飛んだ。彼女はまた何度も頷いて、身体の脇で拳をふるわせた。
「……行ってくる」
「ええ」
「また、あとで」
「ええ。あとで」
「よし」
来た時と同じ勢いで、彼女は管制室を出て行った。わずかの沈黙をはさみ、ご主人が深い溜め息をつく。色めき立つ客席を見おろした紫色の瞳が、すいと私を捕えた。わずかに目を伏せた憂いを帯びた表情は扇情的で、思わずどきりとする。
「あなたに、お任せしてよいですか?」
「えっ」
私が驚くと、隣でミーチャがそわそわと身じろぎし、繋いでいた手にもう片方のてのひらをかぶせた。
「あなたほどの優れた語学力がなければ、弟の指示はスタッフに伝わらない。お願いです、毬依さん。私を行かせてください」
当然だと思った。このひとは、長谷を愛している。守ると約束した。だからもう、ここから眺めているわけにはいかない。私は見つめあったまま立ちあがり、頷いた。
「はい。できます」
「ありがとう」
一瞬で私の頬にキスをすると、彼もまた、小さな管制室から姿を消した。
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