上 下
88 / 127

087

しおりを挟む
 一幕が終わり休憩に入る。客席があかるくなると同時に、ざわめきと、歓声が沸きあがった。日高のファンは何公演でも見に来るし、開幕以前から高水準なダンスシーンが話題になっていたこともあって、リピーターが多い。だから、今日はディーノが主役だと気づいたのだ。それは、何も知らない彼女たちにとってみれば、サプライズだった。
荒い足音が聞こえた。勢いよくあいた扉からアグネスが飛び込んでくる。走ってきたのだとしても、早い。

「ああ、コシュカ」

 両手を広げたご主人の胸に、彼女は突進した。衝突するような抱擁を見つめる。長谷の恐怖が伝わってきた。いつも明るい彼女の怯えた様子に、私は息を呑んだ。

「よく頑張りましたね」
「お、おもしろかった?」
「ええ、とても。ほら、見て御覧なさい。ニ幕を待ち望み、興奮している。あなたが守った人々ですよ」

 低く嗄れた声で、優しく窓の下を示す。

「あなたのことは私が守ります。必ずね。だから安心して」

 私の指をからめとりながら、彼が立ちあがる。傘を持つような、買い物袋を提げるような中途半端な角度で腕をあげ、少し戸惑った。見あげると、真剣な眼差しで長谷に何か言っている。

「雲田と話してる」

 余裕がないのか、彼女は日本語で答えた。ご主人がそれを訳し、隣で、彼が頷いた。
 兄弟は矢継ぎ早に言葉を交わし、何度か頷き合った。声がそっくりだと思っていたけれど、こうして同じ言語で会話しているのを聞くと、口調がまったく違うと気づく。

「昴さん」

 唐突な呼びかけが、話し合い終了の合図だった。

「すべての非常扉に人員をあて避難経路を確保します。何か起きても、誰にも、傷ひとつ負わせません。いいですね。日高辰生にもそう伝えて」
「わかった」
「いってらっしゃい、コシュカ」

 深い口付けをうける長谷は、アグネスの恰好のせいか、とびきりヒロインらしく見える。まるで、映画のラブシーンに立ち会っているような気持ちにさせられた。うっとり、夢見心地を味わうくらい。けれど彼女は小さくガッツポーズを決めると、小刻みに頷きながらご主人から離れ、私の前に立った。

「べったりくっついてるんだよ? わかった?」

 キスのあとの熱っぽい表情で、私に指を突きたてる。

「え、ええ。わかったわ」

 驚いて、手を繋いでいる気恥ずかしさも吹き飛んだ。彼女はまた何度も頷いて、身体の脇で拳をふるわせた。

「……行ってくる」
「ええ」
「また、あとで」
「ええ。あとで」
「よし」

 来た時と同じ勢いで、彼女は管制室を出て行った。わずかの沈黙をはさみ、ご主人が深い溜め息をつく。色めき立つ客席を見おろした紫色の瞳が、すいと私を捕えた。わずかに目を伏せた憂いを帯びた表情は扇情的で、思わずどきりとする。

「あなたに、お任せしてよいですか?」
「えっ」

 私が驚くと、隣でミーチャがそわそわと身じろぎし、繋いでいた手にもう片方のてのひらをかぶせた。

「あなたほどの優れた語学力がなければ、弟の指示はスタッフに伝わらない。お願いです、毬依さん。私を行かせてください」

 当然だと思った。このひとは、長谷を愛している。守ると約束した。だからもう、ここから眺めているわけにはいかない。私は見つめあったまま立ちあがり、頷いた。

「はい。できます」
「ありがとう」

 一瞬で私の頬にキスをすると、彼もまた、小さな管制室から姿を消した。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

私を追い出すのはいいですけど、この家の薬作ったの全部私ですよ?

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:104,508pt お気に入り:12,083

婚約破棄されたおかげで素敵な元帥様と結ばれました

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:450

私たち婚約破棄をされまして ~傷の舐め合いが恋の始まり~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:281

後宮の隠れ薬師は、ため息をつく~花果根茎に毒は有り~

キャラ文芸 / 連載中 24h.ポイント:5,823pt お気に入り:662

星空のコシュカ

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:37

離婚したい! ~逃走中の恋愛は命懸けに見えて最高でした~

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:246

処理中です...