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しおりを挟むミーチャとふたりきりになる。浮かれてしまいそうな心に蓋をして指示用のマイク前に立ち、客席を見おろした。長谷が守った人々。私には、あまりその意味がわからなかった。私にとっての芸術と、彼らにとっての芸術は、まったく違う価値観の上に存在している。そんな気がした。でも、私が立つべき場所は、彼らの舞台なのだ。
「まりえ」
デスクに手をつき、覆い被さるように、ミーチャが真後ろに立つ。あたたかな壁に守られているという感覚が、深く、私の心に刺さった。私たちは誓い合った。愛しあってはいないけれど、それがなに。彼に救われた命を彼に捧げて、何が悪いの。
「変な噂がたつわ」
まるで抱きしめるようにして彼はぴったりと身体を密着させた。頭に鼻があたる。男性だと思うと気が散ってしまうので、大きな犬に甘えられているのだと思い込むことにした。ぐいぐいと、彼の力で頭が傾ぐ。
「噂?」
「以前、日高さんと続けて仕事をしたときも」
「まりえ」
低い声が耳をくすぐる。くらり、と客席がゆれた。決して強くはない力で、けれどほどけない腕の中にとじ込められる。頬擦りが、頭から耳、頬におりてくる。視界の端に高い鼻が見えた。頬が熱い。平気なふりなんてできない。
「今は僕といるの」
「え……ええ、そうね」
「これからも僕といよう。僕と、噂になろう」
「…………」
彼が、私を特別扱いしだしたのは、罪悪感からだ。昨夜はたしかにそう感じた。父と似ていたから。けれど今は、何か、勘違いをしてしまいそうな熱が、彼の身体からたちのぼっている。このまま、キスをしてくれたら。長谷のように、だれかの特別な女性になれたら。私が、彼の、特別な───
開演を報せるブザーが響く。
私は、お腹にまわった彼の腕を軽く叩いた。
「私、わからないわ、このマイク。教えて」
「なんで?」
「お兄さんの代わりに、私があなたの指示を照明や音響スタッフに伝えるの。野辺さんの代役が私に回ってきたのよ」
「ああ。ラーチカは行っちゃったからね。レフだよ」
「え?」
一幕とは違い、ニ幕は不穏に導かれる。死を誘うような間延びした弦の音色とともに、客席に影がおりていく。冒頭は、バルトロメアがカルミネを銃殺した瞬間から始まるのだ。
仕事を、しなくては。
「ノベは、レフ・シチェコチヒンっていうんだ」
「え? シチュ、チェ……?」
「シチェコチヒン」
「シュチュコテ……?」
「僕がしてあげる」
くすりと笑って腕をほどき、彼が機材に手を伸ばした。私は暗闇のなか、彼の身体に、閉じ込められた。
物語り後半は覚悟していたほどの変更はなく、雲田もいつものディーノを演じていた。私はミーチャの指示を一言だけ、舞台スタッフに伝えるだけでよかった。ディーノに合わせて。
それでも、前半の演技を変えたことで、ディーノの台詞のもつ意味合いは微妙な変化を持たざるを得なかった。本当ならこの話は、ディーノとアグネスの、互いを逃がすという交換条件のもとに成り立っていた。けれど今日のディーノは、完全に、かつては愛していた孤児たちを捨て駒にしている。コルネリオさえいれば、あとはどうでもいいのだ。
最後の銃撃戦。カルミネを殺され復讐鬼と化したアグネスは、全身血に濡れた衣装でディーノとコルネリオの前に立ち塞がり、子ども時代を思い出す。鬼から少女に帰る瞬間は、ディーノに利用されているという前提があってこれまでにない純真さを弾き出した。囮になったアグネスを見捨て、ディーノはコルネリオを促し、庇い、倒れた。
コルネリオひとり、生き残る。
仰向けに倒れたディーノの傍らで膝をつき、呆然とその身体を見つめている。一幕のラストシーン、孤児院襲撃直後のふたりをなぞるように。ここまで何かと口説かれているコルネリオは、ディーノに別れの口付けを捧げるはずだった。
けれど、日高は、雲田の胸を容赦なく叩いた。
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