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しおりを挟む食堂は壁もテーブルも白く、観葉植物でもあれば洗練された雰囲気になりそうだけれど、とにかく殺風景で、キャパシティは300人前後といったところ。一面の窓には紺碧の夜空が広がる。贅沢。他でもないその単語が頭に浮かんだ。
「おなかは空いてない?」
翠の瞳が印象的な女性は確かに西洋人に見えるけれど、よくよく見てみると、私は彼女にも会ったことがあった。人酔いをしたとかで、楽屋で倒れたあのひと。日高の、お兄さんの婚約者。ふたりとも船で亡くなったはずの人たちだ。日高の活動休止はなんだったのだろう。私の人生を変えたあのできごとは、なんだったのだろう。
そう。嘘だった。
大きな大きな、恐ろしい嘘だったのだ。
夢のような話。
「だいじょうぶです」
答えると、彼女は少し微笑んだ。背は高い方だけれど、全体的にふんわりとした優しい雰囲気で親しみを感じる。もうひとり、ルートと呼ばれた女性は、少し怖い。彼女の人柄どうこうではなく、同じ場所に立ちたくないという恐れだった。土気色の顔で目をぎらつかせ、明らかに錯乱していた。彼女はイチカという少女に付添われ、玄江と一緒に別の部屋に向かったので今ここにはいない。
カウンターの近くで、適度な距離をあけて同じテーブルにつく。すかさず、日高と同じ声が私の名前を呼んだ。
「毬依」
「!」
驚いて、息が止まる。クラウゼヴィッツと彼が呼ぶ日高のお兄さんは、動揺する私に思いのほか真摯な眼差しを向けていた。
「体調は? なにか困った事は?」
「だいじょうぶです」
芸の無い返し。まるで生返事のようで、慌てて付足す。
「むしろ以前よりずっといいくらい」
「そうか」
それきり会話は続かず、一瞬の沈黙が落ちた。
隣に座るミーチャと目を合わせる。彼は、私を安心させるためなのか、自分が安心するためなのか、曖昧で弱い微笑みを浮かべていた。ここには、彼を傷つけるものしか存在しないのだと悟った。
私は、彼を勇気づけるために、心からの笑顔を向ける。
残念なことに、彼のお兄さんがいない。どうしても確かめたい事があったのだけれど、それは今夜叶わないかもしれない。
遠くで自動ドアが静かに唸り、少女と例のルートが入ってきた。玄江はいない。ふたりは首にロザリオをさげていて、少女のほうが手にもう2つ同じ物を巻きつけている。
「先生!」
少女は元気いっぱいだ。ルートも、朗らかな表情をしている。顔色がひどいだけで、妖艶な美女だと気づいた。ふたりが並んでいるのは、私とミーチャのようにアンバランスだった。
「お待たせしました」
少女はロザリオのひとつを“クラウゼヴィッツ先生”に手渡しした直後、困ったような顔で固まり、ぎこちなく私たちのほうに向いた。恐る恐る、彼に手を伸ばす。小さな手の下でゆれるロザリオはとてもメタリックで、薄弱な信仰心を窺い知ることができる。だいたい牧師はロザリオを持たない。知らないのではなく、わざとだろう。神を信じていないか、神に反抗しているか。
彼の大きな手が受け皿になると、鎖が音を立てながら渦を巻き、落ちた。少女は本当に困り果て、何かを言いたそうな顔でミーチャを数秒見つめたけれど、結局言葉は出てこないようだった。
「ユーリアの隣」
ルートが嬉しそうにつぶやいて、丁寧に椅子を引いて座る。秋月の恋人はルートにユーリアと呼ばれているようだ。
少女がハッと我に返った。それからカウンター内に走り、巨大な冷蔵庫を開け、何かをカップに注ぎ、レンジにかけた。私がレンジにかけたとわかったのは、ドアを開閉する音と、ピピピという設定音が聞こえたからだった。2分後、少女は私の前にホットミルクを置くと、また何を言ったらいいかわからないという顔で固まってしまった。そのとき、間近で見て私は少女の瞳が純粋な東洋人の色合いでないことに気づいた。薬として作られた子どもだと聞いている。残酷な真実だけれど、まさに天真爛漫といった様子に、私は少し安心した。
「ありがとう」
小さく告げる。少女は最初ぎこちなく笑ったけれど、すぐに、照れたような可愛い笑みを浮かべた。中学生くらいの、普通の女の子に見える。バランスを考えたのか、私のひとつ隣に座った。そして少女は唐突に首を回し、天井の一角に無邪気な笑顔を向けた。ぞくりとする。まるで幽霊に話しかけるような仕草だった。もしくは、空想のお友だちに。
次の瞬間、玄江の声がフロア全体に響き渡った。
《それは赤外線だ、バーカ》
「知ってるもん! いちばん近いからですぅ~」
ぐっと身を屈めたミーチャが、私の顔の下から天井を見あげ、次々と方々を指差す。監視カメラと赤外線センサーとスプリンクラーの位置を説明してくれたけれど、私はといえば、呆然と聞き流すことしかできなかった。まるでスパイ映画みたい。彼は防犯カメラとは言わなかった。それは、私にある考えを閃かせた。
玄江がドイツ語に切り替えた。
《始めるぞ。まずテストだ。十字横棒の左にスイッチがある。押してくれ》
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