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 クラウゼヴィッツと呼ばれる日高のお兄さんを誰ととらえるか、私は迷っていた。日高の以前の芸名がお兄さんの本名だと聞いたことがあったからだ。私にとって、兄弟はふたりとも“アキヅキレオ”で、やっと歌手の秋月さんを日高と呼ぶのに慣れたのに、ここへきて違う男性を以前の名で呼びかけるのは違和感がある。現在はクラウゼヴィッツという姓で牧師をしていることから、少女や顔色の悪いルートから“先生”と呼ばれている。でも彼は、はっきりと名乗った。私は、それに倣うことに決めた。
 心で呼びかけるだけなら、馴れ馴れしくもないし、気後れも必要ない。

 秋月とイチカが指示に従い、ルートはユーリアの手伝いがあってたどたどしくスイッチを押した。私の隣では、ミーチャも同じ事をしている。

「何も起きない」

 秋月が呟き、イチカに目配せする。イチカはあっけらかんとした笑顔を浮かべている。

《起動しねえよ。包囲したらこれで俺に合図を送れ》
「必ずしも彼の見える場所で始まるとは限らないからね」

 ミーチャが耳元でささやき補足してくれるのだけれど、あまり意味はない。秋月とルートを見ながら彼の方に顔を傾け、同じように声をひそめた。

「何の装置なの?」
《起動する》

 見た目にはまったく変化がなかった。音がするわけでもなく、果たして本当にスイッチが押されたのか判断できそうに無い。そもそも私は、ミーチャののんびりした返事を聞くまでこれがどんな効果を齎す何の装置なのかも知らないのだ。ミーチャは私に説明する前に、起動後の様子を沈黙の中で確認しているようだった。

 静かに待とう。そう思ったとき、変化は突然、起きた。

 胸をかきむしり、私は、額から机に激突した。体中の血が、砂が崩れるようにさっと足元へ下る感覚があった。胸というより肺全体に激痛が走り、とても呼吸はしていられない。倒れないのは椅子に座っていたからだ。汗が噴出した。耳鳴りがひどい。

「やめてくれ! だめだ! やめろ!」

 ミーチャが私を抱きかかえ、叫んだ。
 その瞬間に、苦痛は去った。ふるえる息を整えながら、彼に抱き起こされ、顔にはりついた髪を丁寧によけてもらいながら、私はただ呆然としていた。視界の隅で、イチカが立ち上がり天井を見あげていた。

《悪い。迂闊だった。ほんとにごめん》

 私に向けられた謝罪なのは明らかだ。でも、なぜ。

《大丈夫か?》

 気遣わしげな玄江の声に、深い後悔があった。私はミーチャの腕の隙間から、イチカが見ている方に視線を向け、できるだけ声を張った。

「平気です」
「平気じゃないよ。まりえ、痛くない? もう痛くない?」

 いちばん取り乱しているのはミーチャだ。本当に、始まりも終わりも突然の苦痛だった。今は息があがっているだけ。けれど彼の腕のなかが心地よかったので、私は余裕をみせているようなそぶりで太い腕をぽんぽんと叩いた。

 秋月が視線を合わせてくる。隣にいたはずの女性は、カウンターの向こうで水音を立てていた。ルートも心配そうに私を見ている。

「磁場を狂わせる装置なんだ」

 秋月は厳しい表情でそう言ったけれど、青い瞳の奥には私への優しさもあった。よくわからないけれど、このひとも私に申し訳なく思っているらしい。理由は続く説明で明らかになった。

「化物たちの飛行を妨害するために作った。奴らの原動力は磁場だ。ごめん。ドミトリーの血で治療した身体のことを、きちんと考えてやれなかった」
「わかりました」

 抱えられ、頭にほお擦りされながら、髪を撫でることで顔の前をいったりきたりする彼の腕を掴んで止める。秋月は、彼らの原動力が磁場だと言った。だとしたら私の原動力は怒りだ。私の視線を、秋月は真摯な眼差しで受け止めている。けれど、それでは気がすまない。

「私は大丈夫です。ただ、訂正してください」


 よほど意外だったのか、先生はぽかんとした。

「彼らは化物ではないわ。人間です。訂正してください」

 そのときユーリアが戻ってきて、私に冷たいおしぼりを渡してくれた。

「ダンケ」
「悪かった。訂正する」

 私の声と秋月の声が重なり、ユーリアが首を傾げた。ミーチャがそっと私を抱えなおし、耳の上辺りに唇をおしつけてくる。どきどきしていると知られてはいけない。私は、秋月の謝罪が真心からのものなのかを推し量るようなふりをして、ごまかした。

「ありがとうまりえ。でも僕らを見たら、クラウゼヴィッツがそこまで嫌な奴じゃなかったってわかるよ。ありがとう」

 耳元にふる彼の声に、頬が熱くなる。

 でも、これについて気持ちは変わらない。彼らは、彼のお姉さんも含め、恐ろしい実験の被害者だと私は思っている。ニコラという少女を襲ってしまったのは事実だけれど、彼が私を救ってくれたように、本当はその不幸な力で何かを成し遂げようとしているのかもしれない。

 もちろん、楽観視はできない。本来の標的であるイチカを守る為に作られた装置ということもわかる。それに彼は、いずれは私も襲われると恐れているのだ。口を挟み、秋月を非難したことを少し反省した。

 そのときふいに、彼の腕の感触から咲良に襲われた夜の事を思い出した。あの夜のことを夢だと思っていたし、今は、あれ以降のことは夢かもしれないと疑っている。今この瞬間も含めて。
 彼の腕の感触。

 力強く、しっかりと抱えられて、空を飛ぶ夢。
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