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私は改めて秋月の目を見た。
「私の体質では参考にならないかもしれないけれど、飛行以外にも影響を与えられそうとわかってよかったのでは」
「ニェット」
ミーチャが厳しい一言を発した。
「作戦を変更する。絶対に許さない」
聞いたことのない、冷たく断定的な口調に驚いた。普段の可愛い大型犬のような彼からは想像もできないほど、絶対的な権力を誇示する態度だった。もちろん、振付師の彼とも別人だ。場の空気が張り詰め、秋月も険悪な表情で彼を睨んだ。
私のせい。
けれど、気にしないことにした。
「包囲したら合図をということは、問題は私の位置なのよミーチャ。だいじょうぶ」
「だめだ」
「いいのよ。ちょっと離して、むこうの壁のところへ行ってみたいの。せっかくだもの、範囲を計測しておくべきよ。相手は動き回るのでしょう?」
「まりえ」
「必要なことなのよ、ミーチャ」
ミーチャの力に逆らって立ち上がろうとする私に代わり、秋月が席を立った。その表情は傷つき、怒りにふるえているように見えた。
「冗談じゃない。そんな実験はできない」
「クラウゼヴィッツもそう言ってる。ここはまりえが引くべきだ」
「お願いします」
私は天井に向かって叫んだ。
イチカがテーブルにのりあげて膝で渡り、秋月の後ろに隠れた。私が陥っている“包囲”を解いてくれたのだ。それから、覗うように天井をみつめた。彼の采配にかかっている。
やがて渋々とその声は流れた。
《あー……結論から言うと、包囲外には影響はないはずだ》
私はほっと力を抜いた。よかった。邪魔にならない。
《だから計測の必要もねえし、極論、3人でもいい》
秋月が席につき、隣の椅子をひいてイチカを座らせた。気が楽になった私はまたミーチャの腕をぽんぽんと叩いたけれど、彼の怒りは収まらなかった。
「やっぱりまりえは身を差し出そうとする」
「ごめんなさい」
根本では彼が恐怖と闘っているのだとわかり、素直に謝った。ひとまず安全が保証されたからか、彼の腕は私の手で充分動かせるようになり、私はお詫びの気持ちを込めて、手の甲にさっと口づけた。天井を見あげていたイチカの隣で、秋月が目を瞠った。
見られても気にしない。大切なのは、ミーチャの心。傷つきやすい彼の心だ。
意外にも、話を戻したのは秋月だった。なんでもない様子で目を逸らし、頬杖をつくと、ロザリオをつまんで目の前にぶらさげた。
「ということは、一人は常に戦闘に回れるのか」
《ああ。そもそも影響をうけないお前が適任だと思うけど、馬力の面ではルートを投入って手もありだ。ただ……不調を感じたらすぐ引いてくれ》
「ベストを尽くします」
ルートからは年齢よりもひどく幼い、もっと言えば知的障害者の雰囲気を感じる。最初の部屋で見たイチカの叱り方は、動物の訓練のようだった。ニコラを失い精神の均衡が崩れてしまったのかもしれない。
《解除の合図は、さっきのスイッチを長押ししてくれ。2秒以上だ》
「僕らの力を有効活用したほうがいい場合もある」
腕をといたあと、彼はテーブルの下で手を握ってきた。つかまえるようでもあったし、すがるようでもあった。私は親指でごつごつした関節を撫でていた。そんな彼の声は冷徹で、おっとりした口調でも力強い。
《基本はお前たちに従う。極端に離れた場所だったり、状況によって判断してくれ。イチカとドミトリーから同時期に合図があった場合は、緊急要請扱いで即解除する。だから変に交換するなよ》
「わかった」
《俺からの説明は以上だ。このまま回線は繋いでおくから、戦闘プランを練ってくれ》
秋月が立ち上がり、ホワイトボードを引いてくる。既に一度使用したらしく、四隅に黒い汚れ残っていた。秋月は一度ペンを置き、四隅の汚れを綺麗にしてから改めてキャップを捻った。
「陣を組んでいるのを悟られたくない。狙いはイチカだ。ルートが護衛、俺が攻撃手を装う。ドミトリーは───」
「一花ですッ☆」
秋月の真剣な声に対して、イチカは照れ笑いにゆるむ頬をぱしんとてのひらで挟み、身を捩って別のペンで名前を書いた。少女は、確かに日本人に見える。そんな事があるのだろうか。薬として遺伝子配合され、作られて、保護されてここにいるはず。
私が考え込んでいる間に、ミーチャも含め闘いに備え集中していた。私はなぜか、玄江が中立的な立場であるような気がした。指示を出している以外、彼は比較的好意的で、信頼されているようだったし、なにより冷静だ。
私は席を立った。
視線が集中するなかで、ミーチャの手が力強く私の腕を掴んだ。
「お手洗いに行きたいの」
だとしてもこの手は離せないと言うように、親指がごしごしと肘の内側を撫でた。私が、と日本語で小さく言ってユーリアが立ちあがる。ひろの、という名前のはずだ。日高が親友だと言っていたのを思い出した。私は微笑を返した。
「だいじょうぶだと思います。来る途中にパネルを見たし、道を間違えても彼が教えてくれるだろうから」
そう言って天井を指差す。イチカは出入り口のひとつを指差して、詳しく場所を教えてくれた。
「そこを右に出てふたつ目の角を左がいちばん近いです」
「ありがとう」
秋月が説明を再開する。恥ずかしそうに目をそらしながら笑って見せると、ミーチャも渋々、手を離してくれた。
けれど私は、ふたつ目の角を越え、走り出した。
「私の体質では参考にならないかもしれないけれど、飛行以外にも影響を与えられそうとわかってよかったのでは」
「ニェット」
ミーチャが厳しい一言を発した。
「作戦を変更する。絶対に許さない」
聞いたことのない、冷たく断定的な口調に驚いた。普段の可愛い大型犬のような彼からは想像もできないほど、絶対的な権力を誇示する態度だった。もちろん、振付師の彼とも別人だ。場の空気が張り詰め、秋月も険悪な表情で彼を睨んだ。
私のせい。
けれど、気にしないことにした。
「包囲したら合図をということは、問題は私の位置なのよミーチャ。だいじょうぶ」
「だめだ」
「いいのよ。ちょっと離して、むこうの壁のところへ行ってみたいの。せっかくだもの、範囲を計測しておくべきよ。相手は動き回るのでしょう?」
「まりえ」
「必要なことなのよ、ミーチャ」
ミーチャの力に逆らって立ち上がろうとする私に代わり、秋月が席を立った。その表情は傷つき、怒りにふるえているように見えた。
「冗談じゃない。そんな実験はできない」
「クラウゼヴィッツもそう言ってる。ここはまりえが引くべきだ」
「お願いします」
私は天井に向かって叫んだ。
イチカがテーブルにのりあげて膝で渡り、秋月の後ろに隠れた。私が陥っている“包囲”を解いてくれたのだ。それから、覗うように天井をみつめた。彼の采配にかかっている。
やがて渋々とその声は流れた。
《あー……結論から言うと、包囲外には影響はないはずだ》
私はほっと力を抜いた。よかった。邪魔にならない。
《だから計測の必要もねえし、極論、3人でもいい》
秋月が席につき、隣の椅子をひいてイチカを座らせた。気が楽になった私はまたミーチャの腕をぽんぽんと叩いたけれど、彼の怒りは収まらなかった。
「やっぱりまりえは身を差し出そうとする」
「ごめんなさい」
根本では彼が恐怖と闘っているのだとわかり、素直に謝った。ひとまず安全が保証されたからか、彼の腕は私の手で充分動かせるようになり、私はお詫びの気持ちを込めて、手の甲にさっと口づけた。天井を見あげていたイチカの隣で、秋月が目を瞠った。
見られても気にしない。大切なのは、ミーチャの心。傷つきやすい彼の心だ。
意外にも、話を戻したのは秋月だった。なんでもない様子で目を逸らし、頬杖をつくと、ロザリオをつまんで目の前にぶらさげた。
「ということは、一人は常に戦闘に回れるのか」
《ああ。そもそも影響をうけないお前が適任だと思うけど、馬力の面ではルートを投入って手もありだ。ただ……不調を感じたらすぐ引いてくれ》
「ベストを尽くします」
ルートからは年齢よりもひどく幼い、もっと言えば知的障害者の雰囲気を感じる。最初の部屋で見たイチカの叱り方は、動物の訓練のようだった。ニコラを失い精神の均衡が崩れてしまったのかもしれない。
《解除の合図は、さっきのスイッチを長押ししてくれ。2秒以上だ》
「僕らの力を有効活用したほうがいい場合もある」
腕をといたあと、彼はテーブルの下で手を握ってきた。つかまえるようでもあったし、すがるようでもあった。私は親指でごつごつした関節を撫でていた。そんな彼の声は冷徹で、おっとりした口調でも力強い。
《基本はお前たちに従う。極端に離れた場所だったり、状況によって判断してくれ。イチカとドミトリーから同時期に合図があった場合は、緊急要請扱いで即解除する。だから変に交換するなよ》
「わかった」
《俺からの説明は以上だ。このまま回線は繋いでおくから、戦闘プランを練ってくれ》
秋月が立ち上がり、ホワイトボードを引いてくる。既に一度使用したらしく、四隅に黒い汚れ残っていた。秋月は一度ペンを置き、四隅の汚れを綺麗にしてから改めてキャップを捻った。
「陣を組んでいるのを悟られたくない。狙いはイチカだ。ルートが護衛、俺が攻撃手を装う。ドミトリーは───」
「一花ですッ☆」
秋月の真剣な声に対して、イチカは照れ笑いにゆるむ頬をぱしんとてのひらで挟み、身を捩って別のペンで名前を書いた。少女は、確かに日本人に見える。そんな事があるのだろうか。薬として遺伝子配合され、作られて、保護されてここにいるはず。
私が考え込んでいる間に、ミーチャも含め闘いに備え集中していた。私はなぜか、玄江が中立的な立場であるような気がした。指示を出している以外、彼は比較的好意的で、信頼されているようだったし、なにより冷静だ。
私は席を立った。
視線が集中するなかで、ミーチャの手が力強く私の腕を掴んだ。
「お手洗いに行きたいの」
だとしてもこの手は離せないと言うように、親指がごしごしと肘の内側を撫でた。私が、と日本語で小さく言ってユーリアが立ちあがる。ひろの、という名前のはずだ。日高が親友だと言っていたのを思い出した。私は微笑を返した。
「だいじょうぶだと思います。来る途中にパネルを見たし、道を間違えても彼が教えてくれるだろうから」
そう言って天井を指差す。イチカは出入り口のひとつを指差して、詳しく場所を教えてくれた。
「そこを右に出てふたつ目の角を左がいちばん近いです」
「ありがとう」
秋月が説明を再開する。恥ずかしそうに目をそらしながら笑って見せると、ミーチャも渋々、手を離してくれた。
けれど私は、ふたつ目の角を越え、走り出した。
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