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天井と壁のつなぎ目からいくつも視線を感じ、足をゆるめる。注意深く見てみるけれど、人や動物の気配はない。ただ、私を追っている。
《なんだ》
玄江の苛立った声が左上からふってきた。身を返し、私をとらえているはずの監視カメラに見当をつける。向こうの声が聞こえるからと言って、こちらの声が届くとは限らない。できるだけ口をゆっくり、はっきり動かした。
「あなたと話したいの」
返ってきたのは、沈黙だった。私がおかしな行動をとったと、彼らに伝えているかもしれない。けれど、その場合の覚悟をし始めたとき、はるか先の通路で照明が消えた。
《左側を使え。一階だ》
気が逸りまた走ろうとすると、その声がゆらいだ。
《歩いて来い》
苛立ちと疲れを聞き取り、従うことに決めた。
白く明るい通路は一見、とても洗練された印象を与えるけれど、実は埃っぽい。歩いていると足にも滑るような感覚がある。長く掃除をしていない、旧校舎のようだ。校舎にしては少し、設備が近代的すぎるけれど。
指示された場所の近くにエレベーターが3機あり、向かって左側がすでに口をあけて待っていた。乗り込み、一階のボタンを押す。この建物に入ったときと、部屋を移るときに使った物より、いま乗っている箱ははるかに大きく豪華だ。20人は余裕で乗り込める。けれど、本来あるべき積載量の表示がない。とても静か。試しに天井を見ると、螺鈿細工に似た色彩の四角形が描かれていた。
音が鳴り、箱が止まる。
降りると、前方に楕円形の自動ドアが見えた。最初に彼と開かないことを確かめた場所だ。殺風景なエントランスホールは、上と違い非常灯が申し訳程度についているだけで、観葉植物とソファーの群が異様に淋しくて怖い。ここには命がない。空っぽなのだ。
不自然にひとつだけ、明りがついた。この角を曲がれという意味だととらえ、回り込むようにして細い通路に入る。道なりに少し歩くと、壁の上半分が総窓の広い部屋が現れた。扉が開けっ放しになっていなくても、迷わず足を踏み入れたと思う。たくさんの機械が並ぶなかで、その男性はひとり黙々と作業していた。
為替取引のニュースで見かける電光掲示板をもっと増やしたような配置で、たくさんのモニターに部屋や通路が映し出されている。その真下にある機械は設備の装置のはずだ。他にも何十台というパソコンが起動し、唸りを上げていた。男性はそのひとつに夢中で、こちらを見ずに言った。
「話ってなんだ」
ぶっきらぼうだけれど、取り合ってくれる優しさがある。
「さっきはごめんなさい。その、中断させてしまって」
玄江はがばっと顔をあげ、私を見た。驚いたような表情を浮かべている。スパイスを思わせるひきしまった顔立ちと、短い猫っ毛、それに黒を基調としたジャケットスタイルがモードな印象を引き立てている。さっきはまったく余裕がなかったけれど、こうして落ち着いて対峙してみて、驚いた。このひとの職業はモデルではないだろう。もしそうなら、私は業界人失格だ。
「具合は?」
「えっ」
まるで仲のいい友人のように心配され、戸惑う。
「っつか、さっきは俺がごめん。ほんとに。そのことか?」
ひとしきり額をさすり、男性は憔悴も顕に改めて私を見あげた。戸口に立ったまま、私は大きく手をふった。このひとにまで余計な罪悪感を抱かせていると知り、居た堪れなくなってしまった。
「違います。もう本当に、なんともありません。元気です」
「無理するなよ?」
「ありがとうございます。平気です」
「何かあるときは早めに言えよ、絶対。絶対」
念を押され、頷くしかなかった。私が何度も頷いた後で、玄江はパソコンの画面に目を戻した。目に見えて緊張感と冷静さが顔色を塗り変えていく。それは声にも現れた。
「で、話って」
切り替えの早さが、かえってありがたい。私は単刀直入に訊ねた。
「お兄さんに連絡がとりたいの」
男性がマウスを滑らし、カチ、とクリックしている。
「それは、難しいな」
「どうしても確かめたいことがあるんです」
「今じゃなきゃダメなのか」
「できるだけ早く」
何か操作をしてから、玄江が答えた。
「明日、劇場で会うんだろ?」
それはとても非現実的な予定に思えた。もちろん、もっと非現実的な今の状況から考えるとという意味だけれど。私は首をふった。
「その前に。彼に気づかれないうちに知りたいの」
「彼?」
出会って間もない玄江の前で、親しげに呼ぶのは憚られる。
「ドミトリーさん」
うーん、と男性は唸った。それきり黙りこみ、手元の作業に没頭してしまう。けれど、このひとは何か重要な役割を担いこうして制御室のような場所に陣取っているのだから、無関係ということはあり得ない。そこで私は、訊ねてみることにした。本当はお兄さんに確かめたかったけれど、ヒントは少ないより多いほうがいい。
「船の事故について、なにか知っている?」
玄江の眉がぴくりと動いた。機嫌を損ねてしまった。少し、怖気づく。
「どの、船の事故だ」
私は一瞬ぽかんとした。それから、いちばん最近の船の事故を思い出し、焦ってしまう。短い間とはいえ、どうして忘れられたのだろう。長谷が命を落としかけ、日高が家族を失い、私の人生を変えた旅船の事故。今となってはとてつもない秘密が隠されているとしか思えないその事故だけれど、知りたいことなんてひとつもない。私は呼吸を整えて、毅然とした態度を保った。
「彼が子どもの頃に遭った事故」
《なんだ》
玄江の苛立った声が左上からふってきた。身を返し、私をとらえているはずの監視カメラに見当をつける。向こうの声が聞こえるからと言って、こちらの声が届くとは限らない。できるだけ口をゆっくり、はっきり動かした。
「あなたと話したいの」
返ってきたのは、沈黙だった。私がおかしな行動をとったと、彼らに伝えているかもしれない。けれど、その場合の覚悟をし始めたとき、はるか先の通路で照明が消えた。
《左側を使え。一階だ》
気が逸りまた走ろうとすると、その声がゆらいだ。
《歩いて来い》
苛立ちと疲れを聞き取り、従うことに決めた。
白く明るい通路は一見、とても洗練された印象を与えるけれど、実は埃っぽい。歩いていると足にも滑るような感覚がある。長く掃除をしていない、旧校舎のようだ。校舎にしては少し、設備が近代的すぎるけれど。
指示された場所の近くにエレベーターが3機あり、向かって左側がすでに口をあけて待っていた。乗り込み、一階のボタンを押す。この建物に入ったときと、部屋を移るときに使った物より、いま乗っている箱ははるかに大きく豪華だ。20人は余裕で乗り込める。けれど、本来あるべき積載量の表示がない。とても静か。試しに天井を見ると、螺鈿細工に似た色彩の四角形が描かれていた。
音が鳴り、箱が止まる。
降りると、前方に楕円形の自動ドアが見えた。最初に彼と開かないことを確かめた場所だ。殺風景なエントランスホールは、上と違い非常灯が申し訳程度についているだけで、観葉植物とソファーの群が異様に淋しくて怖い。ここには命がない。空っぽなのだ。
不自然にひとつだけ、明りがついた。この角を曲がれという意味だととらえ、回り込むようにして細い通路に入る。道なりに少し歩くと、壁の上半分が総窓の広い部屋が現れた。扉が開けっ放しになっていなくても、迷わず足を踏み入れたと思う。たくさんの機械が並ぶなかで、その男性はひとり黙々と作業していた。
為替取引のニュースで見かける電光掲示板をもっと増やしたような配置で、たくさんのモニターに部屋や通路が映し出されている。その真下にある機械は設備の装置のはずだ。他にも何十台というパソコンが起動し、唸りを上げていた。男性はそのひとつに夢中で、こちらを見ずに言った。
「話ってなんだ」
ぶっきらぼうだけれど、取り合ってくれる優しさがある。
「さっきはごめんなさい。その、中断させてしまって」
玄江はがばっと顔をあげ、私を見た。驚いたような表情を浮かべている。スパイスを思わせるひきしまった顔立ちと、短い猫っ毛、それに黒を基調としたジャケットスタイルがモードな印象を引き立てている。さっきはまったく余裕がなかったけれど、こうして落ち着いて対峙してみて、驚いた。このひとの職業はモデルではないだろう。もしそうなら、私は業界人失格だ。
「具合は?」
「えっ」
まるで仲のいい友人のように心配され、戸惑う。
「っつか、さっきは俺がごめん。ほんとに。そのことか?」
ひとしきり額をさすり、男性は憔悴も顕に改めて私を見あげた。戸口に立ったまま、私は大きく手をふった。このひとにまで余計な罪悪感を抱かせていると知り、居た堪れなくなってしまった。
「違います。もう本当に、なんともありません。元気です」
「無理するなよ?」
「ありがとうございます。平気です」
「何かあるときは早めに言えよ、絶対。絶対」
念を押され、頷くしかなかった。私が何度も頷いた後で、玄江はパソコンの画面に目を戻した。目に見えて緊張感と冷静さが顔色を塗り変えていく。それは声にも現れた。
「で、話って」
切り替えの早さが、かえってありがたい。私は単刀直入に訊ねた。
「お兄さんに連絡がとりたいの」
男性がマウスを滑らし、カチ、とクリックしている。
「それは、難しいな」
「どうしても確かめたいことがあるんです」
「今じゃなきゃダメなのか」
「できるだけ早く」
何か操作をしてから、玄江が答えた。
「明日、劇場で会うんだろ?」
それはとても非現実的な予定に思えた。もちろん、もっと非現実的な今の状況から考えるとという意味だけれど。私は首をふった。
「その前に。彼に気づかれないうちに知りたいの」
「彼?」
出会って間もない玄江の前で、親しげに呼ぶのは憚られる。
「ドミトリーさん」
うーん、と男性は唸った。それきり黙りこみ、手元の作業に没頭してしまう。けれど、このひとは何か重要な役割を担いこうして制御室のような場所に陣取っているのだから、無関係ということはあり得ない。そこで私は、訊ねてみることにした。本当はお兄さんに確かめたかったけれど、ヒントは少ないより多いほうがいい。
「船の事故について、なにか知っている?」
玄江の眉がぴくりと動いた。機嫌を損ねてしまった。少し、怖気づく。
「どの、船の事故だ」
私は一瞬ぽかんとした。それから、いちばん最近の船の事故を思い出し、焦ってしまう。短い間とはいえ、どうして忘れられたのだろう。長谷が命を落としかけ、日高が家族を失い、私の人生を変えた旅船の事故。今となってはとてつもない秘密が隠されているとしか思えないその事故だけれど、知りたいことなんてひとつもない。私は呼吸を整えて、毅然とした態度を保った。
「彼が子どもの頃に遭った事故」
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